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散歩と雑学と読書ノート


千歳川


本年もよろしくお願いいたします。

新年早々の能登半島地震には驚かされました。被災にあわれた皆様には心からお見舞い申しあげます。

私は2018年9月6日に千歳の隣町を震源とする北海道胆振東部地震を体験した。震度は6近くであった。さいわい水道は止まらなかったが、3日間停電が続いた。もし地震が冬に起きていたらどうなっていただろうと恐怖を感じたことを思い出す。いまは、電気がなくても使用可能な灯油ストーブと簡易のガス台とガスボンベは用意してあるが、水や食料の備蓄が不十分になっている。北海道では東部の太平洋沿岸を中心にマグネチュード9前後の巨大地震が予想されている。あらためて気を引き締めておかなければと思う。

読書ノート

昨年出版された書物のなかから10冊だけ書名を書き出しておきたい。まだ十分読み込んでいないものもあるが、そのなかからnoteの記事の題材を得られたらと思っている。

1 「資本主義の<その先>へ」、大澤真幸、筑摩書房
2 「マルクスの解体 プロメテウスの夢とその先」、斎藤幸平、講談社
 この二冊は資本主義を超えた先に何があるかを考えさせる書物である。
3 「とまる、はずす、きえる ケアとトラウマと時間について」
   宮地尚子、村上靖彦、青土社
4 「創造性はどこからやってくるかー天然表現の世界」
   郡司ペギオ幸夫、ちくま新書
 脳は自らの「外部」と接続し、それまでには想定されなかった神経系を
 構築する。郡司は本書の前に「シリーズ、ケアをひらく」の一冊として
「やってくる」を書いている。私の好きな本の一つである。
5 「会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか」
   ニック・エンフィールド、文芸春秋刊
6 「ニューロ 新しい脳科学と心のマネジメント」、ニコラス・ローズ/
     ジョエル・M・アビ=ラシェド、法制大学主版局
7 「相分離生物学の冒険」、白木賢太郎、みすず書房
 「生きた状態」は、細胞内の分子群が作るドロップレット(液滴)によっ
 て維持されていると相分離生物学はみなす。 
8 「現代気候変動入門 地球温暖化のメカニズムから政策まで」
 
気候変動に関しては、しっかり認識しておきたいと願っているが難しさが
 ある
9 「日本とは何か 日本語の始原の姿を追った国学者たち」、今野真二、
   みすず書房
10 「井筒俊彦 起原の哲学」、安藤礼二、慶應義塾





                            ***



2020年 自費出版


「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


前回のnoteでは「精神医学史の中のクレペリン」と題して、フロイトやクレペリンのことを考えながら記事を書いた。今回その「つづき」を掲載してもらう予定だったが、まだ出来あがっていない。記事を書きながら私がこれまで出会った患者のなかでヒステリー的な色彩を強く帯びた緊張病の患者を思い出していた。
その患者はいわばフロイトの神経症中心のパラダイムとクレペリンの精神病中心のパラダイムの両方を兼ね備えた病状を呈している患者である。
今回はその患者について書いてある記事を載せていただき、クレペリンの「つづき」は次回に回させていただきたい。

精神科医事始め


 医師は新人の頃に出会った患者によって、その後の関心のありかたを方向づけられることがあると言われる。私の場合もそのケースにあてはまる。ここでは、新人の頃の出来事を幾つか思い出しながら、始めて受け持った患者と二番目に受け持った患者が今でも触発してくる関心事にかんして書かせてもらいたい。そのために私は自分の未熟さをさらけだすことになるので、すこし恥ずかしい気がしている。また記憶ちがいがあるかもしれないがお許しいただきたい。ジャネやダマシオの説によると、記憶はいつも現在から未来に向けて書き改められうる無意識の可能態として存在するという。私に記憶ちがいがあったとしたら、それは私が無意識にせよ書き改めたひとつの事実だろうと受けとめていただけるとありがたい。

私は、1970年4月に札幌医大神経精神医学教室に入局した。当時は入局という言葉にすこし抵抗を感じていたのだが、ここではこの言葉を使用することにする。42年ほど前のまだ私の中から学生時代のモラトリアムが抜け切れていない時期のことである。私が3月に入局のお願いに行った時、医局長からは、入局しても、特別なことは何もしてあげることはできないし、積極的に入局を勧めようとも思わない。それでも精神科を選択するというなら歓迎しますよと言われた。そう言われて、当時の私にはあまり違和感はなかった。また精神科以外の選択肢は考えていなかった。入局者は私を含めて4人だった。医局長のことばとは裏腹に、入局後、先輩たちはとても親切に教えてくれたし、私たちは自由に行動させてもらった。

当時の時代の空気には吹き荒れる大学闘争の影響で独特の重苦しさがあった。医局長の言葉にもそのことが反映されていたと思う。そして、そのことを抜きにあの当時のことは語れない気もするので、少しだけ触れておきたい。

1970年の札幌医科大学は、大学封鎖が解除になった直後の混迷状態にあった。精神医学の世界も前年の金沢学会以来の長く続く混乱が始まったばかりであった。

私が入局して2年目のことだと思うが、北海道精神神経学会(地方会)が流会になったこともある。ある治験の発表に抗議する乱入者たちがいたためである。私は演題をだしていたが中止になった時には不謹慎にもホッとしたのを思い出す。

今頃になって、私は大学闘争の影響であの思いがけなく長く続いた混乱した状況は何だったのだろうと考えを巡らすときがある。当時に戻ってみると、私に特別な政治的立ち位置があったわけではなく、デモに出た以外特別の行動をしたわけでもない。しかし私は学生たちの反乱にシンパシーを感じていたし、大学封鎖もやむを得ないと思っていた。また入局後に知った反精神医学の思想には完全な同意はできなかったが、共感できる部分もあった。

私は、そうした姿勢を真っ向から批判する意見が今でもあることを知っている、批判は甘んじて受けようと思う。ただ当時の私には、高等教育システム自体があるいは精神医療や精神科教育や研究のシステムが、様ざまに時代から後れを取って機能不全を起こしているように思えた。それは是正されなければならないと私は考えた。しかし、あるところでそんな考えではだめだと一蹴された。革命が必要だと言いたかったのだろうか。そんな雰囲気の時代であった。もちろん私は革命を考えていたわけではない。

2010年に発行された中井久夫書「日本の医者」には驚愕した。私はこの著書を中井先生が「楡林達夫」というペンネームで1960年代に書いていたことを当時はもちろんまったく知らずに読んでいて、医学の問題点を考える際の参照枠に位置付けていた。その中に、「抵抗的医師とは何か」の一部が入っていたのではないかと思う。「革命家は別の入口へどうぞ」というフレーズが私の記憶に残っている。

そんな時代からずいぶん経った。私が是正されるべき問題と考えたことの一部であるが、厚生労働省(官僚)の主導で徐々に改変が図られている。私にはそれに対するいささかの疑問もある、しかしはっきりした批判的な対抗軸はみえないままである。我々はいったいどこへ向かっていくのだろうか。

それにしても当時はたくさんの言葉が書かれ、たくさんの言葉が語られた。独特のイントネーションで語られる言葉もあった。しかし、言葉がいかに不完全なものであるかを思い知らされることもたびたびだった。倫理的な言葉が、非倫理的な行動で裏切られることもあった。いささか抽象的過ぎる言い方だが、当時は私にとってはそんな時代であった。もっとも、いまだって、根底的な状況はそんなに違わないかもしれないと思う。いろいろあるがこの件に関しては、沈黙することが作法なのかもしれない、このくらいにしておこう。

さて私が入局して始めて受け持った患者は、典型的な統合失調症の患者だった。しかし、私は少しのあいだ、うつ病の患者と考えていた。あるときベテランの看護師から、先生あの患者さんには幻聴があるようですよと耳打ちされた。あわてて聞いてみると、「死ね」「お前なんか必要ない」などと聴こえていて、死のうと思っても考えが途中で消えてしまうので死ぬこともできないと言う。「どうして言ってくれなかったの」と精神科医としてなんとも情けない質問に、「だって、先生は聞いてくれなかったでしょう」ともっともな返答があった。とてつもなく恥ずかしかったが、患者さんは寛容だった。その後彼はぼそぼそといろいろ話をしてくれた。

それから3年後、私は名寄に出張中だった。その患者は台風が上陸するという予報があった日に、私に会いに行くと妻に言い残したまま行方不明となった。数日後に月寒の林の中で、縊死状態で発見された。そのことを聞いたときはショックだった。私は、「先生は聞いてくれなかったでしょう」という彼の言葉をいまでも肝に銘じている。もちろん、彼にこの言葉を言わせてしまったのは私の論外の未熟さのせいである。しかしその後、精神科医として良い聴き手であるとはどういうことかを含めたコミュニケーションの問題はずっと私の課題となった。

この事に関連して、もう一人、別の患者のことに触れておきたい。入局2年目に、私は病棟のレクレーションを担当することになった。無茶なこともしたので、医局の先生方には随分と心配をおかけしたと思う。

看護師さんたちの希望をうけて、春のレクレーションに運動会を行い、夏に銭函で海水浴をすることになった。海水浴には、けっこう重症の患者も連れて行った。そんな中の一人に、病棟では独語をしながら徘徊し、話しかけても一度も反応してくれない患者がいた。私が受け持っていたのではないのだが、その患者がなぜか浜辺で私の後についてきてボートのまえで立ち止まった。今から考えると無謀にも、私は乗るかいと声をかけた。すると、彼はさっさと乗り込んだ。ボートの中で彼はあいかわらず無口で、硬い表情のまましっかりヘリにつかまっていた。波は結構荒かった。彼の雰囲気から、急に私は彼が立ちあがるのではないかと不安になった。話しかけても返答はない。それでも私は話しかけた。見ている人がいたら、私が独語をしていると思っただろう。結局は私のひとり相撲で無事浜辺にボートはたどり着いた。

海水浴は大成功で、帰りのバスの中ではみんな満足していた。そして私の不安も消えていた。翌日、病棟へ行って、「おはよう」という明るい声に振り向くと、ボートの相棒の声だった。それは始めて聞く声だった。私のあいさつが終わる前に、彼は手に持ったコップを私の目の前につきだし、「HふたつとOひとつ、そんな言い方したらおいしくないよね」と言ってにっこり笑い、私が反応する間もなく彼はくるりと立ち去った。たった一瞬の出来事だったけれども、私はひどく嬉しかった。その後、彼とはまたコミュニケーションが断絶したままとなったので、大げさだが、それは私にとって奇跡のような瞬間だった。どんなにぎこちない形であろうと彼が話しかけてくれたことに、私はいろいろと考えさせられると同時に勇気づけられた。

こんな経験を重ねるうちに、私の中で、対人関係の中核にあたるといえるコミュニケーションや対話への興味が徐々に深まっていった。当たり前ともいえるが、精神医学的面接や精神療法の一番の基本はコミュニケーションプロセスにあると私は思う、サリバンや中井久夫は、もっとも良質な仕方でこのプロセスに触れ、精神科医がどのように対応すべきかを教えてくれている。しかしそのプロセスそのものの生成機序に関する解析がこれまで十分なされてきたとはいえない。私はそうしたことを探求することで、先のボートの相棒との体験もより深く理解でるのではないかと思った。

ところで私は入局の時から統合失調症の精神病理に関心があった。この分野は、1970年代に大学の研究が著しく停滞する中で、「分裂病の精神病理」シリーズの出版を通じて、ほとんど唯一生彩を放ち輝いていた分野である。もっとも、その後急速に輝きを失っていくのであるが、私はその分野に強く魅了されていた。

私は自分なりに精神病理の問題にアプローチをする際に、コミュニケーションプロセスが一つの補助線となりうると考えた。そしてその参考枠としてパースやバフチン、ヴィゴツキーなどの対話を重視する言語観に関心を持った。「言語は人間のあらゆるコミュニケーションの基礎であり言語は常に対話の性質をもっている」「すべての思考は対話の形式をとっている」「内言、独語にも対話の形式がある」と彼らは主張する。つまり言語や思考そのものに自己と他者が内包される対話性すなわちコミュニケーションプロセスの内在を認めようという主張である。これは有名な言語学者チョムスキーの言語観の対極に当たる見方である。この主張に基づいて、私は、たとえば、幻聴やつつぬけ体験やさせられた体験などの構造、あるいはそこに出現する他者性についてより深く理解する手掛かりが得られるのではないかと考えた。

コミュニケーションに関連する、私の考えはさておいて、現在、私なりに幾つか注目したいと思っている動きがある。一つは、臨床哲学や現象学的哲学者、たとえば村上靖彦などが、看護やリハビリ、終末期医療、精神医療の現場での医師、看護師、患者の対人関係や会話の構造について彼らの視点から論じ始めていることである。もう一つは、社会脳や言語をめぐる脳科学的研究をコミュニケーションの精神病理的な研究に結びつけるという可能性である。三番目に脳のカオス理論の第一人者津田一郎がコミュニケーションの過程を数学的に表現し、それを脳の創造性の過程という観点から、脳科学へと接続させようとしていることである。

 次に私が受け持った二人目の患者に話を移したい。その患者はやや虚弱な体型の若い女性だった。疎通性は保たれていたが、統合失調症の緊張型と思われる症状を示し世界没落体験を訴えることもあった。しかし同時にヒステリー的色彩を色濃く持った患者であった。

急性期には、はげしい錯乱状態を呈し退行状態を認めた。素っ裸に便をぬりたくることもあり、泣き叫ぶかと思うと、けたたましくひきつるように笑い、「いま理解してくれたと思った」ということもあった。また夜中じゅう叫び続けることもあった。或る時は私のまずい面接のさなか飛び出して、運動暴発を示し、その後に擬死反射を認めた。これはクレッチマーが人類のヒステリー反応の基本であると述べた原始反応である。

看護者と主治医の私は手ごわい境界型人格障害の患者にされるようにチームワークを引き裂かれ、私はしばしば孤立した。それでも、誤解を恐れずに言えば、この患者の状態に私は魅了されていた。幸いというべきか、残念というべきか、どういうべきか、私はその後、彼女ほど激しい症状を示す患者に出会うことはなかった。

彼女は二度目の入院の時に、体に針を10本近く刺して現れ驚かされた、1本は心臓の鼓動と一緒に動いていた。1974年に北海道精神神経学会(地方会)でヒステリーのシンポジュウムが持たれることとなり、私はこの症例を発表するように言われた。そこで私は統合失調症(緊張型)とヒステリーの境界例と考えて発表することにした。今では,この患者は緊張病と考えておいてよさそうだと思っている。緊張病は本来その中にヒステリーや錯乱、神秘的な夢幻様状態などを内包しうるものであろう。そうした緊張病の状態がこれまで精神病(狂気)のイメージの源流を形成してきたものといえるのではあるまいか。ところで当時私は精神分析学者のフェアベーンが、「人格の対象関係論」で、ヒステリーの中に、統合失調症と関連する自我分裂が潜んでいると述べているという情報をえて、参考にしようと思ったが文献を手に入れることが出来ず、それ以上は分からずじまいだった。いい考察のアイデアもないままに全く不満足な発表だった。

それ以来ヒステリーの問題はずっと私の宿題として残ってしまった。1980年にDSMⅢでそのヒステリーの名称が葬り去られて幾つかの疾患に分散されてしまったというのに、私の脳裏にはヒステリーが、まるでコード化された妄想の主題のように居座っている。

そして困ったことに注目を浴びる新しい疾患が出現してくるたびに、ヒステリーの影が見え隠れするように思えてくる。詳細を述べる余裕はないが、まず1970年代から1980年代にかけてもっとも注目された境界例や境界型人格障害は、私の症例のことはさておいても、ヒステリーの概念を抜きには充分理解できないものと私は思う。その境界性人格障害がなぜか減少しだした1990年代に、変わって注目され始めたのは解離やトラウマである。それは言うまでもなくジャネやフロイトのヒステリー研究の中核的な現象である。またやはり、1990年代に注目され始めたパニック障害はフロイトのいう、不安ヒステリーの現代版であるとも思えるし、いわゆる新型うつ病の一部の患者に、疾病利得が透けてみえるようで、やはりヒステリー合併の現代版とでも呼ぶべき姿が現れているように思える。同様にリストカットや過食症にもヒステリーの影をみいだせるのではないかと思えてくるし、最近の双極障害Ⅱ型やアスペルガー症候群にもと、私のヒステリー概念はどんどん妄想の森に迷い込んでしまいそうなのでこのくらいにしておくべきだろう。

それにしても近年、なぜこんなにつぎつぎと疾患の流行がまるで感染症のように起こるのだろう。それを考えるヒントに集団ヒステリーの現象を想起しておくことがよさそうに思う。社会的に構成された欲望や表象が大衆の間で感染し流行するように、一部の心の病も集団的に感染し流行する。今日の情報社会では、そうした感染はいくばくかの疾病利得的色彩を持たされてきわめて容易に起こされてしまうのではあるまいか。「関連性理論」で有名なスペルベルは「表彰は感染するー文化の自然文化的アプローチ」という書物で表象や観念の感染についてすぐれた考察を加えている。

最近、精神病理学者の内海健が現在は「分裂病は消滅」しかけており、それにかわって解離やトラウマが注目を受けていると述べている。つまり統合失調症からヒステリーへと現代は疾病の流れがみられるということになるだろうと私は思う。このことを考えるうえで、江口重幸が紹介している一つの仮説が示唆的である。江口によると、民族精神医学者のジョルジュ・ドウヴルーが、これまで、統合失調症とヒステリーとを代表的障害とする時代が交替現象のように出現してきたと主張しているというのである。最もこの主張を安易に今の日本の現状に当てはめてよいかどうかには、もう少し熟慮が必要となるだろう。

ところで私は自分の使用するヒステリーという表現で、意に反して患者を貶める結果になることを恐れる。先にふれた疾病利得といういい方がすでに問題をふくんだ表現である。現在、日常用語として使われるヒステリーの表現には深く浸透したスティグマ性があり、それを払拭するのは困難であろうと思う。やはりヒステリーはノスタルジーやメランコリーのように精神科の疾患を現す言葉としては退場していただくしかなさそうだ。私の脳裏のヒステリー妄想もご退場願い消滅してもらいたいものだ。

ともあれ、私は始めに受け持った二人の患者に触発される形でコミュニケーションとヒステリーに関心を持った。

コミュニケーションはあまりにも漠とした広い意味をもっていて、それ自体を精神科的研究の主題にすることが難しい一面があるが、様々な角度からもっと検討されてもよい重要な課題であると私は思う。

またヒステリーに関するいささか偏りの強い私の考え方には、反論があろうと思う。しかしヒステリーをめぐっては、フロイトをはじめとして、これまで積み上げられてきた学問的業績には重い物がある、これからも、それを継承し新しく書き換えていく必要があるのであるまいか。ヒステリーという表現がなくなっても、それはいつも、新しい時代や文化の衣装をまとって現れてくる疾患であるのだから、これからも我々はヒステリー的な心の変容に追いかけられることになるのではあるまいか。

                *

おわりに、入局した年の夏休みに、このまま精神科医をやっていけるのだろうかという不安と自信の欠乏を抱えたままに出かけたまったく個人的な小さな旅のことについて触れさせていただきたい。

当時私はもう青年期も卒業しなければいけない年齢であったのに、すこし恥ずかしい言い方だが、私はまだ学生時代からの観念だけが肥大した青春の残照を引きずっていた。2001年に「青春の終焉」という本のなかで、三浦雅士は1960年代に「青春」は終わったのだと主張している。「1960年代を最後に、青春という言葉はその輝きを失ってゆく。学生反乱の年として知られる1968年、おそらくその最後の輝き、爆発するような輝きを残して、この言葉は消えていった」。と三浦は言う。つまり私より少し若い団塊の世代で日本の近代的青春という概念は終焉し様変わりしていったというのである。最も三浦の取り上げる「青春」という概念は、日本近代文学が主題と掲げてきた意味合いでの青春である。ここではそれ以上の説明が難しいけれども、ミシェル・フーコーの「人間」の終焉を重ね合わせ考えてみたくなる興味深い主張であると私は思う。

とはいっても当時、私は青春についてそんな風に考えた事はまったくなかった。1970年の8月、私は旅行バックにレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」と安部公房の「燃えつきた地図」をおし込み、これが最後の乗船になるのだろうと考えながら、実際にそうなったのだが連絡船で東京へ向かった。そして数日間、私は新宿の街をさまよった。

日本の高度成長経済の全盛期を体現する新宿の街は、あらゆる欲望をのみこみ、さらに、押し寄せるあらゆる世界の文化をも飲みこむ猥雑にうごめく街であった。インドの偉大な信仰も後にオーム真理教が体現することになるその毒も、アメリカのヒッピー的サブカルチャーもベトナム戦争も、フランスの構造主義も5月革命も、中国の文化大革命も、さらには全共闘も東大の安田講堂もフォークゲリラも、そしてどのような情報でも新宿なら皆なのみ込んでしまいそうだ。私はそんなふうに感じながら歩き回った。歩きながらいろいろな思いや不安や雑念を整理したいものだと考えたが、ますます観念の迷路に迷い込むだけだった。

その当時、私は自分が何を感じどう考えたのかはあまり思い出せない。ここでは思いだせる範囲のことをフラッシュ・バックふうに記してみる。

紀伊国屋書店、ジャズ喫茶、長髪でシンナーにラリッテいる若者、短髪でセッター履きの怖そうなおにいさん、通り過ぎていく美しい女性たち、深夜映画、迷い込んだ盛り場の場末、そこで見かけた体重計が壊れそうな肥満体のおばさんの罵声、迷路のような地下街とそこから何度も間違えて出たときに何度も目にした甲州街道の標識、べ平連が兵役拒否の米兵をかくまった時の舞台となった伝説の名曲喫茶風月堂、早稲田小劇場の舞台で、今でも好きな女優の一人である白石加代子が演じた狂気が私の患者の緊張病症状にはかなわないなと思ったことなどが浮かんでくる。

またたまたま、アートシアターで上映していた、ビートルズの「レット・イット・ビー」を私は2日間続けて見た。解散に向かう4人のメンバー同志はさすがにぎこちなくよそよそしかった。そして、ジョン・レノンに黒猫のように寄り添う、小野洋子が少し気持ち悪かった。愛し合うジョンと洋子の二人は他のメンバーからは浮いて見えた。解散はやむを得ないことだったのだろう。

曲の中では、私は「レット・イット・ビー」と「ゲット・バック」が好きだった。もっとも音楽的なことを言う資格は私にはない、この映画によって初めて私はビートルズのフアンになったのだ。私は、新宿の街を歩きながら、「焼かれた地図」の主人公のように、ここで、このまま蒸発してしまったらどうなるだろうと考えてもみたが、小説のようにそれで終わりというわけにはいかない。「Get back to where you once belonged get back, get back」というゲット・バックのフレーズに背中を押されるような思いで、私は北海道に戻った。

後で知ったことであるが、レット・イット・ビーは、この曲を作ったポールが、解散することに悩んでいるときに、亡き母が夢にあらわれて、耳元で、あるがままに受け止めるのよとささやいたことから発想されたものだという。それを知って以来、森田療法の「あるがままに」を連想させるこの、レット・イット・ビーというフレーズは私にとってはとても身近なものとなった。

ところで、いまゲット・バックと言われたら、どうしようか。できることなら、私はどこかへ戻るのではなく、もう少しの間、精神科医療の世界の中に居させてもらいたいと思う。凡庸な精神科医ながら、新しい精神科医療の展開をもう少し現役で見させてほしいと思う。そして、そのために活躍する若い世代の動向を楽しませてもらいたいとも思う。どの時代にもその悩みの形態に差異があっても、青春を生きる若い世代がいて、彼らが中心になって次の時代を作っていくものだ。
          2013年1月、北海道精神神経学会会報、第46号


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