自動運転で生きてんじゃねえ (あるエッセイストの言葉)
「人は、やりたいようにやる」
「自分がしたいようにしか、できない」
「その時のベストの答えしか、選択できない」
と思っていた。
「だから、あなたも私もベストを尽くして生きてきたんだよ」
と人を励まし、自らを鼓舞してもいた。
しかし「ここ」に来て、人生のこの地点まで進んできて、どうやら違うらしい可能性があるかもしれない予感がしてきそうな気がしないでもない。いや、する。めっちゃしてる。もうどうしようもない。ビンビン来てる。
もしかして、
「ほとんどの人は『自動運転』で生きてるんじゃないのか」
そんな疑念が頭をもたげてきたのだ。
私たちは人生に目的を求める。
何かを目指そうとする。
それは言うまでもなく「死」への抵抗。
限りある「生」を、どうにか良いものにしたいと望む。
だが。
だが、だが、だが。
もしかしたら、ナビに目的地をセットした車に乗り、走り出した途端に何も考えることをやめ、自動運転に身を委ねているのではないか。
車の自動運転はまだいい。
ちゃんと目的地に着く。
私たちは、いや私は。この私めは。
目的地ではなく、ルートだけを設定して、同じルートをぐるぐる回る、永遠に目的地に到着しない車に身を委ねてきたのではないのか。
「〇〇行き」と目的地をセットしたつもりで、「〇〇を目指す」という「目指すこと」を目的に設定をしてしまったのではないか。
いや、してきた。してきたんだよ。
その自覚がある。
だからか。
目的地には(まだ)到着しなくていい。仕方ない。
だって遠いから。
遥か向こうだもん。
まだまだ到着しないのも無理はない。
そう甘くない。
焦っても無駄だし、簡単に着ける目的地をセットしても意味はない。
そう思い込んで馬齢を重ね、ある日はたと気が付く。
「あれ? セットしたとき、今くらいの年齢には目的地に着いているつもりだったのにな」
振り返ると、目的地に向かっているような気分で、ひたすら同じルートをぐるぐる回っているだけだったことを思い知る。
駐車場を出発して同じ曲がり角で曲がる。同じ信号で止まり、同じ抜け道でショートカットしたら同じガソリンスタンドで給油する。そして同じ駐車場へ帰って来る。
この繰り返しを、どうしてか「目的地に向かっている」と思い込んで焼き直しつづけてきた。
自分の目的は曖昧なまま、誰かがセットした明確な目標を追いかけることで生計を立てた。
今となっては、何を目指していたのかも思い出せない。
なんとなく「ああいう感じ」を目指した記憶はある。
ぼんやりと憧れた、あの感じは、いつかオリジナルの像を結ぶはずだった。
気づけば、誰かに与えられたゴールや、みんなからヘンに思われない振る舞いばかりに長けていた。
変わらないはずだよ。
セットしたのは「〇〇になりたい」とか「〇〇をやる」とかの結果ではなく、「〇〇を目指したい」という願望なんだから。
願望そのものを目的地としてセットしてたんだから。
願望は出発点なんだから。
「私」という車は、忠実に、けなげに願望の維持を目指し、来る日も来る日も律儀に目的地である出発点に帰ってきていた。
自動運転の車には、目的地に着くことより、大切なことがある。
それは「安全」であること。
事故を起こさず、ルールをはみ出さず、目的地を目指しつづけること。
進まない渋滞にハマろうが、工事中で迂回しなければならなかろうが、「いつか」着けば良いのだ。
そこにはリアルな時間感覚はない。
惜しげもなく、同じことの繰り返しに生命(いのち)を費やした。
そして少しずつ緩慢に諦めを受け入れていく。
どうやらこの車は、願望の先へ行くことはないようだと悟りはじめる。
悟りはじめたら、理由探しだ。
出来なかった自分を正当化しなければ。
いまさら「変化」しなくていいとなだめるんだ。
家族とか会社とか責任とか愛情とか環境とか生活とか孤独とかピンチとかチャンスとか栄光とか挫折とか不利とか有利とか教育とか性格とか地元とか家業とかコネとか才能とか友達とか想い出とかトラウマとか法律とか世間体とか裁判とか成績とか障碍とか貧乏とか訓練とか気候とか国境とかイデオロギーとか騒音とか不渡りとか犯罪とか推し活とか生い立ちとか事故とか病気とか分別とかシステムとかルーティンとか限界とか忙しさとかテレビとかネットとか出来レースとか風土とか文化とか伝統とか宗教とか倫理とかロマンとか美学とかことわざとか政治とか戦争とか飢餓とか結婚とか時代とか「むしろ」とか「逆に」とか、ありとあらゆるものを駆使して(自分にとって)反論の余地もない(客観的に見れば)ヘンな理由をつけて、納得しようとする。
甘美な諦め、絶望の安息に耽溺する。
私さんへ、ヒトコト、いいですか?
「自動運転で生きてんじゃねえ!」
不毛な自動運転に気づいたなら、ちゃんと自分でハンドル握るんだよ。
もう遅いとか無理とか怖いとか面倒くさいとか当たり前だろ。
私は、私から絶望を奪う。諦めを破棄する。物わかりの良さをキャンセルする。
私さん、私をラクに生かしてくれてありがとう。
ここまで自動運転で、安全に生命(いのち)を運んでくださって感謝しています。
上手くいくことだけの人生では(当然)ありませんでしたが、すべてを失うかもしれない決断や、恐怖と痛みを伴う変容とは無縁で来られました。
願望に当たらずとも遠からずの、そこそこのドキドキやキラキラやワクワクを蓄積して来られました。
私を心胆寒からしめる、存在そのものを脅かすようなイチかバチかの、底の見えない断崖からの跳躍をせずに済みました。
それらは、いつも夢想でした。
窓ガラスの向こう、遥か遠く見える願望として、私のそばにありました。
私は本来、自分で決断すべきことを先延ばし、後回しにして生きてきました。
私が本来、引き受けるはずだったストレスは、生活の歪(ひずみ)として家族や職場に暗い影を落としました。
それは確かにツラいことだったけど、「本当である」ための決断や取捨選択よりはずっとラクに自然に、暮らしを浸潤したんです。
だって。
自分のせいじゃない。
気がしたから。
人を怨んで、自分を可哀想がって、ワガママを正当化して、環境を受け入れながら現状を諦めて、それに気づかないフリをして来られたんです。
たくさん間違えました。
多くのタイミング、機会を逸しました。
取り返しのつかない過ちも、日常的におかしてきました。
それを「仕方のないこと」と片付けて自動運転に甘んじてきたのです。
その代償として、とても大切なものをいくつか手に入れられました。
それらは「感謝すべきこと」で、日常を肯定しながら上手に目をくらましてくれました。
もう大丈夫です。
私は、自分で行き先を決めます。
いつもと違う角を曲がって、まだ見ぬ景色が待つ道へ向かいます。
期待より、怖さが勝ります。
上手くいくとは思えません。
いまさら。おまえにそんな資格が。本当にやりたいなら、とっくにやっていたはずでは。誰が喜ぶんだ。意地になってるだけ。今あるものへの感謝を忘れている。
頭の中に、声が聴こえます。
自動運転のナビゲーションが「ルートを外れました」と言っているんです。
教えてくれて、ありがとう。
いつものルート、嫌いじゃないんです。
ただ、最後は死ぬんだから、「リアルなところ」ももう少し味わっておきます。
いま、甘やかな願望の夢から醒め、本当の人生へ出発します。
バイバイ。
(エッセイスト)
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