へっぽこぴーりーまん書紀〜2社目編 東京編vol.15
受け止め方
新潟への辞令を受けて。ボクにいろんな励ましをしてくれた人たちがいた。
ものすごくありがたい話なのだが、1割くらいは「うるせえよ!オレの何がわかるんや!?」という気持ちもあったのも事実。
しかし、ボクは必死に前をむこうと「ポジティブ」に状況を捉えようとしていた。
営業から視点を変えるチャンス。ノルマから解放される。
そんなふうに必死に、無理矢理に、前を向こうとしていた。
見方を変えると、営業失格の烙印を押された。その事実から目を背けようとしていたのだと思う。
負けを認める。その過程から目を逸らしていたのだ。そういう一面はあった。
挙句の果てには、「品管と営業の架け橋になる」など絵空事のようなことを言ったり…
まず割り当てられた仕事を履行できなかった。顧客ニーズと乖離した行動を取った。期待にこたえられなかった。その総括をしないといけなかったのだが。
研修で学んだ目的論が、未来志向が当時のボクにとっては悪い方向に働いてしまったと思う。
忘れられぬエピソード〜風船
ボクにとっては忘れられぬエピソードがある。
新潟行きの辞令を受け入れ、3日くらい経った頃だった。
仕事から家に帰った。その日は粉雪の舞う2月の寒い日だった。
帰宅すると、いるはずの妻と1歳半の娘がリビングにいない。リビングは明かりが付いたまま。妻は夕食後、娘を寝かし付けたのだろう。
2人とも寝室で寝ているようだった。
隣の寝室から、妻と長女の寝息が聞こえてきた。
…風船がリビング奥に浮かんでいるのがボクの目にとまった。
Let's go driving!可愛らしい絵の描かれた風船。
クルマのディーラーの風船だった。
ふとテーブルに目を遣ると、クルマのカタログが積まれていた。
僕の留守中に、妻と娘でクルマのディーラーを回ってくれたらしい。
トヨタ、NISSAN…付近のディーラーのカタログがある。
粉雪舞う寒い日に…。
つい前日「新潟に行くなら、クルマを買わないといけないのか。用意しないといけないんだね」と夫婦で語り合っていたところだった。
クルマのディーラーを妻と娘の2人で廻って内見・情報収集してくれたことは、すぐに察しがついた。
妻もこれからの生活は不安だったはずだ。しかし、次のやること・準備することを着実に考えてくれている。精一杯生きている。
かわいい風船。娘と精一杯楽しもうとしてくれたんだろう。
粉雪の舞う中、ベビーカーを押してディーラーを回る妻の姿。何も知らずに無邪気にクルマのディーラーのプレイスペースで遊ぶ1歳半の娘の様子を想像した。
…感極まってきて、嗚咽がとまらなくなった。涙でボクの頬は濡れた。視界が曇った。
心が一杯になった
妻の心粋と、自分の情けなさに。
悔しさや、やるせなさも混ざり、床に突っ伏していた。
「…ゴメンな。こんなビジネス戦闘力の低い夫。父で。」
…なんでおれはこんな事態を招いてしまったんだろう…
とにかく自分が無様に思え、情けなかった。境遇と自身の不甲斐なさをのろった。溢れ出してくる感情は止められなかった。
そんなボクを横目に、何も語らない風船は笑顔で浮かび続けていた。ふわふわと微かに揺れながら。
なにか風船の中のうさぎの笑顔が、無性に温かく見えた。
この光景は生涯忘れることができないだろう。
慌ただしい日々
一日一日が、慌ただしく流れていった。
うなだれていた2月の毎日だったが。
2月は一気に過ぎ去り、後任が決定し、引き継ぎが開始された。
妻は復職先を実家のある関西にした。
横浜の住まいは解消し、妻は子供ともに実家に戻ることに。
兵庫県姫路と新潟県中越地方との単身赴任が開始されることに決まった。
中越・長岡にて
ある2月の日。妻と子供を連れて赴任地近くの新潟県長岡入りをした。
クルマの購入と、現地の家探しのためだった。
長岡は雪が降り積もっていた。風が頬を刺すように冷たく、寒い。
どよんと曇った冬の日本海側の空。
さえないボクの気持ちを現しているかのようだった。
出張で新潟は何度か行ったことがあった。しかし住むとなると…
寂寞感と不安しかなかった。
そんなボクの気持ちをよそに、あれよあれよという間に、住まいも決まった。
2階建てのアパート。グリーンパークという名前だった。
新潟には狭いアパートがなく60平米の住まいになる。独り身に広すぎる60平米だった。
なぜこの異動が起こったのか
上司の足利からは、一部しか伝えられておらず真相の多くは不明だ。
しかし、顧客とのトラブルが上層部からシビアに評価・判断され、営業不適格。
接客にも適正がないと見られ、コミュニケーション能力があまり要求されない品管という部署に充てられたのかなと推測する。
あと、入社当初と随分営業部の方針が変わったのも大きかっただろう。
入社当初は2社目は営業職は自前で新卒から育てることはなく、基本中途社員で補う。が営業部の方針だった。
入社した当初。営業部は極めて中途社員率が高い部隊だった。
しかし、数年足らずで、首都圏の営業職に新卒社員を充て、積極的に優良大口顧客(取り組み顧客)を持たす方針に変わっていった。
反面、中途社員は地方営業所に回ることが多くなっていった。
わかりやすく言えば、若返り方針である。営業部は中途が主力部隊だったのだが、いつしか新卒が主力部隊に変わっていった。
ボクの所属する営業4課にも2年で2人新卒社員が入った。他の営業チームも状況は同じだった。
いつしか33歳のボクは高齢のゾーンに入っていた。強い差別化・武器がないと中途社員は生き残りにくい環境になっていった。それはあからさまだった。
ボクが大阪時代希望した首都圏への異動は賭けというか、諸刃の剣だったのだろう。
その中で3年間で結果を出せなかった。
ボクは賭け、勝負に敗北したのだ。
(しかし、ボクは当時それを受け止められる精神状態ではなかった。)
更には複数回顧客と争ってしまった。
地方にも回せない。
そうなるとボクが営業を追われるのは自然な流れだった。
それにしても、新潟はあまりにも予想外だったが。
何を言っても負け犬の遠吠えになる気がした。不安と悔しさ、寂しさが襲ってくる。
だがそれを必死に強がって目をそらし、堪える毎日だった。
花の東京との別れのときが刻々と近づいていた。
(→次回に続きます)
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