見出し画像

漆原友紀『水域』から改めて考える、「故郷」という忘れられない存在について

前置き


 時の流れはあまりにも早く、人生80年程度ならばあっという間に終わってしまうのではないかと感じてしまうこの頃です。私が年を取ったことも大きいのでしょうが、何よりも年始から7月初旬までの海外でのリトリートの影響だということは間違いないでしょう。朝の読経から始まり瞑想をしていると気づけばもう夜になっており、「こんな生活を続けていれば、人生なんてあっという間に終わるのだろうな」と思う一方、苦しい時間というのは無限の牢獄にいるようにも感じられ、私たちの不思議な時間感覚に思いを馳せたりします。
 それにしても一度Xを覗いてみると、4カ月前には大流行していただろうアニメ『葬送のフリーレン』、『薬屋のひとりごと』の話など、もはや誰もしておらず、世間の話題が流れる速さにも驚くものです。
 現在の私はすっかり世の流れに乗り遅れてしまっているわけですが(松本人志さんの不倫?疑惑によるキャンセル運動?のようなことがあったのも、他人から教えてもらい、つい最近知った)、帰国直後に話題になっていた東京都知事選さえも、もはや完全に忘れ去られており、世のことを本当に真剣に考えて生きている人達ですら、かつてジュリー(沢田研二さん)が「時の過ぎゆくままに この身をまかせ」と歌ったようにただ世の流れに身を任せているだけのように感じられてしまい、某天才に「これでいいのだ!」と言われている気分にもなります。
 少し憎たらしい言い方になってしまいました。そんなことを思いながらも、やはり名作がすぐに忘れ去られる世の中には少しばかり抗いたくなってしまう性分なのか、前回は『葬送のフリーレン』と『薬屋のひとりごと』について、旬の時期が過ぎ去った今だからこそ、ついつい熱く語ってしまったわけですが・・・( ´∀` )。言い訳ではありませんが、名作というものはどれほど時間が経っても、その素晴らしさを損なうことはありませんからね!

 そんなわけで、4カ月ほど前に仏教のアレ編集部の遊心さんから勧められて読んだ『水域』、こちらが大変素晴らしい作品でしたので、今回は本作から思わず考えてしまったことについて少しばかり語ってみたいと思います。     

※ 安心していただきたいのですが、本作は上下2巻と短く、具体的な内容には踏み込みません。とはいえ、ざっくりとした内容については言及しますので「1mm足りともネタバレは嫌だ!」、という方は『水域』の方を先に読んでから本稿を読んでいたければ幸いです。




『水域』のテーマについて


 簡単に『水域』のあらすじを確認しておきましょう。


日照り続きで、給水制限中の街。酷暑にあてられて意識を失った川村千波(かわむら・ちなみ)は、豊かな水にあふれる村で、少年と老人に出会う夢を見る。祖母に夢の話を聞かせた千波は、意外な言葉を聞く。「それ……ばあちゃんの昔の家じゃないかねぇ」また行きたい──そう願った千波が目を覚ましたのは、夢だと思っていたあの村。そして再会した少年・スミオから、この村では雨が降り止まないことを知らされる。『蟲師』漆原友紀が描く、人々の想いと忘れえぬ記憶の物語

『水域』上 Amazon 購入ページより引用

少年・スミオとその父が住む“夢の村”。他には誰もいないその村に、母親や友達が大勢戻ってきた。若い頃の姿をした千波の母は、千波に「ここは今はもうない場所だ」と教える。その直後から、千波は、朝目覚めても元の世界に戻れなくなってしまい……。――すべてを知った時、人々は自分が居るべき場所を悟る

『水域』下 Amazon 購入ページより引用


 仏教のアレ編集部の遊心さんの言うとおり、本作はまさにフリーレンの感想noteで私が書いたテーマと被る部分も多い作品です。それは、太字で引用したあらすじの2カ所を読むだけでも読み取ることが可能でしょう。
 つまり、私たちの過去の選択、それがもたらした後悔(トラウマと言ってもいい)を思い出し(事柄の「再解釈」)、そこから「私」の物語を「再解釈」するということです。
 『葬送のフリーレン』という作品が、過去の出来事をとてもきれいに「再解釈」する作品であるのに対し(この作品の凄さは、きれいごとを受け入れさせるほどの説得力があることです)、『水域』は徹底的に過去の後悔と対峙し続ける作品になります。
 そういえば、以前私も以下のようなポストをしたのでした。




 さらに本作の特徴を一つあげれば、自分がいるべき場所を悟った(≒「物語」の「再解釈」)後でさえ、私たちが悩むことは止まらないということでしょう。
 『葬送のフリーレン』という作品においては、各キャラクターが自身の「物語の再解釈」(それも、一回のみで!)を踏まえて、それに関する全ての問題を乗り越えているような印象を受けますが、実際の現実生活においては何度も過去の「再解釈」を繰り返しながら、私たちは過去の出来事の解釈を少しずつ変化させていき、この過程の中で、過去から現在までの私たち(=パッケージされた「私」)の物語を同時並行で紡いでいきます
 とりわけ、私たちにとって忘れることができない程の大きな出来事(「トラウマ」と定義しておきましょう)というものは、一度心の蓋が開き、その「トラウマ」に気がついてしまうと、もう後戻りはできません
 精神医学については完全にド素人の人間のため無責任なことしか言えませんが、瞑想実践のようなことをしていても、大小はさておき、自らが忘れていたこのような過去の体験は頻繁に想起されますし、これについては多くの瞑想者も同意するところでしょう。

 本作の一番の特徴と言ってもいいのは、既に述べたように「トラウマ」に対する「私の物語」の「再解釈」で話が終わるのではなく、一度できた空白(≒「トラウマ」)は永遠に残り続ける、というビターエンドで終わるところでしょう。親子3代に渡って紡がれてきた物語(命をつなぐことによって始めて対峙できる人の過去がある、という意味で、この物語の主人公が祖母から見た孫、千波であることは大変重要なことだと思います)と各個人による「再解釈」は、とても感動的なものではあったけれど(家族の絆も確実に強くなったことだろう)、やはりこの過程を経ても、当人の心に残り続けるネガティブな「何か」は確実に存在します。
 この「何か」を一言で言ってしまえば、「過去それ自体」は消えることはない、つまり「トラウマ」は残り続ける、これに尽きるでしょう。作中タイトルにある『水域』がまさにそれにあたりますが、この「水域」という表現も、その領域は時間の流れと共に変化し続けるという意味でも、とても上手いと感じます。


 そして、とても大事なことですが、この「トラウマ」はポジティブな要素も同時に備えています。だからこそ、前回のnoteでも、ポジティブな部分にスポットライトをあてる(『葬送のフリーレン』という作品の根幹でもあります)という表現をしました。
 このポジティブとネガティブの両立、その不可分さについて、私のポストでは「物事の淡い」とし、漆原先生の言葉では「水域」(物語上、実際に「水域」という存在が大きな要素となっている)という表現になっていますが、これをさらに「解釈」の両義性と言い換えても許されるでしょう。
 つまり、事柄(「トラウマ」)それ自体は確かに存在している(素朴な実感として、そうとしか思えない)が、それをどのように規定(捉える対象範囲も時々で微妙に異なる)し、規定した事柄(「トラウマ」)をどう「解釈」するのか、これがその時々によって移ろうために、ポジティブな側面にスポットがあたることも、ネガティブな側面にスポットがあたることも、さらには、その両方を捉えることもある、という結果をもたらします。要はポジティブにもネガティブにも解釈できる、という意味で両義的である、ということです。



瞑想との関連(瞑想に関心のない方は飛ばしていただいて結構です)



 抽象的な話が続きました。このような話をすると、瞑想経験者からは、「現象(≒事柄)それ自体を捉えること(如実知見)が何よりも大事なんだ」、というコメントがきそうですが、これは私の問題意識"とは"かなりズレる回答です。
 というのも、実際に私たちが日常生活をする中では、如実知見とはとても言えない概念をベースに現実社会が成り立っている部分があります(わかりやすい例で言えば、「人権」などがまさにそうでしょう。実体がないものです。)し、そうした中で生活を強いられる私たちの日常において、瞑想状態を完全に保つことはかなり難しい、と私の少ない瞑想経験からは感じられるからです。
 このような意見に対し、想定される反論としては、「それはあなたの瞑想の到達点が低いから、日常での気づきが保てないのです。(要は、修行が足りないということ)」というものがあり得るでしょうが、所謂テーラワーダ圏の伝統に従って瞑想実践をしている場合(もちろん、テーラワーダと言っても細かくは千差万別なのですが)は、サンガに籠る場合を除いて、日常と瞑想状態の接続という話は問題になる可能性が高そうです(禅の文脈で言えば、接続という表現はしないのかもしれません)。というのも、恐らくほとんどすべてのテーラワーダ圏において、瞑想状態(≒気づき)を日常生活でも保つことを指導しますが、ひとたび修行場所(僧院、瞑想センター等)から離れてしまえば、瞑想状態を削ぐような刺激で溢れています。私の体験で言えば、このギャップは初心者時代よりも(現在も初心者に毛が生えたくらいですが笑)瞑想が深まった時ほど大きく、さらにそのギャップに対しての苦しみも増大したように思います。
 私の例では大変心もとないので、現代ミャンマーの高僧の例をあげてみましょう。 実際、世界的にも著名な現代ミャンマーを代表する高僧であられるウ・テジャニヤ長老の以下の文章を読んだ際に、やはりこの問題は確実に修行者に生じるものである、という確信を得ました。




 それにしても、いかに日常生活で気づきを保つのが難しいのかということを痛感します。引用ポストについて私の個人的な見解を述べさせてもらうと、ウ・テジャニヤ長老は(おそらく、修行者に注意を促す意図で)故意に卑下しながら、この6カ月の修行は無駄であったと言っていますが、(個人的にこのような言い方は好きではないのですが)この6カ月間で瞑想修行して得た境地それ自体と、それを体験して知っていること(=智慧)は、確実に長老の後の修行にとってプラスになっていたはずです。ちなみに、私も6カ月ほどリトリートした後に全く同じ感想を持ちましたし、何ならその前の3カ月リトリートでも同じ感想を持っていました。・・・そうです、「なんということだ!私は全く成長していないだと!?」というお気持ちにもなりました。
 ここで強調したいことは、現代を代表する高僧であっても、在家の身で日常生活でも瞑想中の気づきを保ち続けること、これがいかに難しいことであるか、ということです。ウ・テジャニヤ長老についての情報を少し補足をすると、私が海外の僧院や瞑想センターを周る中で、西洋人からも彼の名前を何度も聞きしましたし、彼のところで修行したことのある人は、皆とても熱心に瞑想をされていた印象があります。現在はコロナの影響で外国人修行者は滞在できないようですが、機会があれば是非とも訪問したい場所のひとつです。

 ウンチクが長々と続いてしまいましたが、一言でまとめると、サンガに籠って瞑想して「何か」しらを得て日常生活に戻ったとしても、それだけで本人の問題(「苦」と言ってもいい)が全て解決するわけではない可能性がある、というある意味で当たり前の話です。もちろん、在家修行者がどのような目的で修行をしているのか、という理由にもよると思いますが、この点は何度でも繰り返し確認する必要がある話だと、個人的には感じています。よく言われることですが、瞑想はあらゆる問題を解決する万能ツールではなく、そのメリットを生かすも殺すも実践者次第という部分は、少なからずあるでしょう。


 ついつい仏教実践の話(と私の個人的な問題の話)が長くなりましたが、実は私の中でこの話と始めの『水域』の話は完全に繋がっています。とは言え、仏教に(もしくは『水域』に)興味のない人からすれば、どうでもいい話だったかもしれません(笑)。




忘れられない、割り切れないものを抱えながら生きていくこと


 話が少し脱線しましたが(もちろん、実際はつながっています)、『水域』を読む中で私が思い出したのは、父の「故郷」のことです。既に4000字も超えてしまいましたが、最後に父と「故郷」に関わる話、そこから考えたことを最後に綴りたいと思います。


 父の故郷は四国の端にあり、四国の中でも特に田舎の部類に入る場所だと思いますが、3年ほど前、私の兄の家族に念願の第一子が生まれ、父の故郷こそが私の一家のルーツであろうということで、父、兄、義姉、姪っ子、私の5人で父の生まれ故郷を訪問することになりました。
 なぜここに私が入るかと言えば、単純に車を運転できる人間が父以外に私しかいなかったからでしょう(笑)。もちろん、私自身も父の生まれ故郷には行ったことがなかった(父の実家は、父の生まれ故郷から少し離れた集落にある)ので、一度は行ってみたいと思っていたのですが・・・。
 ここで事前に父の環境について少し確認しておくと、父は県内の高校に進学するため下宿し、(つまり、生まれ「故郷」を15歳の時に出た)、その後は愛知の大学に進学し、そのまま愛知県が本社の会社に就職したので、実家に住んでいたのはわずか15年のことです。この15年の影響がどれほど大きいのか、ということを彼の姿から痛感するばかりです(これ以降の文章を読んでいただければ、皆さんにも納得いただけるはずです)。
 しかしここで注意しなければならないのは、四国のそれも最も田舎の地域が故郷の今70歳前後の人間が、50年以上前の当時において地元から都会に出るということは、クリスタルキングの名曲、『大都会』のような意味を持っていたはずです。1979年に発売されたこの曲は実際に父が大学に進学した年と近く、わずか数年遅れです。長いですが、大事なところですので、歌詞を全文引用します。


あー 果てしない
夢を追い続け
あー いつの日か
大空かけめぐる

裏切りの言葉に 故郷を離れ
わずかな望みを求め
さすらう 俺なのさ

見知らぬ街では
期待と不安がひとつになって
過ぎゆく日々など
わからない

交わす言葉も寒い この都会(まち)
これも運命(さだめ)と
生きてゆくのか
今日と違うはずの 明日へ
Run Away Run Away
今 駆けてゆく

裏切りの街でも
俺の心に灯をともす
わずかな愛が あればいい
こんな俺でも
いつか光をあびながら
きっと笑える日が来るさ


朝やけ静かに空を染めて
輝く陽をうけ
生きてゆくのさ
あふれる熱い心 とき放し
Run Away Run Away
今 駆けてゆく

朝やけ静かに空を染めて
輝く陽をうけ
生きてゆくのさ
あふれる熱い心 とき放し
Run Away Run Away 今 駆けてゆく
あー果てしない
夢を追い続け
あーいつの日か 大空かけめぐる

あー果てしない
夢を追い続け
あーいつの日か
大空かけめぐる

クリスタルキング『大都会』より引用



 太字引用部がまさに父の「故郷」に対する感覚を表現していると思いますが、この『大都会』との大きな違いとしては、夢を追いかけて都会(まち)に出るのではなく、「この町にいられないから、仕方なく外に出た」、つまり、ここで先に結論を述べてしまえば、父が「故郷」を完全には捨てられなかったことが、70歳近くなっても未だに父が「トラウマ」として苦しむことになっている大きな原因となります。
 実際、私の父が「故郷」を捨てられなかった理由は、はっきりとはわかりませんが、「故郷」を大事にしなければいけない、という倫理観が人一倍強いことはわかります。これが、一度「故郷」をすてたからなのか、父の幼少期の「故郷」での原初体験による倫理観なのか、当時の時代の価値観による影響を受けてなのか、生来からの本人の気質からなのかは不明ですが、(おそらく、このすべてが絡み合ってのことでしょう)、彼の「トラウマ」の大きさは計り知れないものであることは、よくわかります。

 さらにもう少し父の境遇について確認します。父は4人兄妹の次男でしたが、幼少期の彼は居場所が「ここにはない」感覚が、強烈にあったことが推察されます。まず、当時のド田舎では絶対に認知されていなかった吃音で、喋ることは上手くなく、それを学校•家族含めて何度も弄られたことでしょう。現在ではその面影がまったく見えないあたり、相当な努力をしたことが伺えます。また、これは吃音の方からよく聞く話ですが、国語の時間の音読は、それは地獄の時間であったということは、父が泥酔した際には何度も聞いたものです。それとは対照的に父の兄は社交的で、とても器用であり、とにかく父とは正反対の存在であると感じます。
 田舎の村だったので、小学校は当時でも全学年で10名くらいであり、基本的には全員で遊ぶ習慣のようでしたが、吃音で不器用で、加えて小学校の低学年の頃には、「宇宙ってどうなっているのだろう」、「死んだらどうなるのだろう」という実存的な問題に取りつかれており、さらには、田舎の少年の定番である川遊び、めんこ遊びといったものも好きではなかったため(絵を書くのが好きだった)、より一層周りから浮いていたことでしょう。というよりも、言葉を選ばずに言えばハブられていたはずです。
 現代人の私ですら、この性格で60年以上前の四国の田舎(それも最も田舎であろう場所)に住んでいれば、本人の自己肯定感に多大なる悪影響を与えることは、想像に容易いものです。しかし同時に、残酷ではありますが、インターネットもない当時の田舎社会において、これはある意味で仕方のないことだとも思います。

 そんな父は母と結婚し、家族ができ、子供が生まれ、一度捨てた「実家」に何度も帰るイベントが発生する中で、「故郷」と親戚等とのやり取りが発生し、その中で彼は何度も自らの居場所が「ここにはない」ことを痛感したことでしょう。そして、父はサラリーマンから独立し、それ以来、現在も自営業を続けているのですが、独立する際も私の祖父母から大きな反対を受けたようです。基本的に父は、あらゆる人生の決断について「せっかち」であるために、ほぼすべての人生の大きなイベントについて、周りから反対を受けていたようですが・・・(笑)。今思えば、映画『マネーボール』のビリー・ビーンと似ている性格なのかもしれません。
 ちなみに、正義感、倫理観が人一倍強く、世渡りが下手な私の父のような人間には、サラリーマンで終身雇用といったライフスタイルは絶対に無理だったでしょう。また、職人気質にありがちな不器用さも当然(?)備えており、アルバイトとして仕事を手伝っていた兄いわく、メールの文面は崩壊していることも多かったようです。
 さらに、母が父の実家に行った際に、田舎特有の女性の扱いのひどさについて言及し(正確には父の両親を厳しく窘めたようですが)、父の両親の顰蹙ひんしゅくを買い、その結果、当然父に対する眼差しもより一層厳しいものになり、母の方からも父の実家の悪口をこれ以降永遠に言われ続けるなど、四面楚歌状態が長い間続きました。
 他にも、父が叱り母がなだめるという、ある世代までは共通のロールプレイであった教育スタイルであったために、幼少期の子供は当然のように母親になついていたため(子供が親の背景を知るには、それなりに時間がかかるでしょう)、仕事場も家の一室であり、家庭にも安住できる場所がなかった結果、犬を飼うことにしたという話(この話は犬が亡くなってから聞いた)は、なんというか息子ながら悲しすぎるものがあります。


 実家に関わる話をあげればキリがないのですが、それでも、父は生まれ「故郷」を捨てることは決してできなかった、このことが意味する重さを舐めてはいけないでしょう。10年程前までの私ならば、『るろうに剣心』の斎藤一のごとく「悪・即・斬」で、そんなものは縁を切ればいい、という話をしていましたし、現代の価値観からすれば、こちら側が主流派なのも理解できます。
 しかし、ここまで長々と説明してきた父の背景、何よりも『水域』を読んだ方なら同意いただけると思いますが、私たちはそれほど簡単に過去の「トラウマ」を割り切ることはできません。私の父にとっては、それがたまたま「故郷」であっただけであり、現代の私たちにも各人で異なる「トラウマ」は確実にあります。
 こうした状況を鑑みても、父の苦悩をおもんばかれるのは、距離があるゆえに俯瞰的に物事を見ることができる子供の役割なのだと感じます。実際、『水域』における千波も作中の「水域」とは直接関わりがない子どもだから(=距離があるから)こそ、親子3代に渡る橋渡し役になれたのであり、漆原先生が持つ、不思議な世界観にこうしたリアリティーが混在していることが、霊性やオカルトといったジャンルに全く関心がない読者でも楽しめる大きな理由でもあります。
 そして、ここで私が強調したいのは、このような他人の「トラウマ」を自己責任論で片づけることなく、慮ることができることが、「人を尊重する」、「多様性を容認する」ということの持つ「価値」であるということです。私はお世辞にも立派な人間とは言えませんが、少なくとも、せめて自らに近いところにいる人が大事にしているものは(それが理解できると感じた際には)、尊重できるようになりたいですし、それは可能であると信じています。もしそうでなければ、あらゆることが多様化したこの社会において私たちが共存していくことは、ほとんど不可能でしょう。仮にそうなると、共存できない人間に残された道は、究極的には争いしかないのかもしれません。


 ここでようやく話が戻りますが、3年ほど前に、父が15歳の頃まで住んでいた生まれ「故郷」(その時の家はもう存在していない)を訪問した話で本稿を締めたいと思います。
 私の兄家族は、父の生まれ「故郷」に訪問した際、興味深く楽しく景色・風景を見ているわけですが、私はそこでの父の落ち着かない様子にとても違和感を覚え、本人にそのことを聞いてみました。そこで父がなんと答えたのか忘れてしまいましたが、とにかく、そわそわしている様子だけは伝わってきました。
 よくよく考えてみると、これはおかしな話です。父の生まれ「故郷」に家族で訪問することが決まった際に、あれほど嬉しそうにしていたのに、実際に生まれ「故郷」を訪問してみると全く嬉しくなさそうだからです。それどころか辛そうですし、訪問し車から降りたその瞬間から、既に帰りたそうにしています。
 この当時すべてを察しましたが、既に述べたように生まれ「故郷」は父にとっては「トラウマ」の場所であり、そして同時にここは、文字通りの意味で、本人の全ての始まりの場所でもあります。人にとっての大きなイベントは往々にしてポジティブな側面(父の場合は微々たるものな気がしますが)とネガティブな側面、この両面があり、割り切れないものを抱えています。そしてこれは、年をとるほど大きくなるものでしょう。
 だからこそ父は、到着のその瞬間まであれほど楽しそうに自ら車を運転していたのにも関わらず、いざ到着すると豹変してしまったわけです。私はこの場面を目の当たりにした瞬間、百聞は一見に如かずではないですが、人間の「トラウマ」というものは計り知れないものである、と心から感じたものです。少なくとも、おいそれと乗り越えなければならないと言えるものではない、そう感じました。

 しかし残念ながら、私たちは「私の物語」において、割り切れない「何か」を抱えながら生きていかなければなりません。そこから完全に逃れることは、ある例外を除いて不可能でしょう。それについては、前回のフリーレンのnoteでも言及した通りです。
 そんなわけで、父の懐かしの場所(廃校となった小学校跡)をめぐり車で帰路についたわけですが、そこでどうやら約50年ぶりに「故郷」の知人が乗る車とすれ違いまいた。相手は農作業中のようで急いでいる雰囲気は一切なく、普通の感覚ならば、旧友と会って車から降りて声をかけるところだと思いますが(しかも、わざわざ中部から四国まで来ている)、あろうことか、そこで父はスルーしました。
 さすがの私も声をかけない理由を父に尋ねましたが、どうやらその相手とは当時から反りが合わなかった、というのが理由だったようです。そもそも生まれ「故郷」に父と反りが合う人間は誰もいなかったのでしょうが・・・(人口も少ないですし)。それにしてもいくら反りが合わなくとも、さすがに50年ぶりに偶然会えば、声くらいかけてもよさそうですが、やはり「トラウマ」の大きさがそうさせるのでしょう。


父の実家付近にある川。それにしても驚くほど田舎で、民家もほとんどありません。


かつて父の実家があった付近からとった写真。現在では雑木林になっている



父が小学生の頃に通っていた小学校跡


小学校の廊下


教室内1


教室内2



まとめ


 既に一万字近くなってしまったのでまとめに入りますが、今改めて私が思うことは、息子二人とその家族に連れられて父が生まれ「故郷」に行ったことは、本人にとってもよかったのではないか、ということです。あの反応をみる限り、間違いなく父は一人で生まれ「故郷」に帰ることはできなかったでしょう。
父が「故郷」を出ると決めた瞬間から必然的に生まれることになった(※1)「深い 深い 底のほうに ぽっかりと 今はもう無い場所を 湛えた (※2) 生まれ故郷」、そして、その「故郷」をついぞ捨てられなかったゆえに、町としての色が全くない中部地方の私の実家に定住することを決めたことは、確実に関係しています。父は生まれ「故郷」を捨てざるを得なかったけれど、それと同時に、(自覚の有無はさておき)その生まれ「故郷」を別の場所で埋めることもできなかった。これが、父の「トラウマ」の大きさを物語っています。

※1 クリスタルキング『大都会』に見られるこの時代の文脈において、「故郷」に定住しなかったということ(その故郷を離れること)は、「捨てた、裏切り」と見なされます。そして、この時代の空気、価値観を内面化している本人にとって、これは故郷を出ると決めた瞬間から必然的に抱えることになった「空白」であり、トラウマになったということです。

※2『水域』下 より引用


 しかしながら、その捨てた「故郷」ではなく、自ら選んだ色のない町で生まれた息子の存在によって、再び「故郷」に帰る機会を得たことは、絶対にプラスになったでしょう。なぜなら、やはり父は改めて生まれ「故郷」では生きていけないことを、その身をもって痛感したからです。
 父は私が実家に帰ると、「戻れる場所があることは素晴らしいことだろう?」といつも聞いてきます。つい最近まで、その真意はつかめていませんでしたが、今ではそれも理解できます。父にとっては「帰ることができる場所(≒安住できる場所)」がなかった。それゆえに父は、息子たちに「安心して帰ることができる場所」を残そうとした、ということでしょう。これは、彼が持つことになった「トラウマ」がもたらした優しさでもあります。ここからも、人が持つ「トラウマ」がその人の弱点だけではなく、長所も同時にもたらすものであることがわかります。だからこそ、私たちは「過去」を否定するだけの方向ではなく、それを「私の物語」として回収していく努力が大事なのだと思います。
 そして、少なくとも私にとっては、父と母の子供としてこの世に生まれ、色のないあの町で祖母と出会い、そこで育ったこと、この一連の出来事すべては、「私の物語」にとっては必要なことでした。結婚願望もなく、子供も欲しいと思わない私のような人間(兄は二人いますが、両方共に子供がいる)にとって、両親にできることが仮にもあるとすれば、「「私の物語」にとってはこの一連の出来事は必要であった、そう、受け止めてもいいと心から思えた」と伝えることくらいでしょうか(詳細を知りたい方は、前回のnoteを読んでみてください)。
 そして、父のどうしようもない限界というものを目の当たりにした上で、(大変おこがましい表現になるとは思いますが)それでも敢えて言葉にすれば、子供である私はその問題は乗り越えることができた(そして、それは父が私の故郷に定住することを決めたからに他なりません)。この事実が、父の「トラウマ」を少しでも癒すことができたならば、それだけで「父の物語」にとって「私の物語」が少しでも癒しになるのでしょうか?
 そう、祈るばかりです。 







P.S)そういえば、先日一時帰国した際、何年振りかわかりませんが始めて一人で祖母の墓参りに行ってきました。執筆した後に気づきましたが、私は一人でも故郷に問題なく訪問できるということですね。つまり、これは私にとっては「トラウマ」ではなく、フリーレンにおけるヒンメルとの思い出の様に、ポジティブなものとして、いつでも想起することができる、ということです。
 写真は墓場から見える祖母の「故郷」です。暑すぎて、5分程度で帰ってしまったのですが(笑)


祖母の墓から見える景色。私の実家からは車で40分ほど離れた場所にあります
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?