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もうひとつのアレクサンドリア・国際都市ポートサイード〜(広島原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーⅶ〜LOLOのチェコ編⑮

 ヘッダー画像は1938年の映画「スエズ」より。宝塚っぽいですが、宝塚ではありません。

 時は1860年代。紙芝居のようなテロップが画面に流れます。
「オスマン帝国のプロヴァンス(州)・エジプト」

 往年の大スター、タイロン・パワーがフランス人外交官のフェルディナン・ド・レセップス役です。ばりばりの米語を話し、ものの見事にフランス語は口にしないフランス人外交官です。

 ナポレオン三世もウジェニー・ド・モンティジョも登場しますが、やはり二人共ともくちゃくちゃの米語です。それにウジェニーとレセップスは身内だったのに、映画ではロマンチックな関係で描かれています。 

 ナポレオン三世はそんな二人に嫉妬し、レセップスをエジプトへ追いやります。するとそこでアナベルという、ピラミッドそばの「池」で水遊びしてお転婆娘と出逢います。ちなみにフランス出身の女優です。

 アナベルは赤いトルコ帽子のタルブージュを被り、ズボンはいてやたら元気いっぱいですが、レセップスに一目惚れして追いかけ回します。しかしレセップスはウジェニーを忘れられません。実際は身内なのに。

 エジプトの君主ムハンマド・アリも出てきますが、俳優はロシア人です。現実ではアリはアルバニア人だったので、配役時にロシアもアルバニアも同じだと思われたのかもしれません。

 映画〚スエズ〛にはアリの息子のサイードも出てきます。
 彼は大食漢で、とりわけマカロニが好物だったため「プリンス・マカロニ」のあだ名もつけられていたのですが、この映画ではサイードは阿呆みたいな表情でひたすら何かを食べているだけで、誇張され過ぎです。

 オスマン帝国は悪役で、驚いたのがイギリスのユダヤ系政治家ベンジャミン・ディズレーリが運河完成の英雄のように描かれていることでした。これは歴史をねじ曲げ過ぎです。

 ヴィクトル・ユーゴーや「銀行頭取」も登場しますが、その頭取だけはモデルになった実の名前を伏せています。ミスター・ロスチャイルドと言えばいいのに。

 運河工事の過酷な現場、開通式の華やかな様子も再現しており、これらは割と史実のままです。

 しかし全体的にでたらめだらけ。だから映画公開当時、本物のレセップスの子孫が激怒し、映画製作会社を訴えました。

 ところが実際のレセップスは政治的汚職まみれだったので「藪蛇だ」と途中で諦め、訴訟を取り下げました。

 だけども、わざわざアメリカ映画会社が大スターを起用し、スエズ運河開通までの話を核にし、映画にした…。いかに世界的に注目があった運河なのかしみじみ思います。

タイロン・パワー(中央)とアナベル(右)役の女優はこの映画の共演で結婚。

映画「スエズ」全編:
https://www.youtube.com/watch?v=qcHhwHxekyM

カイロに誕生した植民地整理区画

 ヤン・レッツェルとほぼ同時期、もう一人同じ年ごろの青年建築家がエジプトに渡って来ました。オーストリアのイェーゲンドルフ(現在のチェコ共和国クルノフ)出身のオスカー・ホロウィッツです。

 レッツェルはチェコの国立工業学校卒ですが、ホロウィッツはウィーン工科大学卒でした。カイロで活躍するAH(オーストリアハンガリー二重帝国)の建築家の多くはウィーン工科大を出ており、多分スタート時点から差がついていたのでしょう。

 ホロウィッツはいつまでエジプトにいたのかは分かりませんが、彼には次々と建築の注文が殺到しました。
 ただしレッツェルのように宮廷建築家だったわけではなく、恐らくAHの民間設計事務所に勤めていたと考えられるので、その違いは大きいかもしれません。

 後からカイロにやって来るAHの同世代の建築家たちも皆忙しくしています。ところがレッツェルは前の記事にも書いたとおり、東ボヘミアの母親に
「あちこち見学して回っている」
と手紙を送っているくらいです。

 やっぱり職場環境が合わない、上司らに何か邪魔されていたような気がするのですが…

 しかし市内を歩き回っていたとしても、1905、6年のカイロは今よりもずっと規模が小さく、すぐに飽きたに違いありません。

 実際、カイロは増加する人口に対応しきれなくなっており、この年、ちょうど2つの新しい地区の建設が開始しました。ひとつはマーディー(Maadi)地区です。

https://www.nilevikings.com/maps/cairo.html

 イギリスの銀行家アーネスト・カッセルが資金を出し、ロンドンの地下鉄の設計にも関わった設計者エベネザー・ハワードの構想した「イギリスの田園都市」のもと、支配者イギリス人のためにナイル川東岸にマーディーという新しい地区(*完成は1907年)の建設が開始されました。

ドイツ人医師の住んでいた、マーディーのヴィラ
最後の所有者はシリア出身のハマド家


 コンセプトは「イギリスの緑の街を再現する」です。
 この都市計画が発表されるやいなやイギリス人たちはこぞって、この土地を買い求めるのに殺到しました。

 この時、マーディー新地区を作る中心的建築家に抜擢されたのは、AH出身で、今で言うチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェのハブリーで生まれのカール・シェイノハ(1869年生まれ)でした。彼はマーディーにヴィラ・オーストリア(オーストリア建築邸宅)の住宅街を作りました。

 50年ほど前に生まれたエズベキーヤ地区にはオペラ座、フランス庭園などあり、完全にパリの街を再現していたので、新しいマーディー地区はオーストリア風を狙ったからです。

 ちなみに、シェイノハはもともとマタセクの下で働いていました。シカゴ万博のカイロストリートおよびカイロ市内の「天国の門」のシナゴーグを建てたマタセク氏です。
 このように建築家がみんな繋がるようになっており、このネットワークにやはりレッツェルは入り込めていなかったのでしょう。

イギリスの植民地整理区画のヘリオポリス地区

 1905年、カイロでもう一つ新しく建設が始まっていたのはヘリオポリス地区です。

 「バロン(男爵)」のニックネームで呼ばれていたベルギー人のエドゥアール・アンパン男爵が、エジプト政府から安価で購入したカイロ北東の広大な砂漠(25平方キロメートル)を購入し、開発をしました。アンパン男爵はパリの地下鉄の建設事業にも関わっています。

 ヘリオポリス地区は3つの区間に分けられました。これは植民地整理区画と呼びます。

1.南東部エリア
  フランス人設計家アレクサンドル・マルセルによる高級エルア。
  優雅な別荘と富裕層住民のみ。
2.北西部エリア
  南東部に住むブルジョア人に仕えて家事労働に従事する労働階級住民。
3.その中間エリア
  エジプト政府の役人らが公務員の住民。

 階級が異なる者同士が同じ空間に交わると「秩序が保たれなくなる」と、植民地では分けられるものだったからです。

 そもそもイギリス人はインドでもエジプトでも、現地の人々を「イギリス人化する」という発想は全くなく、自分たちとは距離を置いて見なす、というスタンスでした。

 しかし日本は植民地の手法をエジプトにおけるイギリスのやり方を真似したものの、外地の人を「日本人化」しようとしました。それがイギリス植民地政策との大きな違いの一つでした。

 日本はさておき、ここでポイントなのはこの年、カイロには以上のように、新しいインフラも整い緑も豊かな地区が二つも誕生しようとしていました。しかしどちらも支配者たちのための地区です。

 彼らはカイロの一番いい土地を自分たちの地区にしました。
 また歴史的価値のある建物の保存を目指すミクサ(マックス)・ヘルツのような一部の専門家を除き、ヨーロッパ人の建築家たちが作っているのは、社会のヒエラルキー頂点のパシャや王族、ヨーロッパ人が必要とする建物ばかりです。

 実際にこの時代、庶民のための病院や学校、集落を有名なヨーロッパ人建築家が手掛けたなど全くそのような記録がありません。

 もちろん一概には言えませんが、その後のレッツェルの建築を、当時のヨーロッパ人建築家らによるカイロの建築とを比較すると、何かに気付かされます。

https://thefunambulist.net/magazine/10-architecture-colonialism/heliopolis-egypt-politics-space-occupied-cairo-mahy-mourad
マルセルの建築、ヘリオポリスの「バロン」宮殿。この宮殿が残ったのは、いつも暴動が起こるカイロ中心地から離れている場所だったからだと思います。
マルセルの建築、ヘリオポリスのバジリカ大聖堂

エジプト考古学博物館

建設時に、エジプト博物館の正面玄関の上に掲げられた「ネオ・ファラニック」様式のイシス女神の石https://egyptianmuseumcairo.eg/

 レッツェルは当然エジプト考古学博物館にも足を運んでいるに間違いないと思いますが、この博物館はレッツェルがカイロにやって来た三年前に、2度目の移転をしています。

 今度は パリのコンコルド広場に見立てて建設された、カイロ市内中心部のイスマイール・ケディブ(副王)広場…その後のタハリール(解放・革命)広場に面した場所です。

 フランス人建築家マルセル・ドゥルニョンが設計し、ジュゼッペ・ガロッツォとフランチェスコ・ザッフラニが所有するイタリアの会社が建設しました。

 当時はまだツタンカーメンの王墓は発見されていないので、その後、この博物館の最大の目玉になるツタンカーメンコーナーはまだありません。

公式オープンの日の写真ですが、手前のエジプト人女性はメディア撮影向けのヤラセに違いないと、私は確信しています。https://egyptianmuseumcairo.eg/history-of-the-egyptian-museum/

 それにしてもです。
 恐らく宮殿内の仕事だけ押し付けられ、その他はやることがなくあちこちに足を運んでいたならば、きっとやはり国際都市ポート・サイードの港町にも行っているはずです。

スエズ運河会社

もう一つのアレクサンドリア・国際都市ポートサイード

 ヤン・レッツェルが建設した広島産業奨励館(原爆ドーム)によく似ている(と私が思う)1890年代に建てられたスエズ運河株式会社オフィスは、ポートサイードの街にあります。  

https://www.pinterest.jp/pin/506514289339705044/

 エジプト北東の地中海に沿ったところに位置し、スエズ運河を通してアフリカ大陸とアジア大陸両方にまたがっています。 
 世界で2つの大陸をまたがる都市は、他にはトルコのイスタンブールしか存在していません。

 ポートサイードはムハンマド・アリの息子のサイード総督の時代に誕生した港町なので、この町名です。
 このサイード総督の時代に福沢諭吉や岩倉使節団がエジプトに立ち寄り、アリによるエジプトの近代化を学んでいます。1800年代中頃です。  

 ポートサイードはエジプト近代史には欠かせない舞台の街です。  
 繰り返しになりますが、スエズ運河計画で新しく誕生した街で、この時運河開通を祝う世紀の晩餐会が開催されました。

 ベルディのオペラ「アイーダ」も本当はこのスエズ運河開通を祝賀するために生まれたのですが、諸々衣装やセットをエジプトに送るのが間に合わなかったため、舞台のお披露目は叶いませんでした。

 ポートサイードは次に1882年に注目を浴びました。
 イギリス軍はこの都市から侵入しエジプト占領を開始し、ポスト・イギリス植民地時代のきっかけになったからです。この時に大勢の市民が巻き添えをくらいました。

 そして昨年1904 年にはイギリスの技術で、ポートサイードとカイロを鉄道で結ばれると、たちまちこの路線は人気が出ました。

 カイロの駅にもポートサイードの駅にも、ウィスキーやフランスのシャンパンの広告がぎっしり貼られ、両駅に併設された居酒屋ではアルコールがサービスされました。  

 エジプトのパシャもアルコールを嗜みました。コンスタンティノープルのトルコ人紳士たちがかっこよく飲酒をするのを真似たのと、ウィスキーやシャンパンは飲んでならなないとコーランには言及していないという「解釈」によるものでした。

 ただしワインに関しては「良くない」とされる記述があるため、彼らはワインだけは避けましたが、1897年にはアレクサンドリアに、1898年にはカイロにベルギーの起業家がピラミッド醸造所とクラウン醸造所を設立しています。

 現在のエジプトビール「ステラ」の元となるオランダのハイネケンがピラミッド醸造所とクラウン醸造所の株を買い取り、本格的にエジプト進出するのはもう少し後の話です。

 
 首都カイロとの鉄道開通により、ポートサイードには大規模な商業コミュニティが誘致され、飲食店を開くかなりの数のギリシャ人が移住し、この街には大きなギリシャ移民コミュニティが成長しました。  

 そのうちの大半がクレタ島などの島々から「逃げて」きた人々でした。
 その理由はこの時代、オスマン帝国から抜けて独立する、またはギリシャに組み込まれる云々で、それらの島々では反乱やデモ、ストライキなどが激化していた背景があったからです。  

 それにです。やはり島の生活は貧しいため、外国で一旗揚げよう、一攫千金を狙おうと期待したのも大きな理由でした。 
 
 エジプトに移住したギリシャの島の人々ですが(正式にはまだギリシャではない島も多かったですが、便宜上「ギリシャの島」と書きます)、彼らは砂漠の街カイロに定住するよりも、やはり地中海に面したアレクサンドリアやポートサイードの港町を好みました。 

 そして前述のように飲食業や酒の販売、あるいは多くの貿易業などで財を成していき、中には銀行を設立し大富豪になったギリシャ移民もいました。  

 1907 年になると、急速に成長するポート・サイードの住民のその顔ぶれはギリシャ人の他にもエジプト人店主ら、ユダヤ人商人、アルメニア人写真家、イタリア人建築家、スイス人ホテル経営者、マルタ人行政官、スコットランド人やイタリア人のエンジニア、フランス人銀行家、そして世界中から集まった外交官などでした。

 しばらくするとです。
 この街ではフランス人、イタリア人、マルタ人の間の結婚が一般的になっていくとその結果、アレクサンドリアやカイロのようなラテン系およびカトリック系の大きなコミュニティが新たに形成されました。

 このように多種多様な人種が共存していたのですがフランス語は、ヨーロッパ系および非アラブ系住民の共通語でした。
 異なるコミュニティ出身の両親から生まれた子供たちの第一言語もフランス語になり、カイロやアレクサンドリア同様、この街でも主流の言語はフランス語だったわけです。

 次に、イタリア語も広く使用され、特にマルタ人コミュニティの一部ではイタリア語が母語でした。これは、1920年代にマルタがイギリスの植民地にされる前に、すでにエジプトにイタリア語を話していたマルタ人が移住していたためです。

 アレクサンドリア同様、多言語主義はポートサイドの外国人住民の特徴であり、ほとんどの人がコミュニティ言語と共通フランス語を話し続けました。

 1905年にはまさに多国籍の人々が住む活気に満ちたにぎやかな国際港に発展しており、外国人移民らは地元エジプト人コミュニティと共に生活し、共に働きました。

 それに何しろスエズ運河と地中海を結ぶ港街ですから、アフリカ、インド、極東を行き来する外国人旅行者は常にこの都市を通過しており、いつだって賑やかな国際都市でした。

 つまり、ポートサイードは活気あふれる国際都市で、1890年代にこの街に建てられた、フランスのスエズ運河株式会社のコンクリート建物は既に有名で、街のランドマークのような存在でした。

スエズ運河株式会社オフィス

スエズ運河株式会社オフィス、エジプト・ポートサイード(1890年代建設)
広島産業奨励館(後の原爆ドーム)、日本広島、1915年建設 写真: progetto.cz

 建築にコンクリートを用いること自体は17世紀にイギリスで始まっていましたが、エジプトでは1894年に、イギリスによって初めての鉄筋コンクリート建設が持ち込まれました。
 繰り返すと、エジプトがイギリス支配下に入ったのは1882年です。

 ヒルミー2世はポートサイードのスエズ運河株式会社本社を、鉄筋コンクリート造で建て替えるように、イギリスに命じられました。 恐らく1892年に他界した父親タウフィク副王が契約書にサインをしていたのかもしれません。
 
 この経緯は長いので省略しますが、1894年(2,3年ずれがあるかもしれません)、フランス人建築家エドモン・コワ二エに依頼。

 エドモン・コワニエは金属インサートで補強したセメントからなる「凝集コンクリート」の発明者である実業家のフランソワ・コワニエ(1814-1888)の息子で、鉄筋コンクリート杭を初めて使用した人物でした。    

エドモン・コワニエの鉄筋コンクリート建築の代表作、アントワープ駅

 エジプト国内各地に訪れていたレッツェルが、この国際都市ポートサイードにも足を運び、スエズ運河会社の建物も見ていないわけがない。

  もちろん、元々鉄筋コンクリート建築は知っており、そして、そのコンクリート造りに興味を持ったはずだと考えるのは、おかしいことではないと思います。

その後のポート・サイードの街

 ここで先に書いておきます。

 1956 年のスエズ戦争でイギリス軍とフランス軍が同市を攻撃し、ポートサイードは1882年のイギリス侵攻以来の苦しみを味わいました。

 次は 1967 年の 6 日間戦争の時です。この時、市を攻撃したのはイスラエル人でした。

  しかしポートサイドの人々は決して侵略者ではなありませんでした。彼らは普通の生活を送っていたが、もはやそうすることができなくなりました。

 さらに、それに輪をかけてポート サイドの住民が最も苦しんだのは、1967 年から 1969 年にかけて起こった消耗戦争 (忘れられた戦争とも呼ばれる) でした。

 市は 6 年以上にわたって軍の管轄下に置かれ、住民は強制的に立ち退き、エジプト各地に移住しました。ポート サイドの住民は自国で難民となったのです。(そばのスエズの街、イスマイリアの街の人々も同様でした)

 これには理由があり、かなりのスパイがイスラエルから入って来ていたため、当時のナセル大統領としては「外国人」を一斉に追い出すしかありませんでした。

 スエズ運河地帯のポート・サイードの街(とスエズの街、イスマイリアの街)は非常に重要な拠点で、ここをイスラエルにとられたらおしまいですから。

 しかし、強制移民の子供の人生は楽なものではありませんでした。彼らは学校で同級生からいじめられ、ひどい貧困の犠牲者になる生活に強制されました。

 ポートサイドは国際都市であり、多くの「外国人」が住んでいました。ギリシャ人、イタリア人、フランス人の二世、三世がそこに住み、その多くはこの都市で生まれています。

 つまり、これはかなり難しい疑問を提起しました。エジプト人とは、「国民」とは誰なのか?ポートサイドで暮らし苦しんだ後も、これらの人々は依然として外国人と見なされるのでしょうか?

 少なくも言えるのは、ヤン・レッツェルがエジプトで生活していた20世紀初頭当時の、華やかな国際都市だったポート・サイードの街は今では昔の写真や文章の中でしか存在していないということ…。

プリンツ・ルートヴィヒ号で新天地横浜へ 


1907年
 宮廷主任建築家であるギリシャ系ドイツ人のディミトリ・ファブリキウスがカイロのブラク地区の自宅で息を引き取りました。59歳でした。遺体は旧市街のギリシャ正教墓地に埋葬されました。

 次の宮廷主任建築家には、AH(今はイタリア側)で生まれたスロベニア系のアントニオ・ラシアックが抜擢されました。超大物です。

 すると十年以上完成していなかったアブディーン宮殿の修復がいきなりスムーズに進行し、数年後の1911年に完成。

 なんと1891年に火災で燃える以前よりも、素晴らしい出来栄えになりました。それにしても、なぜファブリツィオの時には全然修復が終わらなかったのか、謎です。

AH領スロベニア出身のアントニオ・ラシアック。赤いトルコ帽を被っていますが、「パシャ」(ナイト)や「ベイ」(オスマン帝国の称号)を得たヨーロッパ人もみんなこの帽子を被っていました。

 エジプトのベルエポック時代建築家の代表として、必ず名前が上がるラシアックは皮なめし職人の息子としてゲルツに生まれ、ゲルツの学校を出ています。
 フリウリ語(スロベニア語の一種)、イタリア語、ドイツ語を話し、妻も同じスロバニア人です。

 ウィーン工科大学を出た後、1882年のエジプト・イギリス戦争で英軍に砲撃され破壊されたアレクサンドリアの街を再建するために、エジプトに渡ってきたのが、最初のエジプトとの接触でした。

 そして、すぐに王家やブルジョアジーから建築の依頼が次々に舞い込みました。例えばミラノの「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガレリア」に触発され、アレクサンドリアに「ギャラリー・メナッシェ」を建設しました。

 さらにミラノの「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世ガレリア」に触発され、現在もアレクサンドリアに残っているシェリア・サラー・サレム複合建築物の建設を任されました。

 その後、彼は一旦ローマへ移りますが、熱心に誘われたからなのか、再びエジプトに戻り、アレクサンドリア駅やアレクサンドリアのラムレ駅(その後取り壊し)そして数々の別荘を手掛けると、それが口コミでヒルミー2世の耳に届きました。

 ヒルミー2世はコンスタンティノープルの別荘とアレクサンドリアの別荘の建設(*改築かもしれません)を手掛けると、すっかり気に入られ、カイロに移住するよう命じられました。

 カイロではラシアックはエジプト銀行、アス・サラフィアン百貨店、アル・イマラ・アル・ヒディウィエ・ビル、コプト正教会の聖パウロ教会、トリエステ保険会社数々の王族の宮殿を手掛け、それらの業績を評価されると、ヒルミー2世からは「ベイ」の称号も与えられました。

 彼の作品の中では、イスタンブールのケティブ宮殿カイロのタフラ宮殿は彼の代表作かな?と思いますが、あまりにも多くの建物、宮殿、別荘の有名建築がありすぎて、「これだ」とピックアップするのは難しいです。

 とにかくラシアックといえば、東洋のロマン主義とアールヌーボーを特徴とする作品を築きあげたことで名を馳せた大物です。

 他にもゴリツィア建築(スロベニア建築)、新16世紀建築の復活、マムルーク朝時代の建築の復活、イスラム建築とバロック建築の融合などを果たし、伝説になっているほど。

イスタンブールのヒルミー2世の宮殿
タハリール広場のメナスギャラリーのファサード
カイロのザマレック地区、アイーシャ・ファフミー王女の宮殿も設計
カイロのタフラ宮殿

 しかし、レッツェルはアブディーン宮殿の修復完成を見届けることも、後任の宮廷主任建築家のラシアックの数々の作品を見ることもありませんでした。

 なぜなら1907年に彼はアブディーン宮殿を去り、エジプトからも離れたからです。
 ラシアックが宮廷主任建築家に就任したタイミングだったので、もしかしたら彼とは合いそうもないと考えたのもあったのかもしれないですし、何か反抗して契約を切られたか、それとも自分から辞職届を出したのか分かりません。


日本に行かないか?
 ドイツの建設会社 E. de Lalande Comp のオーナーに声をかけられ、日本の名前を出された時、レッツェルは真っ先に日本については何を思ったでしょう?

 このわずか二年前に対馬海峡の戦で日本がロシアに勝利し、各国でもそれが話題になっていたことでしょうか?

 日本はエジプトと違いどこの国の植民地にもなっていない、日本はエジプトの建物のように壮大さだけを第一に求めていない、など考えたでしょうか?

 そして「分離派」主義様式が好まれない、大げさで華美な建築様式ばかりがもてはやされるエジプトに居続けもチャンスがない。
 何も作品を残せていないのは残念だけれども、自分と求めるものが違う国にいても仕方がないと踏ん切りをつけたのでしょうか?


 兎にも角にも1907年7月。
 約2年住んだエジプトを離れ、イタリアに立ち寄りローマ、フィレンツェ、ミラノの観光を堪能した後、一度故郷のボヘミアへ帰りました。

 どこから乗船したのか不明ですが、ドイツ帝国の「プリンツ・ルートヴィヒ号」で香港経由で新天地、日本へ向かいました。いよいよ本領発揮です。

                      つづく
    

プリンツ・ルートヴィヒ号


 参照
https://mck.krakow.pl/article/ottoman-fez-and-central-europe
http://www.egy.com/people/98-10-01.php#zananiri

https://www.greategypt.org/

https://thefunambulist.net/magazine/10-architecture-colonialism/heliopolis-egypt-politics-space-occupied-cairo-mahy-mourad

http://www.egy.com/landmarks/97-02-22.php

https://english.ahram.org.eg/NewsContentP/18/492234/Books/Book-Review-The-Unsaid-in-our-Social-History-Port-.aspx

 

 

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