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教育イノベーターとは何者か? :教育イノベーターよ、〈教育者〉 たれ【活動】

FEIS
初めて耳にするという方も少なくないだろう。
FEIS とは、Future Education Innovator’s School  の略語である。

日本語にすれば、未来の教育イノベーターズ・スクール。
始動して3年目の歴史の浅い団体である。
しかし、FEIS の行っていることは、かなり意欲的だ。

人間社会の中枢に位置しながら 課題が山積している〈教育〉に、
イノベーション〉を起こすことで新たな地平を拓いてゆける
教育イノベーター〉の育成

がFEIS の目指すところである。

教育イノベーターとは?

教育イノーベター。これまたほとんどの方が初耳だろう。

至極当然。この造語は FEIS 以外ではまだほとんど使われていない。
そのため、明確な定義が存在する語でもない。

だが、語の成り立ちを鑑みても、最も自然な〈教育イノベーター〉の説明は、「〈教育〉分野にイノベーションを起こす〈イノベーター〉」だといえよう。
そして、日本に輸入される際、「技術革新」という狭義の innovation へと縮小されたイノベーションが、多分野で叫ばれるようになっているこの時代、「教育にもイノベーションが不可欠」「今こそ、それを起こせる〈教育イノベーター〉を」という主張は、〈教育イノベーター〉のこれ以上の輪郭の提示や咀嚼なしに、多くの方に理解いただけるのではないだろうか。

しかし、私はこのような〈教育イノベーター〉の釈義には隔靴掻痒の感が拭えない。

もし、上述のようにだけ〈教育イノベーター〉を語ったならば、〈教育者〉であることは〈教育イノベーター〉の要件ではなくなってしまうからである。

教育イノベーターと教育者

無論、「〈教育〉分野にイノベーションを起こす人」=〈教育イノベーター〉という図式そのものの転覆を企図しているのではない。

具体的に、「〈教育〉分野にイノベーションを起こす」ことに成功した人物を想定してみよう。
おそらく、その人が〈教育者〉であったかに関わらず、後世の人は、上の図式に則りその人を教育イノベーターと呼ぶであろう。
確かに事後的にはそれで一向に構わないと思う。

だが私たちは今、教育イノベーションに挑む立場である。
その位置においては、〈教育者〉としての〈教育イノベーター〉を甘くみてはならないように思われてならないのだ。

道徳概念としての教育者

とはいえ、このように主張するにはまず〈教育者〉という言葉で私が何を指しているかを示しておく必要がある。

辞書を引いてみれば、〈教育者〉はだいたい「教育に携わる者」といった、教育関係者=教育者のような仕方で説明がなされている。

だが時折、「真の教育者」といった表現が使われるように、〈教育者〉という表現をした際、私たちは何かしらの条件をつけていたり、期待を込めている場合が多い。
すなわち一般的に、教育に携わっているという事実は〈教育者〉の必要条件であるが十分条件ではないとされているのである。
教育関係者であっても、犯罪を行っているような人であれば、〈教育者〉と呼ぶことにみなさんも違和感を覚えられるのではないだろうか。

〈教育者〉は、ある種の道徳用語として使われていると言って良いかもしれない。

それに、字義的な意味であれば教育関係者などで代用がききはしまいか。

この点も踏まえ私は、道徳概念としての〈教育者〉という路線を推していきたいと考える。

〈教育者〉とは?

しかし、これは前提でしかない
具体的に〈教育者〉像を特定するためには「道徳観」を導入する必要がある。

これが非常に厄介である。
というのも、道徳観は時間・空間によって異なるし、個人単位でさえ違っている。
また仮に「絶対的な道徳」なるものがあったとしても、それを我々が認識することはまず不可能である。

そんな「道徳観」を持ち出すやいなや、論争が勃発すること想像に難くないだろう。

例えば、私の道徳観を投入して〈教育者〉を説明すると、
長期的・巨視的な視座を持った上で、いまここで目の前の人に真摯に向き合おうとできる人物
といった具合である。

簡単な例を挙げておくとすれば、
相談された相手は「そうだね」という共感を求めているが、それでは問題の本質的な解決に繋がらないので、未来のその人のためにも、目を背けている点を突くことを厭わない。
こんなイメージだ。

上述の説明が誰もに納得いただけるわけはない。
だが、ここに立ち止まるわけにはいかないし、第一その必要もないだろう。

思うに、みなさんの道徳観から導出した〈教育者〉に基づいて、次の節を読んでいただいても、大きな齟齬が生じはしない。

教育イノベーターよ、教育者たれ

《教育=サービス》という今の社会では当たり前の図式である。
だが、今の教育問題にこの構図が大きく関わっていることは疑いようがないだろう。

簡潔に述べれば、〈教育者〉的精神は資本主義的パラダイムでは抜け落ちてしまいがちなものであり、現にその歪みとして多くの教育問題が浮上していると私には思えてならないのである。

だからこそ、そんな〈教育者〉的精神はすくい上げていかねばならないと思うし、何より〈教育イノベーター〉の本領は〈教育者〉であって発揮されると思わずにはいられないのである。

イギリスの諺に「われわれは道徳堅固でトラファルガーの海戦に負けるネルソンを持つよりは、ハミルトン夫人と姦通をしても、トラファルガーの海戦に勝つ将軍を持つ方が幸せである」とあるように、〈教育者〉であることなど結局は問題にならないのかもしれない。

それでも、必ずしも対人のレベルで教育に携わるとは限らない〈教育イノベーター〉であっても、やはり〈教育者〉であるべきではないか、とここに私は提起したい。

みなさんはどのように考えられるだろうか?

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ざわけん/大澤健
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