それでも医者はなお、殺人犯の命をも救うべきなのか?
最近、かの痛ましい京都アニメーション放火殺人事件に関連したニュースをよく目にする。
青葉容疑者が全身やけどの状態から奇跡的に快復を遂げ、供述を始めているらしい。
去年の7月に起きた事件だから、あれからもう10か月経つことになる。
今年に入ってからはコロナ騒動があって意識がすっかりそちらの方に向いてしまっていたが、やはりあの事件を思い返すたび、胸がずきん痛くなる。
ニュースによると、青葉容疑者のやけどの状況では死亡率が95%以上だったという。
治療にあたる医療関係者の心境に思いを馳せ、またさらに胸が痛くなる。
自分がもし医療関係者であったなら、とても複雑に違いなかった。
なぜなら、平成以来最悪ともいえるほどに多くの人命を奪った、まさにその殺人犯の人命を救うことになるからである。
自分が医療関係者ならば、正直、その任務は引き受けたくないと思う。
医療の目的はその人間の過去の言動とはまったく無関係に(善人であろうが悪人であろうが)等しく人命を救うことにあり、無条件に命の尊厳を礼賛するという暗黙の前提が横たわっているからだ。
ここに、もやもやが残る。
人命に尊厳があるならば、すべての人命は尊重されなければならないはずだが、殺人犯の人命に対しては軽んじてもよいという自己矛盾が存在している。
悪を犯した人間の命は、それでもなお尊ばれるべきなのだろうか?
それでも医者はなお、殺人犯の命を救うべきなのか?
医療は目の前の一個の人間の治療に専念しなければならない。
僕は弱い人間なのでそれはできないかもしれない。
だから倫理を仕事の対象外として延命業務に専念できる医療関係者の方々は本当にすごいと思うし、尊敬の念が起こってくる。
今回治療に携わった医師の一人がこのように話していた。
「青葉容疑者の治療に力を尽くしたのは、被害者と真相解明のためだ。罪に向き合ってほしい」と。
そして他方、容疑者の方は
「他人の私を、全力で治そうとする人がいるとは思わなかった」
とも話しているという。
たとえば、死刑制度についても根っこは同じだと思う。
人命が平等に尊重されるべきであるならば、死刑はまた否定されなければならないし、死刑は国家が合法的に殺人を犯すという矛盾をはらんでいる。
もし、すべての人間に等しく人命の尊厳があるならば、
あるいは、大前提として、どんな人も生きる権利を有しているのであれば、
たとえどのような経緯で罪を犯したとしても、その人間は反省し、更生する可能性と権利を有している、
ということを認めなければならないだろう。
つまり、人間の命の尊さを考えたとき、罪を犯した人間も「生きる意味と理由」を持っているということになる。
しかしここに、釈然としない「何か」が残る。
それは言語化しにくい「何者か」なのであるが、
おそらくその原因は2つの事象が入り混じっていて
1つは、人命を尊重するがゆえに、そのような人命が失われたことに対して人命の尊さを上回るほどの怒りや悲しみの感情が暴走して、犯人に向いて襲いかかってしまうということ。
そしてもう1つは、そのような暴走によって、たとえ犯人の人命が失われようとも、
すべての人間の命は無条件に尊重されるべきだ(だから殺人犯の命も奪われてはいけない)と「待った」をかけるほどの、明確な、きわめて明瞭な”生きる意味”を人類が持ち合わせていないということである。
「殺人はいけない、でも、殺人犯は死刑にすべき(あるいは延命されるべき)」
という私たちの気持ちの裏側には、
「よくわからないけど、人命は尊い」
という薄っぺらなものが含まれている。
先のもやもやの正体は、その根っこを辿っていくと、この薄っぺらさへと行き着いていく。
このもやもやの正体をまず知り、犯人を糾弾する前に、自分自身が生命の尊厳さに対してどのように、どのレベルで、どのような深さで認知しているのかを見つめていく必要があるのだろう。
医療従事者への感謝と尊敬の念とともに、事件の進捗を冷静に見守っていきたいと思う。