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散歩と雑学と読書ノート


千歳川とインディアン水車


北竜町のひまわりの里(8月15日 撮影)


8月15日のひまわり 「世界に平和を!」



精神科臨床の現役を引退してから二年を過ぎた。さすがに仕事のオファーもこなくなった。自分では少し意外であったがこの間にもう一度現場に戻りたいという気持ちは浮かばなかった。もう臨床の現場に戻ることはないだろうという気がしている。精神科専門医の再申請も断念した。しかし精神医学に関する関心がなくなったわけではもちろんない。後ほど読書ノートのところで少し精神医学のことにふれてみたいと思っている。

約52年間の現役時代を通じて、私はずいぶんたくさんの患者さんからさまざまな話を聞かせてもらった。カルテには患者さんの話を中心に速記のように書きつけて、後で読むのに苦労することもしばしばあった。看護師さんの方が読むのに慣れていた。

引退した後でも私は患者さんとの会話を懐かしく思い出したり、当時の対応の仕方を反省したりすることがある。また夢の中で対応に困惑している自分を再現されることもある。

今は以前のように患者さんの話を聞くことができなくなったことへの寂しさを感じている。

そんな私にとってはとても嬉しい体験だが、現役時代に患者さんであった人たちが散歩の途中や、喫茶店の中で声をかけてくれることがある。始めの頃は「先生まだ働くところが見つからないの」「何かしていないとボケると」と心配してくれたりもした。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

ところで、私は現役を終えるころには、自分が時代遅れの精神科医になりつつあることを自覚していた。

たとえば、統合失調症から発達障害へと精神科医の関心の中心が移行していくにつれて私は少し違和感を意識するようになった。発達障害が悪いのではもちろんないそう診断されてほっとされたり、いままでの生きずらさが理解できるようになったと述べる人たちがいることはとても意義深いことだ。

ただ私は確信をもって発達障害(自閉症スペクトラムやADHDなど)の診断をすることに困難を感じていて躊躇することがあった。そのために患者さんからおしかりを受けることもあった。

これまで統合失調症は本当に病なのかと疑問を呈せられることもあったが、私は精神科医として病と位置付けて対処してきた。ただ発達障害に関しては病とすることにかすかな違和感を感じている。近年は正常からのスペクトラムという捉え方をしようとしているがなるほどと思える前進である。しかしそれは臨床の現場には必ずしもそぐわない認識のしかたであると私には思える。臨床では対応するべきことには一定の線引きが必要だからだ。

さらにもう一つ付け加えれば、詳しく述べる余裕はないが、専門家から発せられる薬物療法に関するさまざまな意見に対しても私は多少の違和感を感じていた。そのためにしだいに薬物を安心して出せない心境になりつつあった。私は残念ながらじょじょに時代の流れから取り残されていったようだ。

読書ノート

前回まで3回にわたって「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」の読書ノートを書いてきた。今回はお休みいただくことにしてあったが、この松岡正剛と津田一郎による対話に精神科医の立場からきちんと意義深いコメントをできる人物をと思い浮かべるとしたら、私は元愛知医科大学精神科学講座教授の兼本好祐氏以外にはいないだろうと勝手に思っている。

もっとも、兼本は複雑系を問題にしているが、私の読んだ範囲では津田の脳のカオス理論には触れていないし、もちろん彼がこの著書に関心を示すかどうかもわからない。

今回の読書ノートでは予告してあった本とは異なるが、まず上に名前を挙げた兼本の著書の一端に触れておきたい。次に私がずっと関心を持ってきた依存症と食欲との関係にまつわる日経サイエンスの記事に触れてみたいと思う。

付記
 8月22日の北海道新聞の記事で「科学と生命と言語の秘密」の著者である松岡正剛氏が死去されたということを知って、私は強いショックを感じている。肺炎で死去されて、80歳であった。ご冥福をお祈りいたします。

1 兼本好祐の著書について


  兼本の主な著書

私は兼本の論文、「意識障害とは何かー精神医学的意識障害の再評価の試みー」(精神神経学雑誌、2004、第9号)に強く関心をひかれて以来、私の問題意識と重なる点が多くある彼の主な著書をフォローしてきた。

兼本は1957年生まれ。京都大学医学部卒業。愛知医科大学精神科学講座教授を2023年に退官。専門は精神病理学、神経心理学、臨床てんかん学である。

私の手元にある兼本の著書をまずあげておきたい。

「心はどこまで脳なのだろうか」(医学書院、2011)、「脳を通って私が生まれるとき」(日本評論社、2016)、「なぜ私は一続きの私であるのか ベルグソン・ドゥルーズ・精神病理」(講談社選書メチエ、2018)、「発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること」(講談社選書メチエ、2020)、「普通という異常 健常発達という病」(講談社現代新書、2023)、「最終講義:心因と外因を一人の精神科医が診察することの難しさ」(星和書店、2024)の6冊である。

はじめに挙げた「心はどこまで脳なのだろうか」「脳を通って私がうまれるとき」「なぜ私は一続きの私であるのか ベルグソン・ドゥルーズ・精神病理」の三冊の著書は共通したテーマに基づいて書かれているとみてよいだろう。われわれが「心」と呼ぶ現象を「意識」や「私」ないし「主体」という見方を中心において、それらのあり方をどこまで「脳」の働きとして導き出せるかという問いかけがそのテーマである。

私はとくに「心はどこまで脳なのだろうか」というタイトルに魅力を感じる。それは言い方を変えて「私は脳の中にいるのだろうか」としてもよいだろう。このことは私が精神科医として臨床に従事しながらずっと考えてきたことでもある。私がこのnoteで時々紹介させていただいている自著のタイトルを「こころの風景、脳の風景」としたのはそうした私の関心を反映している。

  心と脳(心はどこまで脳なのか)

私は、「こころ」と「脳」の関連性に関して、「意識」や「私」の生成を脳がどのようにおこなっているのかということを含めて別な機会にまとめてみたいと思っている。そこでここでは、兼本の述ることに少し触れるにとどめておきたいと思う。

兼本はエーデルマンやダマーシオの意識論を手掛かりに「意識」とはなにかを論じる。エーデルマンに関しては前回の記事でも少し触れたが、神経ダーウィニズム、ダイナミック・コア仮説などで知られている。

ダイナミック・コア仮説の中核をなすのは皮質ー視床間や皮質ー皮質間で双方向に濃密な再入力の渦が刻一刻と生じることで瞬間瞬間の性質をおびているが知覚的な表象が生じコア意識が生まれるという仮説である。兼本はこの再入力の渦を最も重要な現象と捉える。そのうえで複雑系の科学者である池上高志の提唱するサンドイッチ理論をとりあげて補足する。

サンドイッチ理論とは、複雑系を構成する媒介項を、二つの次元が異なる事象の間に介在させ、次元の違う事象同士が結びつくメカニズムを説明する理論である。兼本はサンドイッチの二枚のパンを「脳」と「心」と捉え、そのパンが挟む具材を「再入力の渦」として考察する。再入力の渦は,ニューロンの活動であると同時に複雑系として心が持つ情報(表象)を創発すると兼本は述べている。そこでは津田一郎のいう「脳のカオス」が発生しているとみなしてよいだろうと私は考える。

兼本はさらに池上のこのサンドイッチ理論とベルクソンが「物質と記憶」のなかで述べる縮約と同じものと指摘する。つまり再入力の渦と縮約を等価とみなせるというのである。私は以前このnoteで「幻覚」に関して考察した時にベルクソンを参照したが、現在ベルクソンをとりあげて興味深い考察をおこなっている精神科医はわが国では兼本以外には見当たらないと思う。私はその点においても兼本を評価したいと思う。

外部を表象(イマージュ)として立ち上げながら生じる「意識」の脳内での場所と「私」の場所とがまったく同じとはいえないだろうが「意識」と関連して脳内に「私」や「主体」が浮かび上がってくる。その場所は領域横断的な大脳の領域なのだろうか。どのようにその「私」は一貫性を保てるのだろうか、兼本が問いを発する問題には未解決の謎が渦巻いている。

ところで「心」と「脳」の間に生じる距離感に関して兼本は「最終講義:心因と外因を一人の精神科医が診察することの難しさ」のなかで重要な指摘をおこなっている。

兼本は古い話に聞こえるだろうが精神科医が基本的な参照枠にすべきことに、心因、内因、外因の区別(鑑別)がある。としたうえで、この順番で「心」と脳との距離が近くなり、脳による直接的な因果性もこの順番で大きくなっていることに留意すべきだという。精神科医は基本的には了解と対人距離を生業とする職業であると考えるが、脳に近い外因性の精神疾患の場合には了解を断念してただちに治療をかからなければ命に直結するケースもあるという感覚を持っている必要性があると兼本は述べている。
精神疾患の病態において脳が関与しているとみる場合にはそれがどのような深さで、あるいはどのような近さでの関与なのかに目配りが必要であるというのが兼本の重要な意見である。

  発達障害について

(1) 「発達障害の内側から見た世界」

兼本は「発達障害の内側から見た世界」のなかで、自ら が発達障害の一つである「発達障害性協調運動障害(DCD:developmental coordination disorder)]であることを最近になって知ったと述べている。結果としてはこの障害を無害化できたが、小学生の頃は体育が苦手で、逆上がりがどうしてもできず、跳び箱も難しかった、またバレーボールや野球も苦手であったし、さらに給食をみんなと同じように取れなかった。大人になってからはネクタイを長い間うまく結べなかったという。またDCDだけでなくADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向を併せ持っていた、ただしASD(自閉性スペクトラム障害)の傾向に関しては確信が持てないと述べている。兼本はそうした発達障害の当事者の立場から自分を振り返って本書を書いている。

本書の中では、一定の定義づけられた診断名によって名指されることの意味。人を了解することと説明することの違いについて,分かることとはどういうことかなどを念頭に発達障害の当事者として自分というものの正しい扱い方や他者との関係についてなどの考察を述べている。

(2) 「普通という異常」

兼本は「普通という異常」の中で、発達障害は病気ではありませんし、それ自体では必ずしも「障害」でもありませんと述べている。発達障害は肺炎のような意味での病気ではなく、一定の特性を持った脳のあり方(脳スペック)にかんして割り当てられた名称であると記している。もっとも、ADHDには薬をだすこともありその限りでは病気としての扱いとなる。

兼本はさらに、発達障害に関して考えることは、人間とは何かを考えることとつながっている、人間とは、犬や馬のように何か特定の実体を持った歴史超越的な現象ではなく、文化依存的で流動的な現象なのではないかという主張にもそれはつながりますと言う。ただし発達障害が何処までどのように文化依存的であるのかに関して私は関心があるが見解は分かれているとみるべきだろう。

同じ著書の中で兼本は、次のようにも述べている。「病」が、ある特性について、自分ないし身近な他人が苦しむことを前提とした場合、ADHDやASDが病い的になることがあるのは間違いないでしょう。一方で、定型発達(兼本は健常発達と言い換えている)の特性を持つ人が負けず劣らず病い的になることがあるのではないか。……たとえば定型発達の特性が過剰な人が、「相手が自分をどう見ているのかが気になって仕方がない」「自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から矢も楯もたまらなくなってしまう場合、そうした定型発達の人の特性は病といってもいいのではないか、ということです。

これはいっけん上記の発達障害は病気ではありませんという認識と矛盾していると思えるが、見方の問題と捉えれば必ずしも矛盾した意見ではない。兼本は「いわゆる普通の人、あるいは健常発達的特性を持つ人も、見方を変えれば、じゅうぶん、病として捉えることが可能ではないか。そのような問題提起ができれば、この本の目的はじゅうぶん達したことになるかと思います」と述べている。

それでは健常発達はどのような意味で病い的となるのだろうか。

兼本はまず、正常発達の特性が自分も他人も苦しめることがあるという実例として、いじわるがどうしてやめられないかということを実例を挙げて述べている。普通の人のコミュニケーションには「いじわるコミュニケーション」と「親切コミュニケーション」があると考えられるというのが兼本の主張である。「いじわるコミュニケーション」がほどほどであれば対人関係をとりむすぶ有効な戦術になることもあるのだろうが、いきすぎれば自分も他人も苦しめるものになる。それが最悪の場合は、「いじめ」や「ハラスメント」になってしまうと見てもよいのだろうと私は理解した。

さらに兼本は普通の人は「相手が自分のことをどう考えているか」が「自分がどうしたいか」よりも優先される人だと考える。

そうした特徴は相手からの承認(いいね)を求めようとすることにつながる。兼本は「いいね」依存がこの正常発達の人の病の一次病理だという仮説を立てて論じていく。私は自分の中にも「いいね」依存の傾向を感じるのでドキリとさせられるが、ここでは、その点に深入りすることは避けて、次の二点に関して簡単に触れておくことにしたい。

一つはアメリカ自閉症協会有志が健常発達の人を、ニューロティピカル症候群「健常発達症候群」という障害者として「操作的診断基準」のバロディーの形で提示しているもの。
もう一つはADHDと健常発達の人を報酬系でのドーパミンの機能障害として説明してみようということである。

「健常発達症候群」(ニューロティピカル症候群)とは
  (アメリカ自閉症協会有志)

 (1)ニューロティピカル症候群(健康発達症候群)は遺伝的に発生
    すると考えられている。
 (2)非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって
    真実をゆがめて嘘をつきます。
 (3)社会的地位と認識のために生涯争ったり、自分の欲のため他者を
    罠にかけたりします。
 (4)テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
 (5)特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝えあうよ
    り暗黙の了解でモノを言う傾向にあります。しかし、それはしばし
    ば伝達不良に終わります。
 (6)ニューロティピカル症候群は社会的関心にのめり込み、自分のほう
    が優れていると妄想し、周りの人間と強迫的に同じになろうとする
    ことに特徴付けられる、神経生物学上の障害です。
 (7)悲劇的にも、発生率は非常に高く、1万人に対して9624人と言われ
    ます
 (8)治療法は現在のところわかりませんが、多くのニューロティピカル
    症候群を持つ人は、自らの障害を代償して、正常な自閉症の人と
    交わることができるようになります。

ADHDと普通の人の脳科学
 
ADHDは遂行機能障害と見られているがそれのみでは説明できないこともあり、報酬系のドーパミン機能障害という仮説も追加されている。
 ADHDでは報酬系でのドーパミンの出方に欠陥がみられる、ドーパミン移行欠陥仮説がとなえられている。それに対し健常発達の人は、ドーパミン移行過剰症とみなすこともできるというのが兼本の主張である。

 

2 食欲と依存症

(1)日経サイエンスの記事について

日経サイエンス 2024 09号の特集は「食欲の正体」であった。記事の一つにL. j.ヤングによる「過度な食欲を抑える抗肥満薬の神経科学」があり、その記事には「爆発的に売れた抗肥満薬が、食欲と満腹感だけでなく快楽や依存性に関わる脳の秘密を明らかにしつつある」ことが書かれていると記してある。

私は以前から食欲と依存症(特にアルコール依存症)との関連性に関心を抱いていたので、興味深く読ませてもらった。ここでは、記事の内容を簡単に紹介してから、以前に私の書いたアルコール依存症と摂食行動に関連した論考を要約して書かせていただきたいと思う。

日経サイエンスの記事によると、抗肥満薬として発売されたセマグルチド(商品名オゼンピック)は、食物摂取に応じて腸で分布される多くの重要なホルモンのひとつである、GLP-1(グルカゴン様ペプチド1)の受容体を活性化する天然物質の人工合成された化合物である。

GLP-1は二つの役割を担っている。膵臓に働きかけてインシュリンを分泌させるシグナルをおくることと、脳に満腹感や食物摂取をやめさせるシグナルを伝えることである。脳との連絡には少量は直接脳内に入るが、多くは迷走神経に結合してシグナルを伝達する。なお脳幹のニューロンからもGLP-1が分泌されていることが分かっている。迷走神経からのシグナルは脳の孤束核で受容されて、GLP-1そのものが産生されることが分かっている。

GLP-1受容体作動薬を使用する人の中には、食欲が減じるだけでなく、アルコールやニコチン、薬物、ネットショッピング、爪を噛むなどそれまで止められなかった、さまざまな欲求が減ったという人もいた。この事実より、食欲、満腹感を調整する報酬系の脳回路が強迫的行為や依存症に結び付く行為の回路と重なりがあるのではないかと考えられ、そのための研究が相次いでいる。

動機づけと快楽に中心的な役割を果たす化学物質のドーパミンを産生するニューロンは側坐核に投射しているが、側坐核は報酬を感じるに重要な部位で、そこにはGLP-1受容体があることが分かっている。

(2)「アルコール症患者の飲酒行動と摂食行動」

次に私が1987年に書いた上記の論考の要約を書かせてもらう。

はじめに
 我々が週一度の割合で行っている集団療法の際に、しばしば、飲酒行動と関連して摂食行動にもさまざまな変化が現れることが話題となる。いくつかをあげておこう。

まず空腹のときに,酒がほしくなるので飲んでしまうことが多いが、我慢をして他の物を食べると、けろっとほしい気持ちが消えてしまうことがある。
この事実を受けて、自助グループでは飲酒欲求の出やすいきっかけを想定して「腹を立てるな、腹をすかすな、孤独になるな」という戒めを定めている。

また数日間の連続飲酒のあと,一日くらいは嘔吐して何も食べれないが、その後は四食も五食も食事をとってまた飲み始める。

酒を飲んでいるときは、食欲もなくなり食事の回数も不規則であまり食事をとらないが、断酒をするとむやみに食べたくなって体重も増えてしまう。二週間で10キロも増えた人がいる。

また断酒後、今まで見向きもしなかった、かりんとうやあめ玉のような甘いものがむやみに欲しくなり、それが一年近く続くことがあるといったことが話題として語られる。

そこで、われわれはアンケートによって上記のような摂食行動の変化の実態を調査してみた。

対象

入院または通院中の患者21名、断酒会の会員9名の30名が対象で、男性27人女性3名。年齢は30歳代から70歳代まで。全員なんらかの身体依存の症状を呈したことのあるアルコール依存症の患者である。

結果

アンケートの結果に関して述べておく。

●空腹時や飲酒時の食事摂取に対する変化について
 空腹時に酒が欲しくなる        ……  17名
 酒を飲むと満腹になる         ……  10名
 酒を飲むと食事がほしくなくなる    ……  12名
 何かを食べると一時的に酒が欲しい気持ちがおさまる   …… 10名

●飲酒時の食事摂取について
 酒を飲む前と飲んだ後にとる ……  3名
 酒と一緒にとる       ……  12名
 酒を飲んだ後にとる     ……  15名
 とらない          ……  10名

●断酒後の食事摂取の変化
 飲酒時より規則的になり量も増えた  ……  24名
 飲酒時より量がへった        ……  3名
 変化なし              ……  2名

●甘い物の摂取の変化
 断酒前の嗜好             断酒後に摂取が増加したもの             
  甘いものが好きだった ……   8名  ……   5名  
  あまり好きでなかった …… 11名  ……   8名
  嫌いだった      …… 3名    ……   2名 
  どちらでもない    …… 5名  ……   3名
  記入なし       …… 2名  ……   0名

結果の中で我々は特に次の2点に注目した。
 第一は空腹時に酒が欲しくなるとしたものが17名と半数以上であったこと
 さらに、酒を飲まないで他のものを食べると一時的に飲酒欲求が収まる
 としたものが10名いたということの意味付けについて。

 第二は断酒後の摂食行動の変化について、とくに断酒後は食事の摂取が
 規則的となり摂取量も増加するとしたものが24名もいたこと。また甘いも
 のを良くととるようになったものが18名と半数以上であったことも注目す
 べきことである。

考察

上記のような結果は心理的レベルの問題として理解するのは難しいと思われる点もあり、摂食行動の生理的レベルの問題、特に脳内でどのようなことが起きているのかを問題とすべきと考える。

とくに空腹によってアルコールへの渇望が高まり、摂食によって渇望やアルコールの探索行動が一時的に収まるとすると、アルコール依存症のもっとも中核となる現象と摂食行動が深い関連性を有しているという見方ができるだろう。また過食症とアルコール依存症との間にも関連性ががあるのではないと考えさせられる。

上にあげた論考は1987年と古いもので、当時は依存症と食欲との関連性に関してはあまり触れられていなかったし、私の知るかぎり脳内の変化に関する言及もほとんどなかったと思われる。私は自著(自費出版)「こころの風景、脳の風景」(2020年)にこの論考を収録するにあたり今回の日経サイエンスの記事とは反対に食欲を増進させるホルモンである、グレリンとアルコール依存症に関して触れた付記を載せたので最後にそれを引用しておく

付記(摂食行動と報酬系に関して)

1.近年、食欲増進ホルモンである、グレリンが報酬系を介して摂食行動を促したりアルコールの摂取を促すことが分かってきた。グレリンの投与によってその量が多いほどアルコールへの欲求も高まるという報告もある。こうした研究は、空腹時に高まったアルコールへの欲求を、何かを食べることによって一時的に低下させるということが、心理的というよりも生理的な現象であるという科学的な根拠を示唆していると言えそうである。それはまた、アルコール依存症と過食症に依存行動という共通性があることも示唆しているとも思われる。

2.脳の「快中枢」の一部を形成する外側視床下部のニューロンは食べ物や水、性刺激に対して強く反応を示す。そこで報酬が与えられると、脳の報酬系がそれに応答する。報酬系は腹側被蓋や黒質緻密部のドパミン入力を受ける線条体の側坐核を中心にして、前頭連合野やさらには扁桃体や海馬なども巻き込んで報酬応答がみられるシステムである。報酬系はアルコール依存症を含めて、種々の依存症の形成をめぐる脳内機序の中心的役割を担っているとみなされる。報酬系にはドパミン以外にもグルタミン酸エンドルフィンなどが関与していることが知られている。近年、グルタミン酸受容性神経活動を抑制して飲酒行動を抑える目的で、レグテクトが発売され、さらにオピオイド受容体の拮抗作用のある、ナルメフェンが飲酒欲求を抑える作用があるために、減酒薬として使用されている。



  











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