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初の中東パレスチナ・パッケージツアー…ロックフェラーワイン、そして1000人のカトリック聖地巡礼ツアー〜トーマス・クックシリーズ ⑥

  以前、NOTEの記事にも以前書きましたが、アラファト議長と和平を結んだイスラエルのラビン首相暗殺時、エジプトのメディアは一斉に
「第五次中東戦争が起きる!」
とざわめきました。
「犯人はエジプト人に違いない」
と同じエジプト人たちがそう決めつけていたところが、なかなか興味深いものでした。

「イスラエル軍が攻撃してくるぞ、まずいぞ!」
「ああなんでラビンを暗殺したんだ!」

 この時、ヨーロッパ人駐在員や留学生は早かった。すぐにカイロを離れました。知り合いのエジプト航空機長もすぐに妻子を田舎の別荘へ避難させていました。
「この国では避暑や長い休暇のために田舎に別荘を持つのではなく、いつまた戦争が起きるか分からないからなんだ」

 私はナセル時代からカイロに住むエジプト人の日本人奥様にはこう言われました。
「外国人の口座が凍結されるかもしれないから、すぐに引き落として。それから米ドルは持っているわよね?どこでもいいから国際便のオープンチケットを買っておきなさい。エールフランスの便数が多いから、パリ行きでも買っておくといいわよ」

 JALのオフィスは確かカイロのナイルヒルトンにまだ残っていたけれども、肝心なフライトがもはや飛んで来ていなかったので、私はパリ行きのオープンチケットをすぐに買って、アラブ銀行に預けていた貯金全額(大したお金ではない)を下ろしました。

 事前にビザを取得していなくても、多くの国をビザ無しで入国できる日本パスポートのありがたさを当時はしみじみ感じました。それと同時に
「エジプト人はビザがないとヨーロッパに行けない。そのビザ取得は至難の業。彼らが逃げられないのに、自分だけとっとと逃げてもいいのだろうか」
と妙な罪悪感も抱きました。

 結果的に犯人はイスラエル人だったので、第5次中東戦争にはならなかった、エジプトは攻撃されなかったのですが、もしあの時の犯人がエジプト人をだったらどうなっていたのか。そしてラビンが殺されなければその後は歴史が変わったかもしれません。


 話は変わって、2◯◯◯年。
 日本から私は家族を連れてイスラエル旅行をしたのですが、テルアビブにあったアラブ人旅行会社に手配を依頼したものの、旅行代金を騙された上に、そこの女社長にアジア人差別の暴言も吐かれました。あれは旅行代理店の名前を騙った詐欺会社でした。

「あまりにも酷い。100%だまし取られた」
 帰国後、家族の人間が東京のイスラエル大使館に苦情を出しました。

 するとすぐにイスラエル大使館からロックフェラーワインがお詫びに送られてきて、
「申しわけありませんでした。アラブ人はどうしようもない人種で、嘘つきです」
という日本語の手紙も同封されていました。差出人は日本人職員でした。

 このような経験があった私でも、上記の旅行代理店の詐欺以外、いつだってイスラエル旅行は楽しく(もっとも「あっち」の地区から聞こえる銃声などはいつも気になりましたが)、どちらの人種にも嫌な目にあったことがありません。
 昔から続く(途中、静まったような時もありますが)あまりにも長いこの状況、残念です。
 そして「イスラエル旅行や訪問はいつだって楽しかった」といえるのは、19世紀の時代に既にトーマス・クックがその基盤を作り上げてくれていたおかげなのは間違いありません。さてトーマス・クックの聖地パレスチナツアーの続きに話を戻します。


パレスチナツアー内容を巡り、親子で口論

https://retours.eu/en/51-taurus-express-iraq-egypt/

 トーマス・クックはそもそも家族運に恵まれていない男で、彼自身の子供時代、4歳のときに父親が亡くなっています。
 母親エリザベスは再婚してさらに2人の子供をもうけましたが、2番目の夫も亡くなり、トーマスは家族を養うために学校を辞めざるを得なくなりました。彼はまだ10歳でした。

 10歳で一家の大黒柱になったトーマス・クック少年の最初の仕事は地元のメルボルン・ホールの庭師の手伝いで、1日1ペニーを稼ぎました。これは今日の44ペンスに相当し、その後は果物や野菜の生産者で働き、家具職人の見習いとして働きました。

 しかし、バプテスマを受けた18歳のとき、トーマスは「光を見て」宣教師となり村から村へと歩き回り、神の言葉を宣べ伝えました。

 農家の娘マリアンヌと結婚したのは25歳の時でした。長男のジョン・メイソン・クックは1834年に生まれましたが、その1年後、次男のヘンリーが幼児期に死亡するという悲劇が起きました。10年後、娘のアニーが生まれました。しかしこのアニーものちに死亡します。(自宅のふろ場のガス漏れ事故だったようです)

 さて、長男のジョンがローマスクックのビジネスに参入したのは17歳の時で、ここでトーマス・クック&サンが誕生しました。

 二人は最初から会社の運営方法について根本的に異なる考えを持っていました。
 衝撃だったのは1872 年に父親が世界一周ツアーに出ている間、ジョンはレスターからロンドンにオフィスを勝手に移してしまったことです。
 そして父親がアルコールに対する説教に生涯を費やしているのを知っているのに、ジョンがお酒のパッケージにトーマスクックの旅行社のラベルを貼られるのを許したことでした。

 父息子の対立は聖地パレスチナツアーにおいても勃発しました。
「お父さん、キリストの足跡を辿るツアーはもういいです。もっとキャッチーな(商業的な)聖地ツアーを出しましょうよ」

 トーマス・クック社の聖地ツアーの成功によって、多くのライバル旅行社も負けずに聖地ツアーを販売し、すでに激戦状態です。
 しかし元バプテストの説教者であるトーマス・クックは自分で考えた【キリスト教の巡礼者のためのアブラハムとイエスの足跡をたどって聖地を歩くツアー】にこだわり、真面目で固い内容の聖地ツアーに執着したまま。

 例えば聖墳墓教会、ベツレヘムのイエスの生誕地、ローマの考古学的遺跡とともに伝道所などを回るコース。

 ところで、ユダヤ教徒の西の壁(嘆きの壁またはブラク)見学もツアーに含まれていましたが、「ユダヤ人の嘆きの場所」と呼び、ほとんど好奇心とおまけで観光に入れただけです。
 なぜならまだこの時は壁の規模は小さく、広場もなかったので大々的に祈祷がされていませんでした。そもそも、この一帯はスペインの虐殺から逃れたマグレブ人(モロッコ人)の末裔が住むマグレブ地区で、民家がぎっしり連なった住宅街でした。

 宗主国のムスリムのオスマン帝国も、少し前のエジプト支配時代にもイブラヒーム将軍(ムハンマドアリの養子で、このエルサレム支配は1840、1841年)も
「西の壁(嘆きの壁)の前で祈ってはいいけれども、大々的な宗教的儀式をしたり、ろうそくをともしたり、聖典をそこに置いたり、壁の前の道を舗装したり拡大することや声を張り上げて祈ることも禁止、椅子を持ち込んではならない」
など厳しくルールを作っていました。

19世紀。広場はありません

 ムスリムの支配者たちはこの壁をそのままにしていたのは、ここはイスラム教開祖のムハンマドが飼っていたブラクという天馬(背中に羽がある)が繋がれていた壁であり、イスラム教三大モスクの一つのモスクを取り囲む壁の一つであること。

 ムハンマドはガブリエル(大天使)に連れられ、ブラク(つまりユニコンのような動物)に乗ってエルサレムを旅して、この壁のすぐ向こう側にある岩のドームのモスクから光のはしごで昇天したというようなことがコーランに書いてあります。
(イスラム教でも、神と人間の間にガブリエルやミカエルといった天使が存在しています)

 とにかくそんなわけで、トーマス・クックのグループは街歩き散策としてマグレブ(モロッコ人)地区もぞろぞろ歩き、ついでに嘆きの壁にも足を止め、ユダヤ人たちが細々と祈るのをおまけで眺めるだけでした。

 トーマス・クックのパレスチナ地域全体の典型的なツアールートは、ヤッファ、ガザ、ベエルシェバ、エルサレム、死海、エリコ、サマリア、ナザレ、カナ、ガリラヤ湖、バールバック、ベイルートです。
 シリア南部では、イングランドの守護聖人がドラゴンを屠ったことで有名な場所として注目されている聖ジョージ礼拝堂訪問も含まれていました。日本ツアーではまず入れないスポットです…。

 ライバル旅行社が続出で、ジョン・クックは焦り始め「もっと行楽的な聖地ツアーにすべきだ」と主張。しかしお父さんのトーマス・クック氏には頑固たる信念があります。分かり合えません。よってこの件でも父息子の対立、亀裂が深まりました。

息子ジョンがロンドンにオフィスを構えました

 だけども、やはり息子の主張にも一理ある。
 そこで父トーマス・クックは現地手配に力を入れるのが集客拡大、ライバル社に差をつけると信じ、エルサレムのヤッフォ門近くにトーマス・クック事務所をオープンさせました。

エルサレムにトーマス・クックオフィス第一号をオープン

少年を含め全員、ポーズをキメて写っています。そして看板を見てください、「Doracomans(ドラゴマンのこと)とMuleteers(ラバ使い)のスタッフがいますよ」と書いてあります。

 オフィスを開くにあたり、地元のスタッフも雇わねばなりませんが、トーマス・クックはすでにベドウィン、アラブ人、国際領事らと人脈ネットワークを築いていたので、信頼できる従業員および誠実な荷物運びやワゴンの運転手を多数採用することに成功しました。
 クック旅行代理店のヤッフォ門オフィスの売り文句は
「乗客の港と宿の送迎手配、税関での手荷物の手続き、現地でに宿泊施設の予約、安心な観光ガイド、移動手段の手配を行います」

 今で言うところの「インディビジュアルの観光客(個人客)」が単身で現地に来ても困らないように、現地で諸々手配しますよというわけです。
 なにしろ直接自分で馬や宿の交渉をすると、言葉が通じなかったりぼったくりなどに遭います。しかしクック社を通せば安心です。そういったことが起きません。
 聖地にやって来る観光客全員が団体旅行ツアーに参加しているわけではありませんから、
「諸々現地手配します」
は大好評となりました。

  この一年前にカイロのシェファードホテルにもトーマスクック旅行代理店・カイロ支店をオープンしており、両方の支店でツアーの「リレー引き継ぎ」「バトンタッチ」も可能になりました。

専属観光ガイド、ドライバーなど抱える


 観光客が増えれば増えるほど、ドラゴマンの人数が足りなくなります。もともと前々からクックは
「もっとお手軽な料金で、自社専属観光ガイドを抱え込みたい」
とは思っていました。
 専門性が高く社会的地位も高い「ドラゴマン」の人件費は、半端ではなかったので、もう少し格下、手頃な人件費で済む「観光ガイド」を欲しました。

 そこですぐに地元のアラブ人のドン(主)に相談をしました。
「分かった、確実ないいガイドをお前の旅行社に回してやる」

 これで百人力です。ただしこう言われました。
クリスチャンの観光客のためのツアーにはクリスチャンガイドだけではなく、ムスリムガイドも使って欲しい。この条件をのむならいいガイドを連れて来てやろう

 クックはこの条件にのみました。彼は熱狂的なクリスチャンですが、どこの国でもクックは自分のところのツアーガイドを宗派によって選ぶことをしていません。
 あくまでも誠実な腕のあるガイドという実力だけにこだわっていました。なので聖地でもガイドはムスリムでもクリスチャンでもどちらでも良かった。

 ただし恐らくですが、ムスリムの現地ガイドをつけた場合、教会内でのガイドはトーマス・クックおよび同社の専属クリスチャン添乗員が行っていたのだと思います。エジプトでも教会の案内を嫌がるムスリムガイドは多かったです。(案内してもさっさと済まして終了。モスクの案内には30分はかけるのに、教会の案内は5分とか)

 ここでまたポイントなのは、トーマス・クックツアーにユダヤ人ガイドが登場することはありませんでした。
 その最大の理由は、最初からのけ者にしていたのもあるのかもしれませんが、当時はそんなにユダヤ人がまだ住んでいなかったのも理由だったと思います。ユダヤ人はパレスチナよりもむしろ隣のメソポタミアに大勢住んでいました。

  Sergio Dellapergola( 2001)のエルサレムの人口統計を見ますと、1890年の調査ではパレスチナにムスリムのアラブ人は432,000人、クリスチャンのアラブ人は57,000人、そしてユダヤ人は43,000人だったとなっています。
 彼らのことなので、この数字には女子供の数は入れていないと思いますが、なんにせよもともと大勢のユダヤ人ガイド自体がいなかったはずです。

エルサレムの観光化

 トーマス・クックがヤッフォ門のそばにオフィスを構えた後、すぐにライバル旅行社六社も、近くに自分たちのオフィスをオープンさせました。
 途端に街が活気づいて、馬車やラバ・ラクダ・馬車タクシーの数が増え、カフェ、レストラン、土産屋も誕生していきます。
 ヤッファだけでも数百人のポーター、ガイドや護衛、そして 23 を超えるカーン (キャラバン隊)、1905 年には市内には 64 軒のレストランと 81 軒のカフェに増えていきました。これらの繁盛ももとを正せばクックのおかげです。

 1850 年代までは、巡礼者は主に修道院やフランシスコ会カサ ノヴァなどのホステルに宿泊するしかなかったのですが、まともなホテルも誕生していき、エルサレム旧市街にはモーゼス・ホルンスタイン氏という人物がその後有名になる地中海ホテル(アムザラク家から借りた建物)を開業します。

 トーマス・クックはエリコのヨルダン・ホテルや、エリコとエルサレムの間にある善き羊飼いの旅館など、いくつかのホテルの賃貸契約を取得し、他のホテルとも協定を結びました。彼のやり方を見ていると、アラブやベドウィンのルールを分かっています。ちゃんと公平に方々と契約し、そつがありません。

 しかし1878年、ついに息子のジョンは強制的に父親を引退させ内勤からも締め出しました。よほど合わなかった、邪魔だったのでしょうか…。

1000人のフランス人カトリック教徒巡礼ツアー

 1882年の春、海を超えたフランスから大型団体ツアー手配の以来が入りました。
「1000人を超えるフランスのカトリック教徒の聖地巡礼の旅を手配してく欲しい」

 なんと、フランスのカトリック巡礼団体は、同じフランスの一般的な旅行社の門を叩かず、イギリスのトーマス・クック社に自分たちの巡礼ツアーの依頼をしたのです。

 息子ジョン・クックはずっと
「宗教くさいツアーから離れよう」
と主張して文句を言っていましたが、父親トーマス・クックはあくまでもキリスト的な内容のツアーにこだわりつづけた。結果的に、その評判により、
手配すれば箔も付くこの大口ツアー獲得に繋がりました。

 トーマスはすでに引退して(させられて)いますが、クック社は張り切ります。大型蒸気船二隻をチャーターし、マルセイユ港→(途中下船があったかもしれませんが)→ハイファの港。

 そこからどうやってナザレまで移動したか、記録がちょっと見当たりませんでしたが、普通に考えて馬かラクダかラバかロバです。1000人…。しかも護衛や使用人(スタッフ)も大勢同行したはずです。圧巻的な光景だったに違いありません。写真がないのも残念です。
  
 ナザレの後はエルサレムまで歩いたそうで、時期が春ということでまだ歩けたのかもしれません。地中海のあの地域の夏はとんでもない暑さですから。

 歴史に残る世界初の大口団体巡礼ツアーを成功させたクック社の元に今度は古代マカベア騎士団の英国ユダヤ人のグループから巡礼ツアーの手配依頼が舞い込み、やはりこれも完璧にやり遂げました。
 とうの昔に父親のトーマス・クックが地元への様々な根回し、そして信頼できるネットワーク及び現地スタッフを抱えてくれていたおかげです。

ロスチャイルド男爵が壁を購入しようとする

 1887年、パリのエドモンド・ロスチャイルドが西(嘆きの)壁と周りのマグレブ地区全てを購入しようとします。彼はすでにこの7年前に「パレスチナにユダヤ人民族の国を再建しよう」と新興シオニズムを発信し、その1882年にはパレスチナの土地を購入しています。
 
 ここでいよいよ本来の目的の「壁周辺の土地を手に入れる」という動きに出たわけです。

 これまでも様々なお金持ちのユダヤ人が同じことをしようとしましたが、オスマン帝国は売りませんでした。
 理由は前述したように、ムスリムにとってもこの壁一帯といおうかエルサレムは聖地であることと、大勢のマグレブ人が住んでいたことだと思われます。

 一度、売るのを認めた時はその代わり
「ただし、その地に木しか植えてはならない」
と条件をつけており、交渉決裂しています。

 ところが今までの購入希望者のユダヤ人たちとは違い、エドモンド・ロスチャイルドは非常に強気で、
「マグレブ地区全部を買い取り、この地区を解体、住民を追い出し民家も取り壊す」
と鼻息が荒く言ってきました。

 かなりの購入金額を提示したのではないかと思いますが、それでも結局失敗しました。
 しかしこの九年後には2万5千ヘクタールのパレスチナ農地を購入して、それらの土地をユダヤ人植民地協会に譲渡しました。のちに彼の会社、エドモンド・ロスチャイルドグループはその後建国したイスラエルにバンバン投資をし、余談ですが2006年には日興コーディアルと合併会社を設立しています。

エルサレム鉄道

 1892 年、エルサレムの二人のスイス人起業家、ヨハネス・フルティガーらが「巡礼者および観光客、そして物質の移動運搬の効率化」のため、エルサレムと海岸沿いのヤッファまで、曲がりくねった 50 マイルをカバーするイスラエル初の鉄道を開通させました。 

 鉄道会社はイギリスで、工事作業員の多くがエジプト人でした。エジプトではこれ以前にすでにイギリスが鉄道を敷いていますから、それで鉄道建設経験者の彼らに任されたと思います。
 現場工事の作業員のうち、奴隷投入がどのくらいだったのか気になりましたが、この手の記録は見事に見当たりません。しかも案の定、このエルサレムーヤッファ区間鉄道工事では大勢のエジプト人作業員が死んでいますが、正確な死者数も出てこず。多分、数えてもいなかったと思います。

 機関車そのものはアメリカのフィラデルフィアで製造され、車両は三両。 初運航は同年9月26日木曜日(週末)で、オスマン帝国の国旗を掲げていました。コンスタンティノープルからはスルタンの特使も開通式に出席しています。

 エルサレムーヤッファ区間はこれまでは丸2日間かかっていたのが、鉄道開通により四時間弱で移動できるようになりました。時間短縮が大きいのでクック社もすぐにツアーに取り入れました。
 ちなみに調べると、トイレ、ついていませんでした。四時間、トイレ無し…。微妙なところです…。

 歌も作られました。
【川を越え、山を越え、丘を越え…
そして大音量のトランペットを吹き鳴らしながら、聖なる都の門にやって来た…】

 イギリス人作家のアーサー・ミラーは、エルサレムに鉄道で行くという考え全体に苛立ちを表明しました。「駅ホームのアナウンス、笛の音、雑踏。そこからエルサレムへ向かうのは興醒めだし、巡礼の旅として不適切だ」

エルサレム駅からヤッフォ門までの道

 聖書に書かれているような巡礼の旅を忠実に再現せねばならないという見方をすると、氏の苦情はごもっともです。
「じゃあ鉄道があっても、それに乗らなければいいだけじゃん」
 とつっこみたくもなりますが、いずれにせよ1898年にこの鉄道はなくなります。なぜなら危険な複雑な地形に無理やりレールを敷いたため、事故が多発したからです。しかし、ここが重要です。線路はそのまま残りました。

 この残された鉄道線路が補強され安全になり、シオニズム運動に利用されることになる、すなわち大勢のユダヤ人入植者を運ぶ交通機関になるのは次の20世紀に入ってからのことです。

これは2005年開通。今は走っているのでしょうかね…

トーマス・クック息を引き取る 

 1892年7月18日月曜日の夕方、クック氏は明らかにいつも通りの健康状態で自宅周辺を歩いていましたが、午後8時過ぎに突然脇腹麻痺に襲われました。
 すぐに医療援助が呼び出されたが、一度も回復せず、真夜中直前に安らかに息を引き取りました。人生の最後の数年間、失明に悩まされていました。

 トーマス・クック氏の訃報はもちろん全ての全国紙に載り、外国の新聞でも報道されました。大々的な葬儀が行われなかったのは、恐らく故人の意向であったのではないかと思います。
               
 1898年
 トーマス・クック社にある旅行手配が舞い込みます。
「第9プロイセン王国の国王であり第三代ドイツの皇帝であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世と王妃(皇后)様の聖地巡礼ツアーをお願いできませんか?」

        つづく(次が最後です、長くてすみませんm(__)m)



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