散歩と雑学と読書ノート
読書ノート
今年もよろしくお願い致します。
今回の読書ノートでは、昨年入手した書物の中から気になっている何冊かをとりあげてコメントを書かせていただこうと思う。
1 昨年入手して関心を持った書物より
1) 精神医学に関連したもの
「グローバル化時代の精神病理学 精神科臨床の基本視座」
加藤 敏、金剛出版、2024
著者の加藤 敏は1949年生まれで、自治医科大学精神医学教室の教授を2000年から2015年まで務め、この国の精神病理学をけん引してきた一人である。特に人間存在を「遺伝子ー言語複合体」と捉えて、脳科学と人文科学の交差する場所から精神病理学を論じようとする姿勢に私は共感してきた。ただし、詳細に触れることは避けたいが、「遺伝子―言語複合体」という捉えかたに関しては少し留保しておきたいと思っている。たとえば、脳の働きを遺伝子を中心に考えることに私は疑問を持っている。
本書の構成は、第一部 総論、第二部 グリージンガー、クレペリン、ヤスパース、第三部 自閉症、第四部 グローバル化が進む二一世紀の病態変遷からなっている。私は本書の主な論文はすでに読んでいたが、このように一冊に纏められるのはありがたいことである。
私は第一部の、「ICD11パーソナリティ症の臨床的意義と歴史的意義」という論文に興味がある。また第四部の「先進国、途上国における統合失調症ー進化精神医学の見地から」からという論文にもひかれている、精神疾患を進化の視点で追及することはまだ可能性の残っている分野であろう。
WHOの診断基準である「ICD11精神、行動ないし精神発達症のための臨床記述と診断要件」の訳本は間もなくと言われながらなかなか出版されないが、今後我が国の精神医学の診断基準として長年君臨することになると思われるものなので翻訳には慎重が期されているのであろう。加藤は本書でDSM5よりもICD11を高く評価して、「DSM5とは一線を画して広義の人間学的・精神病理学的。かつ力動論的な洞察を提出している。……今後、DSMを凌駕する形でICDが精神医学の共通語になっていくと思われる。そうなると生物学的要因への還元論的思考、および操作的診断体系優位の精神医学教育は、大きな変化をしていくことだろう」と述べている。私は一線から引退した精神科医であるが、ICD11 の日本語訳を楽しみに待っている。
本書の第二部で加藤は「グリージンガー」を中心とした精神医学史の重要な局面を考察していて、加藤のこれまでの論考が纏められている。私が本書を手に入れようとした理由が主にこの点にある。
私はこの、noteに「クレペリンン」に関して書かせていただいたが、今後クレペリンの先輩にあたる「グリージンガー」に関しても書かせていただけたらと思っている。
「子どもとあゆむ精神医学」
滝川一廣、日本評論社、2024
滝川一廣は1947年生まれ、名古屋市立大学医学部を卒業。当時の名古屋市立大学の精神医学教室は木村敏が教授で中井久夫が助教授。滝川は山中康裕から児童精神医学を教えられている。なんと恵まれた環境で初期教育を受けていたのだろうと私はため息をつくしかない。滝川は私が最も信頼できる児童精神科医のひとりである。
本書の序章は、2009~2018年まで務めた学習院大学文学部心理学科教授と
しての最終講義があてられている。
滝川はこれまでの講義では児童の精神発達を「認知の発達」と「関係の発達」の二軸で説明をしてきた。その二軸を座標軸に発達水準の分布をプロットすると、定型発達も自閉症スペクトラムも知的障害もすべて互いに連続的で異質性のないことがわかるとしてきた。しかし、最後になるがもう一つの軸があることに気が付いたので触れておきたいとして、「自己制御の発達」という第三軸を提案している。それは発達障害の一つであるADHD(注意欠如・多動症)の落ち着きがない(多動)、気が散りやすい(注意困難)という性質と関連した発達の軸である。これは正常発達でも知的障害でも見られる性質である、と述べている。最終講義はもちろんこのこと以外にも子供の発達をめぐっていくつかの話題が取り上げられている。しかし、私はこの三軸の話題が最も興味深く感じた。
本書では、第Ⅰ部の精神発達・発達障害をどう考えるかのなかで、自閉症スペクトラムをどうとらえるかを中心に述べられている。第Ⅱ部のトラウマ・アタッチメントをどう考えるかでは、アタッチメントや愛着障害の捉え方を論じ、さらに児童が受けるこころの傷や心的外傷について述べられている。そして第Ⅲ部の子供の育ちをどう考えるかのなかで、子供を育てる難しさや現代の家庭のおかれた問題点、少子化や、子供の貧困。いじめの問題など子度を育てるうえでの社会的なさまざまな障壁をとりあげて、そのために子供たちが受ける影響について論じられている。
私は精神科医としては主に思春期から成人を対象にしてきたが、児童にも関心を持ってきた。児童期に受けた心の傷は大人になっても強い影響を与え続けているものである。だから精神科医としては子供のこころの発達に関心を持つのは当然のことである。しかし、今回久しぶりに児童精神医学の著書を手にしてまだまだ学び足りなかったと反省している。
滝川は本書の終章を「自閉症をどう考えてきたかを振り返る」というタイトルにしている。
「自閉症」は、1943年にレオ・カナー(アメリカの児童精神科医)が「情動的交流の自閉的障害」という論文を11人の症例をあげて発表し、統合失調症の早期型に違いない(断定はしなかったが)として(後に)「早期幼児自閉症」と命名したこと。そして、その翌年(1944年)アスペルガー(オーストリアの小児科医)が「小児期の自閉的精神病質」という題名で4人の症例を発表したことから始まった。この両者が同じものを見ていたかどうか議論が分かれているが、イギリスのローナ・ウィングは自閉症という視点で見ると共通性があると見立てた。それは今日のDSM5による自閉症の状態像とほぼ同じである。
それにしても2010年前後の一時期だったろうか、わが国で「アスペルガー症候群」や「ADHD」などの発達障害が急激に増加していると言われ、診断のニーズが急増したことがある。
この時期は統合失調症が軽症化し発生頻度も低下しているようだと言われ出した時期でもある。
発達障害ではないかと、診断することを求められたり、診断を見逃したとしておしかりを受けたりして困惑したことを私は思い出す。あれはいったい何だったのだろうか。主に成人に関してのことなので、児童精神科医に意見を求めるのはお門違いかもしれないが、滝川が本書でその点に触れていないことが少し残念であった。
現在は「自閉症スペクトラム」と命名されていて「カナー型自閉症」とか「アスペルガー症候群」という言い方は聞かれなくなっている。
少し横道にそれてしまったが、滝川はこの終章で、わが国の「自閉症論」が一時期、ラターの「言語認知障害説」に一気に流れていった時期について批判的に触れている。ラターの説はカナーの統合失調説を全面的に否定して先天失語(発達性言語障害)と関連した脳の器質疾患とする説である。環境の問題や対人的な関係性の問題に触れる論考は厳しく排除された。
滝川はラターの諸著作を読んだが、こころに落ちなかったとしている。当時教えをうけた山中は「自閉症=統合失調症」説を正面から説いていた。
そして、滝川は「そもそも原点だった統合失調症との関連をわたしは十分解けていません。ものごとの探究には最初の閃きが最も的を得ていたということがままあり、カナーの着想を捨て去るべきでないと今も考えています。その追求から視えてくるものがきっとありそうです」と述べている。
先にふれた加藤もその著書の自閉症に関する記述の中で、「正直のところ私には、いまだにDSMでいうアスペルガー障碍と、従来で言うシゾイド(統合失調気質・病質)の決定的な質の違いがよくわからない」として、DSM世代の若い精神科医が自信をもって「アスペルガー」という事例がシゾイドないしシゾチームとすぐに思えることが何度かあった。なるほど世代のギャップは大きいと痛感すると述べている。私は加藤や滝川よりも少し上の世代だが、自閉症(発達障害)を統合失調症と関連づけてみたくなる思いを共有している。一方で「自閉症(発達障害)」という診断の導入はそれまで統合失調症として長期間入院の対象にされていた一部の「自閉症(発達障害)」とみられる患者さんにとって大きな救いでもあったと言われることを考えると、精神医学の臨床の難しさ、あるいは不明確さを改めて考えさせられる。
滝川がこの終章でふれていることで、私が強く共感したことがらを、もう一カ所だけ書かせていただきたい。それは「知的障害との出会い」と言う項目で述べられていることである。
滝川は入院中の知的障害の患者さんが自殺したことにふれて、それまで統合失調症の患者の精神生活には深い関心を寄せながら、知的障害の内的世界に同じだけの注意関心を向けてこなかったことを思い知らされたと述べている。私も知的障害者の施設とのかかわりを長年続けてきて沢山のことを学ばせていただいたが、知的障害の一人ひとりに統合失調症にたいするような関心の寄せ方をしてこなかったと言わざるを得ない。
知的障害や自閉症の様々な生物学的な病変が報告されているが、たとえば自閉症であれば必ずこういう脳病変というものが出てこないし、脳障害の所見もないのに知的障害のケースもある。統計的にはこちらがはるかに多い。脳に生物学的な障害があればそれが何であれ発達の足を引っ張り知的障害となる確率が高まっても不思議はない。
滝川は以上のような状況をふまえて、知的障害と同様に自閉症の大多数も脳障害によるわけでなく、自然の個体差(正常偏倚)だろう。報告されてきた多様な脳障害所見は非特異的な負荷因子にすぎまい、と。述べていることが私にはとても心に落ちる気がする。
「うつ病ダイバシティー」
小林聡幸、金剛出版、2023
本書の著者、小林聡幸は1962年生まれ、自治医科大学を卒業。現在は加藤の後をうけて自治医科大学の精神医学教室の教授である。精神病理学や病跡学を専門とする。精神病理学を専門とする教授は珍しく、少なくとも現在50歳以下の精神科医の中から今後は出てこないような気がする。私は小林が書いたものからこれまで多くを学ばせてもらった。私の好きな学者の一人である。
先に述べたように、発達障害が急速に増加していると言われ出した2010年前後、ほぼ時を同じくして、これまでのうつ病に代わって異なるタイプのうつ病が流行しだした。これまでのうつ病はメランコリー親和型うつ病と言われていたのだが、それはわが国とドイツだけにしか見られない特殊なタイプであると言われるようになった。私はそのタイプのうつ病を典型として受け止めてきた世代の精神科医であるのでいささか戸惑いを感じざるを得なかった。しかし、この頃から、たしかにメランコリー親和型うつ病にはめったに出会わなくなった。その要因には、働き方の変化にともない職場環境が変わっていったことが影響しているのではないかと私は考えている。
新しいうつ病は、マスコミ的には新型うつ病といわれ、それには逃避型抑うつ、現代型うつ病、未熟型うつ病、ディスチミア親和型、職場結合性うつ病などがある。本書のタイトルにあるダイバシティー(LGBTQなどの多様性の受容を意味するビジネス用語、トランプ大統領の影響でアメリカではこの動きが減速しそうなのが残念)をなるほどと思わせる現象である。しかしそうしたうつ病の社会的な過熱現象も発達障害と同様にいつの間にか落ち着いてきた。もちろんうつ病がなくなったわけではなく、うつ病は依然として最も多い精神疾患である。
本書では、今述べた時期のうつ病のことも含めて、極めて広範囲にうつ病ないし抑うつという状態の問題点が症例もあげながら書かれている。内容の詳細には触れないでおきたいが、症状の多様性、双極障害とうつ病、薬物療法と製薬会社、抑うつと不安、恐怖との関連、強迫症や妄想やヒステリーとうつ病、コロナ禍でのうつ病などの問題が語られている。
本書は学問的にもしっかりした内容で、うつ病の問題点を整理し理解する上での良書であると私は思う。
2)生成AIに関連したもの
「雑誌(精神神経学雑誌、日経サイエンス)の記事より」
●「精神神経学雑誌2024、VOL.126 NO.11」
生成AIを含めたAIの利用は急速に広がりを見せている。精神医学の世界でも様々な試みがなされているようだ。
精神神経学雑誌のこの号では、「次世代の精神医学研究のあり方ー知の統合による課題解決に向けてー」という特集が組まれている。
その中の記事に「医療AIが可能にする次世代の精神医療ーAIがひらく次世代の精神医療ー」(荒牧英治、他著)がある。
その記事の初めに次のように書かれている。
医療の世界でも、電子カルテに集積されたビッグデータ、それを用いたAIによる診断支援、さらにはスマートフォンやスマートスピーカーといった新たなデバイスからの時系列情報など、さまざまな材料、技術が登場し、膨大な情報が利用されるようになっている。さらには生成AIの急速な進歩をうけて対話インターフェースを用いた多くのアプリケーションが開発されつつある。
この論文ではAIの活用を、医療者を助けるAIと患者を助けるAIという2つの観点から論じられている。現状はその研究がなされている段階で、その途上で安全性をめぐる議論が強く求められている。
1 医療者を助けるAI
電子カルテテキストや患者の音声データの分析、精神疾患のスクリーニング、早期診断、自動診断あるいは重症度推定などに関する研究がなされている。
私は若いころに患者の示す音声データの分析に関心を持ったことがある。しかしその方法を見つけることが困難であったことを思い出す。AIによる画像や音声の分析が容易になってきた時代の変化に感慨深いものがある。
2 患者を助けるAI
メンタルヘルスへの介入として、対話形式を用いられたり、well-being向上のサービス、コミュニケーションスキルの改善などが研究されている。
また慢性疾患のコントロールや生活習慣や行動変容を行う手助けに関する研究もなされている。
問題点としては、研究者が共有できる質の高い、ビックデータをどれだけ集積できるか、またとくに患者介入をおこなう危険性に対してどのような対策が可能かがあげられている。
現在AI技術の急速な進歩が続いていて、その成果が精神医療に応用される可能性が高まっている。私は画像診断を含めた自動診断や患者へのカウンセリングへの可能性に関心がある。もちろん安全性が重要であることは言うまでもない。現在は、不明瞭な課題には回答できないようにチューニングされたり、AIの働きを情報の集約のみに使用することがなされているとのことである。医師が何処まで有効に関与できるかも問題だろうと私は思う。
●「日経 サイエンス 2025 02」
この号で「科学者に迫るAI 大規模言語モデルの思考力 発見を担うのは誰か?」という特集が組まれている。
特集の記事は以下の3篇である。簡単に書き留めておく。
● 「大規模言語モデル「思考力」で進化」、吉川和揮(編集部)
オープンAIがChatCPTを2022年11月末にリリースし、2024年12月に「o1(オーワン)」という論理的推論を得意とする、大規模言語モデル(LLM)を出した。オープンAIの元従業員のアッシェンブレナーがエッセイで2027年には人間並みの能力を持つ汎用人工知能(AGI)が開発され、その後早ければ1~2年で人工超知能(ASI)に到達すると述べている。
展開の速さには、ただ驚くばかりである。
現在、アメリカでは、LLMの開発ではオープンAI、グーグル、アンソロピックが3強で、これにマスクの率いるxAIなどが加わり、AGI一番乗りを目指している。トランプ政権下で規制が解除されて開発がさらに進むのだろうか。その際に出現するかもしれない不都合な事態を上手く乗り越えることができるのだろうか。一時的に開発を抑制しようという動きがあったり、またヨーロッパを中心に法的な規制やガイドラインの作成が検討されているとも聞くがどうなっていくのだろうか。
● 「科学研究を加速する基盤モデル」、 出村政彬(編集部)、泰地真弘人
数値や画像や音声など様々なモードのデータを一定の科学的な基盤モデルを作ってその中に学習させることで、科学研究を加速させる方法が進んでいる。たとえば遺伝子解析や気象の観測などで得られた大規模なデータは現在はデータベースで提供されているが今後は基盤モデルの形で提供されるだろうと見られている。
● 「研究できるAIは科学をどう変えるのか?」、高木志郎、丸山隆一
2024年8月、東京に拠点を持つAIスタートアップのSakana AIが「The
AI Scientist」を公開した。これはコンピュータ内で完結する研究の仮説を立て、実験し、論文を書き、査読するまでを一気に自動実行するシステムである。
もちろん科学する完全なAIの実現にはまだ多くの次術的な課題がある。
そのうえ、AIが行う研究には「ハルシネーション」と呼ばれる嘘の出力を出す可能性もあり、妥当性の評価をどうするかの問題がある。
科学するAIは、人間にとって「アシスタント」か「同僚」かあるは「ライバル」か「インフラ」かといった問題もある。
現在が科学の変革期であることはまちがいない。科学の営みを俯瞰(メタサイエンス)して、AIと共にする科学を再設計する必要があるというのが著者の提案である。
私は科学することが面白い局面に差し掛かってきていて、若い世代が科学に取り組む際の可能性が広がっていくことに期待したいと思う。
「生成AI 時代の言語論」
大澤真幸、左右社、2024
社会学者、大澤真幸の生成AIと言語論をめぐる書物である。
本書の構成は、第Ⅰ部 対談・鼎談、第Ⅱ部 4篇の論文からなる。
第Ⅰ部
対談 生成AIとはなにか? 松尾豊+大澤真幸
松尾豊は東京大学工学系研究科教授、人工知能、ディープラーニングを専門とする。AI研究の日本の第一人者である。なかなか興味深い対談である。
大規模言語モデルに基ずく生成AIについて簡単な説明を大澤が求めたときの松尾の説明が私にはとても分かりやすかったので引用しておきたい。
「ネクストワード・プリディクション」がタスクを行う過程で文の背後の文法構造や単語の因果関係を学習すると松尾が述べているが、私はそれがどのようなプロセスでなされるのかを知りたいと思った。さらにその学習のされ方や学習されたものは人間の文法獲得や単語の因果関係の獲得とは異なると思うが、それを人間の言語能力獲得の研究に役立たせることができるだろうか。生成AIの文法や単語の学習は、しいて言うとチョムスキー派の生成文法的ではなく認知言語学的ではないかと私は思うのだがどうだろうか。また、アテンション(注意機構)はどのように作られているのか。次の単語の予想のために過去の単語列(集合)から必要な情報を選択し不必要なものは捨てるという制御の学習のようだが、それは次に述べるフレーム問題と関連してくるのではあるまいか。私はそんなことを可能なら松尾に聞いてみたいと思った。
次に大澤は、AIが思考していると認めるためにも、フレーム問題と記号接地問題を克服しているかということが問題だと提起する。
フレーム問題は、人間のような汎用型の知能では、その時々の課題やタスクとの関係で有意味なことを、どちらでもよいことから、瞬時に区別し選択できなければなりません。ChatCPTはそれを克服しているように見えるが、これでフレーム問題を解決したと考えますかというのが大澤の質問であった。
松尾は、解決したと言っていいと思います。少なくとも言語の空間で、かつ比較的短時間の問題については解決したと考えますという。それに対して大澤は別の考えがあるけれど質問に徹したいとそれ以上の追及は避けている。私は先に述べたアテンションの仕組みがフレーム問題の解決に関連しているのではないかと思うが、それでも十分とは思わないし、疑問符を付けたいと思う。
記号接地問題とは、記号(言語)を外部の実在とどう結びつけのかという問題である。言葉が意味を持つということは、言葉がその言葉の外にある実在と結びついているということです。生成AIは現在の仕組みから考えると、この接地問題を無視した形で成り立っています。それでも生成AIには知能があると言えますかと大澤は問う。
おっしゃる通り、記号接地はしていません。しかし、人間の思考に相当近い概念を獲得していると言えます。少し時間がかかると思いますが、技術の進展で、もっと進んだ形で、現実世界との記号接地が可能になると思いますというのが松尾の答えである。AIに知能があると見るか否かに関しては十分に議論されていなかった。
私は生成AIが知能を持っていて、人間と同じような概念や意味を獲得しているということに疑問がある。しかし、大澤が言うように「我々が現実世界でするような経験はしていないのに、ChatCPTが、我々とほぼ同じようなことを語ることができるのは非常に驚きです」ということに共感する。
対話はさらに続き、大澤のやや懐疑的で批判的な問いかけに、当然ながら松尾は楽観的に前向きに生成AIの発展を述べている。詳細に触れる余裕はないが以下のような問題が語られた。
「AIは体を持たなくてもよいのか(松尾は当面はよいとする)」「AIの導入はブルシット・ジョブ(クソつまらない仕事)の増加に結びつくのか」「AIが人間の意思決定に影響を与えたり、科学活動や芸術活動を人間以上にうまくできるようになって、人間のクリエイティビティや主体性を脅かされるのではないか」「AIによって人間が間接的に支配されてしまうのではないか、悪意のある人間に利用される可能性もある」「人間のコミュニケーションのあり方が変化してしまうのではないか、人間が生成AI式にしかコミュニケーションができなくなっていくのではないか(松尾は今までも技術の発展はそのように推移してきたのではないかという)」「日本のAI開発の未来はあるのか」と言ったことが語られて興味深い展開がなされている。
次の鼎談は、2023年に「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」
(中公新書)で注目された今井むつみと秋田喜美との間でなされた。今井らは、「オノマトベ」と「アプダクション推論」と「記号接地問題」などを中心に言語の本質を問いかけている。そして言語の本質として、「意味を伝えること」「変化すること」「情報を選択しデジタル的に記号化すること」「差異化されて意味を持つシステムであること」「複数の感覚モダリティにおいて身体に接地していること」などがあげられている。そして、AIとヒトの違いとしてAIは「記号接地」をせずに、ことばや数字という記号それぞれの「意味」を本来的に理解しなくても、ビックデータの中の記号を漂流し続けて「学習」できるという点はヒトと対照的であるとしている。
鼎談のなかでは大澤の鋭い問題提起をうけて話題が広がりをみせ、記号接地問題を中心に言語の本質が掘り下げられている。字数の関係もあり詳細に触れることができず残念である。
大澤は論文でも記号接地を論じている。「表象能力の非表象的基礎 記号接地はいかにして可能か」と題された論文である。
論文のなかでは私は最後の4篇目の論文が興味深く考えさせられるものであった、要約しながら少し触れておきたい。今後さらに考える材料にしておきたいと思う
それは「人類的コモンズの提唱 生成AIから考える」と題されている。
大澤はこの論文の中で、ギリシャの元経済相でもある経済学者ヤニス・ヴァルファキスが「テクノ封建主義」と呼んでいる現在の経済システムの仕組みを紹介して、資本主義がすでに終わり始めている?と論じている。
資本主義は、もともと中世の封建主義のなかで発生し少しずつ浸透して支配的な経済システムにまで成長した。
その資本主義経済の中で現在最も活力を発揮し、利益を上げているのはインターネットのプラットフォーマーたちだ、GAFAMに代表されるプラットフォームのCEOたちは国家予算にも匹敵するような大金持ちとなった。彼らがなぜ全世界の富の4割近くを独占すると言われる1%の中の富裕層となりえたのか。
ヴァルファキスによると、彼らの利潤獲得の方法が、資本主義のやり方ではなく封建制のやり方になっているからだという。
どういうことか。ヴァルファキスはインターネットのデジタル空間にあるプラットフォームが荘園にあたる。つまり封建領主の私有地に当たるという。
その荘園で商品を売ったり宣伝したりしたいと望む商売人たちがいっぱいいる、その荘園の使用量が一種の地代(レント)にあたる。それが封建領主(プラットフォーマー)の主な収入源である。それだけでは資本主義の中での商売そのものである。何が違うかというと、とてつもない数の商売人たちがそれを使用したいと思う価値がそこにはあるからである。
その荘園の価値を高めるためにせっせとただで働いてくれる農奴が何億人といるからである。農奴とは農園のサービスを利用している我々自身である。我々は毎日、プラットフォームを使って、検索したりテキストや写真をアップしたり買い物をしたりしている。この「無料の利用」そのものの結果、我々は個人情報を残し、さまざまな情報を残していく、そのことが荘園であるプラットフォームのストックを高めているのである。その仕組みがもはや資本主義ではなく、一種の封建主義であるというのがヴァルファキスの主張である。
しかも、今日、封建領主の荘園の力、農奴たちを搾取する力が急速に高まろうとしている。生成AIという新しい装置を導入することによってである。
もともと荘園のデジタルな情報は、人類の集合的知性の産物である、特定の個人や法人の所有に帰してはならないものであある。特に生成AIは人類の集合的知性の結晶だ。
我々はどうするべきか。我々がするべきことは、プラットフォーマーが持つ巨大な荘園をコモンズ(共有資産)として開放することである。そして人類的なコモンズを民主的に管理するルールを国家を超えて創造しなければならない。
現在、資本主義は封建制に向けて終わりつつある。と大澤は書いている。
まだ取り上げたいと思う書物が10数冊ある。気候変動や脳科学や文学や日本や世界の未来の問題に関わる書物だが、別の機会に触れてみたいと思う。