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隣にいること

それって当たり前のようで難しいこと。

最近、つくづくそう思います。
家でも職場でも電車内でも、
完全に1人の空間をつくらない限り、
私達は物理的に誰かの隣にいます。

物理的、には。

ただ、それは「隣に在る」ということであって、
「隣にいる」のではないと感じます。


私にとって「隣にいる」ということは、
隣にいる者同士がお互いを認識した上で、
相手の傍に存在する事、です。


例えば。
電車に乗車します。
席が空いていたので座りました。
乗車駅の次の駅で乗り込んできた男性が、
あなたの隣に座ります。

これは「隣に在る」という状態です。
隣に座った人のことを認知*1した状態です。

もう一例。
あなたには大切な人がいます。
その人と幾多もの言葉を交わし、触れ合い、
互いのことを理解しようとしています。
互いの隣に居らずとも、
互いを慈しみ、思いやり、
互いに寄り添っています。

これは「隣にいる」状態です。
つまり相手を、互いに認識*2しているという事です。


*1認知...ある事柄をはっきり認めること。
*2認識... その事柄についての意義や本質を理解すること。


「ある」と「いる」の使い分けは、
「物」と「人」に対して使うのが、
日本語として正しいのですが、
私は「人」に対して両方とも使います。

他者から「そばにいるよ」と言われる事があると思いますが、
私はこの言葉を貰った時、
「この人はどう言った意味で"そばにいる"と言ってくれているのか」
と考えます。

もちろん自分がその言葉を使う時も。

本当に、
相手のことを理解する覚悟と
相手に自分の心を開く覚悟があるのか。

その覚悟がないなら、
「隣にいる」「そばにいる」とは言えません。

だって、
覚悟なしでその人の心に踏み入って居座るなんて、
不誠実だし烏滸がましいじゃないですか。
たとえ相手が家族や恋人、親友でも。

私は、常に、
人と誠実な関係を築きたい。
深い関係を築きたい。
私と同じような関係を築きたいと思ってくれた人とは、特に。
そう思ってくれた人には、
「そばにいたい」。

物理的にそばにいることが難しくても、
その人を理解している。
理解する、ということは、
近くにいるよりも心強いはずだから。

相手のことを理解するのは、
口で言うよりも何倍も難しいです。

でも、
本当に大切にしたい人であれば、
それくらい苦じゃないはず。
自分が相手を理解しようとすればするほど、
相手も自分を理解しようとしてくれます。

それが、
「互いに隣にいる」
って事なんじゃないかな。

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って、自分を言い聞かせる記事でした笑
会社の人間関係がどうも苦手で。
自分自身、
仕事は仕事だからってきっぱり分けられないし、
中途半端な人間関係が存在してる空間が耐えられなくて。

全員とちゃんとした関係を築くなんて難しいから、
分けた方が楽なですけどね。

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