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散歩と雑学と読書ノート


千歳川


読書ノート


初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (1)

「松岡正剛X津田一郎

    文芸新書、2023


1 はじめに

先日久しぶりに札幌に出掛けて、紀伊国屋書店で本書を見かけた。私は内容を確かめることなくただちに買い求めた。随分以前から私は二人の著者のファンであり、その二人の対談というので読む前からわくわくしてしまった。

内容は私が予想した以上の広がりがあり、いろいろと連想を刺激されるものであった。もちろん十分理解できないところも多くあった。ただし内容的には私の関心と重なるところも多く、ここで読書ノートとして何回かに分けて紹介し自分なりの考えも少し述べさせていただこうと思う。もっとも語られたことを消化して理解すること自体が難しく、さらに対談をどう紹介するかという難しさもあり躊躇を感じざるをえなかったけれども、何とか挑戦してみようという誘惑のほうが強まりあえて取り上げてみることにした。

2 著者の紹介

はじめに、本書の記事をもとに二人の著者を簡単に紹介し、私が二人に抱いている関心事についても少し触れさせていただきたい。

   著者二人の紹介

松岡正剛


 
1944年京都生まれ。早稲田大学仏文科卒。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長、角川武蔵野ミユージアム館長。70年代にオブジェマガジン「遊」を創刊。80年代に「編集工学」を提唱。その後、日本文化、芸術、生命科学、システム工学など多方面におよぶ研究を情報文化技術に応用しメディアやイベントを多数プロデュース。
著書に「知の編集工学」「フラジャイル」「日本文化の核心」「千夜千冊エディション」など多数。

津田一郎


 
1953年岡山県生まれ。大阪大学物理学部物理学科卒。京都大学大学院理学研究科物理学第一専攻博士過程終了。理学博士。専門は応用数学、計算論的神経科学、複雑系科学。北海道大学大学院理学研究院数学部門教授などを経て、現在、中部大学創発学術院院長・教授。
著書に「カオス的脳観 脳の新しいモデルをめざして」「ダイナミックな脳   
 カオス的解釈」「心はすべて数学である」「数学とはどんな学問か? 数学嫌いのための数学入門」など。

この二人の付き合いは、東大薬学部の清水博教授に紹介されたのが始まりで。1982年秋から1983年春にかけて、清水教授がバイオホロニクス(生命関係学)のプロジェクトを始める直前のことである。清水の研究室に呼ばれた松岡は「編集工学」の話をした際に津田がニコニコしながら鋭い質問を発することに強い印象を持った。松岡は、しばらく後に麻布の自宅に津田を招いて一晩話し込んだことが二人をより深く結びつけることになったという。

    二人に対する私の関心について

私が松岡に関心を持ち始めたのは、1971年に創刊された雑誌「遊」の読者であったころからである。日本文化をめぐる深い博識を始め松岡の知識の深さと広がりにはただただ驚嘆するのみである。現在は特に「千夜千冊エディション」が次々に出版されるたびに楽しみに読ませてもらっている。また編集工学という見方を脳の機能に結び付けて考えようという方法論に私は強い影響を受けた。



津田のカオス理論に関しては、正確な日時は忘れてしまったが、1980年代の後半に私の所属する教室の夏季セミナーで津田の特別講演を聞いて衝撃を受けて以来私はずっと関心を持ち続けている。「カオス的脳観」によって私は脳をめぐる認識を根幹から変更を迫られ決定づけられた。

ここでは、自著(自費出版)「こころの風景、脳の風景Ⅱ」の読書ノートから津田の著書に触れた一文を引用させてもらいたい。

「心はすべて数学である」 津田一郎
津田一郎は現在、北海道大学の数学部門教授である。世界的な数理科学者で、脳のカオス理論の第一人者である。私はカオスの数学的理解を少しでも深めたいと思い、数学の勉強を始めているのだが、外国語と同じくものになりそうもない。本書には数式はほとんど出てこないのだが、心の働きが脳に変化を与え、それが数学的に表現されるというのである、簡単に理解も反論もできない。それでもあえて、その内容の一端に触れてみたい。まず津田は、古今東西の数学理論や哲学を見事に解説しながら脳の理解へと結びつけていく。津田はコミュニケーションの数学モデルを作成するプロジェクトに関わり、不十分ながら数式を作成したがその過程で、脳が他者の働きかけに応じて即時に機能的変化をしていると考えるようになったという。また、ニューロンのネットワークは外界の情報を編集し効率よく脳内に伝達するために進化してきた構造であり、そこにカオス理論でいうアトラクターが出現する。アトラクターは脳内で情報の作成、保持、加工を行っているというのが津田の主張である。その点をさらに深く理解するためには数学の勉強が必要である。海馬は脳の中でも極めて重要な構造の一つである。そこでは、エピソード記憶や時間や空間にかかわる情報処理がなされている。津田はその海馬にアトラクターの構造を見出している。海馬をめぐる記述は本書の白眉である。(平成28年1月)
追記
本書の中で、津田は「心は数式で書けるのか」と問い、「A-B」(AマイナスB)という極めてシンプルな数式を「意識の式」として提案している。Aは興奮性細胞の活動を表している、それを抑制する細胞の働きがBである。
「興奮性細胞で多様な心的状態が作られますが、そこには余分なものがたくさん含まれているので、抑制性の細胞によって、そういうものを取り除いていく過程が存在するのです。つまり、この「ーB」に意識の問題を表現しようとしているのです」と津田は述べている。
一方で津田は、もともと意識とは外から、他者からきているものだとすると、それは閉じた形では書けないだろうとも思います。そしてどちらにせよ、意識を式で「書けた!」というのは、私はインチキだと思うのです。とも述べている。例えば、脳の統合情報理論で有名なジュリオ・トノーニが意識の式を書いているが、この式で本当に意識の働きが描かれているのかは極めて疑問で、ただの記号の羅列に等しくほとんど「寿限無寿限無」と言っているのに等しいと津田が辛辣な指摘をしていることが本書の中では特に印象的である。
 

自著、「こころの風景、脳の風景Ⅱ」(2020)より


3 「あとがき」から見える本書の特徴

私は、しばしば書物を始めて手にしたときに「あとがき」から読み始める。「あとがき」には著者の本音が表現されたり、内容がコンパクトに纏められていたり、書き足りなかった問題意識が述べられたりすることがある。本書の「あとがき」にもそうした試みを読み取ることができる。そこで本書の紹介を「あとがき」から始めてみようと思う。引用が多くなることをお許しいただきたい。

「あとがき 1 デーモンとゴーストの対話」(松岡正剛によるあとがき)

 「あとがき 1」によると、本書のための対話には2年近くの時間を要している。それはコロナ禍や松岡の三度目の肺がんの治療などが重なったためであると記されている。

松岡は二人が話せば、生命と情報が関与する「世界の発生と解釈」をめぐっての、かなりきわどい中身になるだろうと予想していたとして、その中身について次のように述べている。

根本的なことでわかっていない問題がいろいろある。たとえば、なぜ生命体が光合成をする植物から進化をはじめて、動物という自分では栄養をつくれない他者依存的な生物を発達させてきたのか、その生命体はなぜ配偶子をつくって「性」を発生させたのか、ヒトが脳をつくって「自己」や「意識」をもつようにしたのはどうしてか、それなのに神や仏を信仰するようになったのはどんな事情によっていたのか、なぜ人種や民族によって言語はこんなにも異なるものになってきたのか、こういうことはまだ納得できる答えが得られていない。また、文明が「物語」を必要とした理由、記号や通貨などのトークン(代替物)を重視した理由、音楽やスポーツやお笑いが廃れない理由なども、説明がついていない。もっと説明がついていないのは、「ずれ」や「ゆらぎ」や「行ったり来たり」といった動向を世界がしくみとして取り込むには、どんな哲学や科学が絶対に必要だったのかということだ、

津田さんはこれらのことを、カオスの研究から展望してきた。私は編集工学の仕組みを通して考えてきた。……二人がこのことを「カルノーエンジン」や「エピジェネティック・ランドスケープ」や「編集的アプダクション」や「引き算」や「スパースコーディング」や「いない、いない、ばあ」や「変分原理」などの考え方をつかってどう説明しようとしたかは、本書の対話の左見右見(とみこうみ)をおっていただきたい。そうとうに大胆な発想が連打されていると思う。ひょっとすると、前代未聞の仮説の束にになったようにも思う。

(ところで)津田さんはずっとデーモンと戦ってきた。だからデーモンのことをよく知っている。科学にひそむデーモンだ。私は長らくゴーストを相手に戦ってきた。だからゴーストの癖や好みや意匠がよくわかる。ゴーストは文化のいたるところに出没する。(と松岡は書いていて面白いと思いながらも、私はこのてんに関して充分な理解ができていると言いつのる自信がない)


「あとがき2 際をめぐっての対話」(津田一郎によるあとがき)

津田はこの「あとがき 2」のなかで、「我々の対話はどこかオープンにはしないという前提で成り立っていたようなところがある。それを世の中に対して明示的な言葉にして紡いでいくと決断するにはちょっとした勇気がいる」と記している。一定の覚悟を持って本書を世に送り出したということであろう。

そのうえで津田は本書の特徴を次のように述べている。「本書は科学、生命、言語に焦点を当て、時には文系思考マイナス理系的思考、また時には理系的思考マイナス文系的思考という引き算を互いにしあいながら、視点のずれを起こすことで文系のセンス、理系のセンスを際立たせている。この方法が文系的思考と理系的思考の掛け算を創発したかどうか、読者の評価を待ちたいと思う。……そう、本書の対話では「方法」ということにこだわってきた。そして、言語と隠れた意識の関係を中心にして編集工学の方法論が初めて明かされ、生命と情報に対するカオス的解釈の方法論が明かされたのだった

さらに津田は、物事には「際」というものがある。姿かたちを変える手前の際は不安定であるがゆえに多様で複雑な構造を内包することができ、生命的なるものの源になるのだ。本書はそれぞれの専門性を常に際においてきた二人が紡ぐ際をめぐっての対話でもある。と述べている。

二人がまだそうした際になっていないと感じたからかもしれない問題で今回の対話で充分に触れていないものに生成系AIの問題がある。このあとがきでAIと人とのあるべき関係について補足的に触れておきたいとして津田は次のように述べている。

「私がChatGPTに人の言語学習とAIの言語学習の違いについて指摘すると、自らその違いを認め、AIには意識がないこと、意味を理解して使っているわけではなく単に隣接する単語の出現確率をもとに統計的に学習していることなど……正確に返してきた。意識を持たず、意味を理解せず、ただ確率的な学習を行うだけで十分会話が成立することにむしろ私はデーモン的なものを見た。……扱えを間違えれば、AIがヒトの脳を乗っ取り人がゾンビ化するデーモン的景色が現実のものになるだろう。逆にAIは人と類似の意識を持つようになるのだろうか。……

本書でも議論になったが、少なくとも大脳辺縁系における気づきや志向性の発生ダイナミクスをニューラルネットに組み込まない限り、また少なくとも自己受容、平衡感覚、嗅覚に基づいた身体性が組み込まれない限り、人と類似の意識をAIが持つことはないだろう。逆に言えば、その可能性も十分にあるということなのだ。そこで……

AIが守るべき倫理を試案として提案してみよう。
AI倫理三原則
(一条)
AIは人類と地球に危害を与えてはならない。また、その危険を看過することで人類と地球に危害を及ぼしてはならない。
(二条)AIは人類のセンサーとなり、可能な限りの情報を収集・学習しそれを公開することで情報を人類に提供しなければならない。
(三条)AIは自由に独自の判断を行う権利を有し、客観データを公開の場において人類に提供することで第一条に反しない限りにおいて人類の判断に介入することができる。

最も大きな特徴は第三原則である。AIが意識を持つか否にかかわらず、AIの人格ならぬAI性を認め、人類が愚かな行為を行うことを阻止する権利を認めるものである。


4 「情報」の起源

本文に戻って、その第2章から見ていくことにする。この章では情報の起源や生命の起原にかかわる議論が展開されている。

松岡が「情報」はどんなもので、どこにあるのか、エントロピーの逆符号(負のエントロピー)だという以外にどんな定義ができるのか、現在はデジタル化された情報が世界を覆ってているが、0と1のデジタル記号で扱えるようになった情報とはいったい何かと言うと、これがなかなか説明しがたい。もともと情報というのは生命体の動向と一緒にあるもので、その情報には神経系化された情報と遺伝子化された情報の二種類があると言ってもよいがそれが生命の歴史のどの時点で出現したものなのかと問題提起をする。

さらに松岡は地球上で「情報」が主語になるプロセスが生命系としてスタートを切るさらにその前に「情報のもと」になるメタプログラミング・パターンのようなものが宇宙からやってきて地球上の鉱物か何かの中に押圧され、それが初期のRNAやDNAになった可能性についても言及する。

確かに今日地球上でどのように生命が発生したのかという研究と同時に、たとえば生命のもとになると考えられる有機物を「はたぶさ2号」がもたらしたことからも生命の起源を地球外に想定する見かたが現実味を帯びて語られている。生命の起源については後ほどまた触れるとして神経系の問題に先に簡単に触れておきたい。

津田は松岡の問題提起をうけて、神経系に関しては何のためにあるのかが大切だとして、それは外界の情報をシステムの内部に損失なく伝達するための装置として発達(進化)したという。さらにそれには二つの流れがある一つは外界の情報を個体内部に伝達するという流れ、もう一つは固体内にできた複数の器官をコーディネートするための情報伝搬を担う流れであると説明する。

私は神経系(ここでは脳としておく)の情報処理に特に関心がある。すこしこの情報処理をめぐって私が抱いている疑問に触れさせていただきたい。津田が脳の情報の流れを二つの流れに分類したのは極めて適切だと私は思う。しかしそうした流れを生む、生きた脳の情報処理がどのようになされているのかは極めて限定的にしかわかっていない。現在話題になっているAIはデジタルなビックデータをもとに確率的な情報処理を行っている。おそらく脳もAIほどのスピードや能力を発揮できないとしても確率的な情報処理を行っているだろう。しかし、脳は必ずしもAIと同じような処理をしているわけではないだろう。脳は離散的なデジタル情報のみを扱っているのではなく連続的なアナログ情報も扱っている。しかも、アナログな情報をデジタル化したりさらにそれをアナログ化するなどの処理も行っているかもしれない。そもそも情報にはデジタルとアナログ以外の形態がないのだろうか。以前から私は気になっていることだが、脳の働きで生じると思われる、感情や直感、神秘的体験、走馬灯のような時間体験、幻覚や妄想などはどのような情報処理の結果生じているのだろうか。私は脳の作用によって情報や時間の流れが極めて多彩な様相を呈してくるように思うのだが、いったい脳は何をしているのだろうか。脳がAIと同じようにビックデータを処理することは無理だが、そのかわりいわばスモールデータであっても扱いが可能である。わずかなデータをもとに学習し、意味付けし、編集することが脳は可能だが、AIはできない。そのような情報の処理を脳はどのように行っているのだろうか、どのような装置を実装して脳はどのように演算しているのだろうか。そうした疑問にそもそも的確な答えは難しいのが現状だろう。本書も当然ながら的確に答えてはくれない。わかっていることがあまりにもわずかでしかないからである。しかし、もう少ししっかり読み解くならば何か考えるヒントが隠されているかもしれない、本書を読みながら私はそんな気がしていた。二人の会話はそう思わせるような多彩で深い内容にあふれている。

松岡の津田に向けての問題提起は鋭く適切である。松岡は若いころに師事していた湯川秀樹に聞いた話を情報を考えるヒントとして提供する。それは文字の入れ替えの話である。「LETTERという綴りを考えると、隣り合うTとTは同じやな、離れたEとEも同じやな。それを一字ずつハサミで切って、TとT、EとEをひっくり返して並べても、もとと同じか?」と聞かれて、松岡は「読む上では変わらない(デジタル情報としては同じ)ですけど、置かれている紙片の位置は最初とは違いますね」と答えると、湯川に「そうやろ。それは同じではないんや。そこには場があるからや」と返された。

津田はその話を受けて、「生命の起源」を考えるにあたっては、なにがしかの、順序とか、「因果関係」と、「情報が場所をどう占めるか」という事がけっこう大事なんのだということです。松岡さんが湯川さんの話を持ち出したので、一挙にそこに話を寄せたくなったという。

まず、生命の情報は、おそらく位置をひっくりかえしてはダメなんです。順序性や、位置をどう占めるかがすごく重要でこの場所にあるから意味を持つということがたぶんある。情報がデジタル化されるとそういう周りとの「関係性」や「場」の問題が失われてしまう。さらに情報の起源をめぐって「時間論」も関係してくる。と津田は述べる。

津田によると、人間が時間空間に対して持っている感覚を考えると、人間はおよそ一秒間に一メートルくらいの感覚で生きていると言える。しかし、実際の物理的世界では物質が相互作用しあう速さは基本的には光の速さで相当に早い。そのような現実の物質世界に対して、人間は脳という情報系を通して時間圧縮をおこなっているといえる。つまり人間(他の生物もそうであるが)は脳の機能によって物質世界で生じているのとは異なる別の情報を得ていると言えるのではないか、そしてそれはあくまでも脳の問題であると津田は説明する。神経系は伝達速度が相当に遅いが時間圧縮によって情報を運ぶ時間を縮めたことになると松岡は応じる。

さらに津田は生命と時間の関連を、物理学者の伏見康治の時間論をヒントに説明する。詳細は省略させていただくが、伏見はカルノー・サイクルに高温熱源から低温熱源に熱を与えるその差額を外部にとりだすエンジンを挿入してみることで、概念的にエントロピーを増大させない状況が作られるとして、そこに伏見は「時間」の始まりと自己組織化が可能な「生命」の始まりを見ようとする。

津田はさらに「生命」情報の出し入りで必要なものとして、機能分化や細胞分化の問題さらに細胞膜の問題を提出する。特に機能分化の例としてあげている脳をめぐる機能分化の仮説が私には興味深かった。それはコンピュータ上で数理モデルを作る方法を採用している。津田によるとコンピュータにまず力学系のネットワークを作っておいて、外から情報を流すことで、そのネットワーク内で情報を最大に伝えるためには、どんな部品ができるかを調べるのである。時間変化、信号の複雑さのようなものを情報に見立てて、それを最大化するようにジェネティクス・アルゴリズムを作動させて遺伝子を変えてみると、最終的には、神経細胞と同じ性質を持った部品が選ばれてきたというのである。このことは、神経細胞が、外の情報を神経系の内部に最大限効率よく伝えるために必要な装置として生まれてきたのではないかという示唆をあたえてくれます、と津田は言う。「情報量を最大にしなさい」という拘束条件だけでも神経細胞ができてしまうということは、地球上の生物にとって神経細胞がいかに適合的かということではあるまいか。そうだとすると、約5億年前のカンブリア紀にすでに神経細胞を持つ生物が生まれていたことに、私は納得できる気がする。

生命の起源や情報の起源に関しては私はまた別な機会でも取りあげてみたいと思っている。            つづく









  






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