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つまり、そういうことだ⑮

存在の遊戯において、ラスボスはおまえ自身だ。
おまえが大切に、大切に磨き、鍛え、守ってきた「おまえ」。
そのおまえを「ちゃんと使えるか」が、存在の遊戯のクライマックスだ。
自分自身の「全使用」。「フル搾り出し」。「マックス捧げ切り」。
これが存在の遊戯における、クライマックスシーンである。
これこそが、大歓喜だ。

おまえがどんな生き方をしても、最終的に「おまえの軌跡」は、天網恢々疎にして洩らさず、この世界に影響を与えつづける。
しかし、その影響がどのようなものかは、おまえがおまえをどう使ったかにかかっている。

では、もっとも良い「おまえの使い方」は何か。
おまえがナイフだとしよう。
おまえは自分を研ぎ、磨き、洗い、大切にしている。
鞘に仕舞い、たまに取り出しては磨き、油を塗ったり乾拭きをしたりと手入れに余念がない。
いいか。おまえは、とても美しく鋭いナイフだ。
だが、それだけである。

ナイフは、リンゴと出会って初めてナイフになることが出来る。
リンゴの皮を剥くとき、初めておまえはナイフになれるのだ。
いや、リンゴの存在が、ナイフを必要としたのだ。
だからナイフは生み出された。
ナイフというものが発明される以前から、リンゴはあった。
ナイフ(おまえ)はリンゴの皮を剥くために、必要とされ、生み出されたのだ。

では、何のためにリンゴを剥くのかが問題だ。
何のために。ここに議論の余地はない。
リンゴはいつでも、「誰かを喜ばせるため」に剝かれる。
おまえは誰かを喜ばせるためにリンゴを剥くのだ。
つまりおまえは誰かを喜ばせるとき、ナイフとしての天命をまっとうする。

ナイフはリンゴを剥くことはあるが、リンゴを食べることはない。
リンゴを剥くと、ナイフはベトつき汚れる。
リンゴを食べた人は喜び、ナイフを大切にする。
ナイフは自分を磨く必要はない。
リンゴを剥けば、ナイフは喜んだ人に磨いてもらえるのだ。
だからナイフは、ひたすらリンゴを剥けばいい。

今日、おまえはリンゴを剥いたか?
いまリンゴを探しているところですとか、自分のリンゴが見つかりませんとか、リンゴなんて無い場所にいるんですとか、そんなこと言うんじゃないぞ。
リンゴは何処にでもある。
職場にある。通勤通学の道すがらにある。電車やコンビニの中にも、おまえの家の中にもあるんだ。
あんなものリンゴじゃないとか、剥くに値しないリンゴだとか、今さら剥いたって手後れだとか、そんなこと言うんじゃないよ。

「おまえだけの特別なリンゴ」を見つけたいなら、今すぐに目の前のリンゴを剥け。
それが、そうだから。それがおまえの、おまえだけの特別なリンゴなんだよ。
もっとカッコいいリンゴが剥きたいか。もっと美味しいリンゴが剥きたいか。もっとデッカいリンゴが剥きたいか。
なら目の前の、おまえだけのリンゴを剥け。おまえのためじゃなく、喜んでくれる人のために剥くんだ。
そうやってリンゴをいくつも愚直に剥いていく内に、カッコいいリンゴ、美味しいリンゴ、デッカいリンゴが目の前にやって来る。
だから今は、目の前にあるリンゴを、目の前の人のために剥け。
おまえは、ナイフなんだから。

(つづく)

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