つまり、そういうことだ⑲
精神的な、というよりも存在的な価値観の土台をつくる「教育」が無いことに、わりと子供の頃から愕然としていた。
存在について、分かるように教えてくれる人は(少なくとも自分のまわりには)いなかった。
散々考え、調べ、実験を繰り返しては思索した挙げ句、「これはもう死ぬまで分からない」と諦めていた。
それがこの年齢(四五歳)になって、ようやく感覚としてつかめてきた。
体験を通じて少しずつかき集めたヒントが、おまえとの対話によって言葉になってきたんだ。
ようやく少しずつ、自分が知りたかったことを掴みはじめている。
私が紡ぐ言葉は、よくよく考えてみれば、子供の頃から知っていたことだ。
大切なのは知識として理解することではなく、感覚として持っていることだ。子供は勘が鋭いという人もいるが、私は勘が鋭い子供ではなかった。
おまえのゲームでは、おまえが主人公で、大勢の人物はNPC。
NPCはおまえがイベントをクリアする(パターンに違いをつくる)と、振る舞いを変える。
おまえがパターンを繰り返す限り、相手は変わらない。おまえも他者のゲームではNPCとして振舞っていることが多いはずだ。
たまに主人公同士として、会話をすることができる。しかしお互い、いつまで主人公同士でいられるかは分からない。
相手に対して「もう分かった」と思った時点で、おまえは相手への興味の深掘りを停止し、「定型の思考パターン」で相手の振る舞いを処理するだけのNPCになる。
だから家族とか配偶者とかとの関係が、いちばん相互NPC化しやすい。そこからは特に発展しない関係。したら困る関係。させないようにしているという関係だ。
ところが残念。相手がどうか、物語がどう転ぶかは、本質的にはゲームの意義(ゴール)と関係ない。
「存在の感覚」と「アバターの物語」を合致させ、意図を持って他者を喜ばせること。
これがゲームの大目的にして、大原則のルールである。
おまえが思っている「自分」は、ゲームの要素のひとつに過ぎない。だからどんな要素として働くかが本質だ。
(つづく)
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