「保育」は、誰でもできる?幼児「教育」は?私が考えること
これについては、長らくずっと考えている。
私は、0~2歳の保育と3~5(6)歳の保育でもまた変わるのではないかと思っている。
私の夫も「保育は誰でもできる派」で、超論理的思考で論争大得意な夫のこの考えに、モヤモヤっとしながらもうまく言い返せないことが歯がゆかったのだけれど。
(※大前提として、夫は自分のいうお世話・保育も満足にしていない人です怒)
話す中でなんとなく見えてきたものもある。
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「オムツ替えや、ミルクあげるとかのお世話は、誰にだってできるじゃん。」
夫は、お世話をする「保育」は技術的には決まっていて難しいものではなく、誰がやっても3(普通・平均)以上にはならないもの。
親ができずにそのプロにだから、と託したいと思う4、とか5になるものではなくて、伸び幅が決まっているものだ、と言う。
それに対して「幼児教育」は、4、5になるものという印象がある。
それに対して私が思ったのは、
「確かに、その行為自体(オムツ替えやミルクをあげるなど)を正しくするというのは、誰にでもできることだとは思う。でも、それを安定・継続して日々をつみ重ねていくことは、誰にでもできることではない。」
ということ。
保育は(特に0~2歳児は)、毎日の生活(ほぼイコール遊び)の積み重ねである。3のレベルを、ずっと維持して毎日安定して関わることが、どんなに難しいことか。
子どもによって快適な生活は違う。
睡眠も、食事も、排泄も、全てが違う中で、その子に合わせたお世話をすること、それも変わらず、毎日。
この保育の意義は大きい。
なぜなら、この0~2歳の毎日の生活の積み重ねが、3歳以降の保育に繋がっていくから。
一般的に、基本的な生活習慣が自立してくると言われる3歳以降は、より一層興味の幅も広がり、友達との関わりも増え社会性が芽生えてくる。
いわゆる夫の思う幼児教育は、この時期の言語や数学的興味の目覚めから始まる、「教科的教育」を指しているのだと思う。
確かに、この時期のひらがなや数字に対する興味に寄り添い、そこを伸ばすことができたら、そのやり方は、4にも5にもなるだろうし、子どもの姿も違うだろう。
でもそれは、0~2歳の乳児期の「3」の積み重ねがあるからこそのこと。
0~2歳が「3」でなくて、「2」や「1」だったら?もしくは、マイナス1だったら??
英語教育なんてものをする前に、人の話をまず「聞く」という前提ができていなかったら?
自分が親になって、本当に実感するのは、乳児期の「3」を継続して毎日積み重ねるのがほんっとーに大変だということ。
親だけでは、無理です。
毎日毎回、「これがいい」とされている保育を実践して「3」でいること、これこそが保育の基礎・意義なのではないかなと思う。
0~2歳と3歳以降に分けて話はしたけれど、どの年齢であっても根本にはこれがあって。
care養護が常に3のレベルにあるから、education教育で4、5と個性豊かに学んでいけるものがあると思っている。
それは必ず一体としてあるもので、切り離せなくて、どちらも大事。
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同時に、保育士は勉強して知識をつけて実践ができれば技術的には「誰にでもできる」のかもしれないけれど、目の前の子どもにあわせて実践をしていくことこそがプロ言わしめるところであり、誰にでもできることではない。
何より
「誰にでも任せたいものではない」
親になって思う本音がこれ。
どんなに理想的な教育方針を掲げられても、careする気がない人には安心して預けられないし、一緒に育児をしたくない。
子どもを見守る眼差しが、子どもの姿の捉え方が、大切な基本。
それがない人には、保育や幼児教育を担ってもらいたくないし、向いていないと思う。
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正直、自分が親になり、「保育士をしていたのに」と思って落ち込んだことが多くある。
でも、やっぱり、保育士という職業と親は違う。
職業として、プロして、驕り高ぶることなく、私はまた現場に戻りたいと思う。
現場に戻って、丁寧に子どもの生活に寄り添って、学びの瞬間に立ち会えたらと思う。
子どもの養護と教育を担う、保育士として。
保育所保育指針、読み直そう。
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