突然ですが、終活はじめました
先日、仏教の話を聞きたくなって講話にお参りしてきた。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の教えについてで
内容は「悩んでいる人を助けるには、まず自分がどのような心でなければならないか」というもので、感動しきりだった。
3月はボランティア活動に励んでいたので、ぜひ聞かせて頂きたいタイムリーなお話だった。
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実はあまり知られていないことだけど(とりたてて口外もしていないのだが)
僕が仏教に出会ったのは幼稚園の頃で、早熟だった。両親が「困ったときにはこれを唱えるといいよ」と般若心経を教えてくれて、よく口ずさんで暗唱していたものだった。
両親が外出して一人きりになったときは、オバケが出るのではなかろうかと恐くなり、般若心経をぶつぶつ唱えながら、リビングのテーブルのまわりを早足でグルグルと回る儀式を執り行い、そのような幼少期を過ごしていた(笑)
好きな言葉は「色即是空 空即是色」
(当時は意味が分からなかったけど、なんとなく響きがカッコイイから…笑)
それから時が流れ、高校のときには倫理で仏教を勉強し、大学のときにはインド哲学の授業をとったり仏教の法話を全国各地に聞きに行った。(一時期、頭を丸めた)
そんな中で、人生観が一変したのは、冒頭の親鸞聖人の教えだった。主著『教行信証』には仏教の真髄が余すところなく収められている。(無人島に一冊だけ持っていけるならこの本と決めている)
なぜ僕が仏教にひきつけられたのか?
それは「死」の問題とその解決がテーマとなっているからだと思う。
仏教を開かれたお釈迦様や、歴代の高名な僧侶方が常に問題にされていたのは
「人間に生まれてきた意味は何か?」
であり、その解決の糸口を「死」に求めてきた。
親鸞聖人も両親を幼少の頃に亡くされたことを機縁として、わずか9才(!)にして後生の問題の解決を求めて出家されている。
そのときに詠まれたと伝えられる歌が、かの有名な
「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」
(今を盛りと咲く花も一陣の嵐で散ってしまうように、人の命は桜の花よりも儚いものだなぁ)
お釈迦様も、わが身に迫る無常(死)に驚いて、ついに29歳のときに裕福な城を抜け出して出家されたと伝えられている。
では仏教における死の問題の解決とは?
それは「死ななくなる」ということではなく、「人は必ず死んでいかなければならない」という100%確実な事実を冷静に見つめたときに、
「死への不安とどのように向き合っていくか?」
という、本当の意味での"心の幸せ"であった。
新型コロナウイルスが恐いのはその背後にある死が恐いからで、死と生は表裏一体の関係になっている。
――死は生の対極としてではなく、その一部として存在している――村上春樹『ノルウェイの森』
「死」への不安が陰に陽に「生」に鬱屈とした影を落としているから、人間は心の底から喜べないし、人間に生まれた意味が分からないのではないか?
このような問題提起を人類に投げかけたのが偉大な哲学者ハイデガーであり、その解決方法まで踏み込んだのが、宗教家兼哲学者(といって差し支えないと思う)釈迦だった。
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大学生や社会人になってからも仏教の勉強は続けていた。
でも、いつの間にやら仕事が忙しくなり(と言い訳して)、ここ数年は中断してしまっていたので、再開していこうと思う。
コロナウイルスの件で死が身近に感じられてきたというのもあるけれど、
「無常の前では皆同い年」と言われるように、若くてもいつ死ぬか分からない人生だから、自分や大切な人の命を大切に、一日一日を感謝して生きていきたいと思う。
暗い「死」をあえて見つめていくことで、明るい「生」がキラメキだすと信じている。
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そういえば最近、母親が「うちの家、改宗するから!」と唐突に言ってきた。
先祖代々、連綿と受け継がれてきた実家の日蓮宗がなぜかサラリと浄土真宗に改宗することになったのだ(笑)
ひょっとしてこれは「襟を正して仏教の教えを聞きなさいよ」との、お釈迦様や親鸞聖人からの心暖かいお告げなのかもしれない!?と思いつつ…
そのようなわけで、終活はじめました。