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茉莉花茶と緑茶を愛したチェコ人外交官一家Ⅰ~ドイツ支配、ハーバード大、そして中国へ~LOLOのチェコ編㉔

 2〇〇〇年ー

 数年ぶりに私はチェコに戻って来ていました。というのはです。かつてとてもお世話になったミロシュ氏があまりにも重度のアル中で目も当てられない状態だ、と人づてで聞いたためです。

 氏にはいくつもの興味深い通訳現場に連れて行ってもらい、通訳のノウハウを教えていただきました。それに多くの人々にも紹介してもらい、チェコにおける私の人脈を広げてもらいました。

 それだけではありません。氏のおかげで私の病気の発見も間に合い、入院手術した際にはその手続きの何もかもと、医療通訳もすっかりお世話になりました。おまけに氏の紹介がきっかけとなった男性と(いいんだが悪いんだがさておき!)結婚することにもなりました。

 だから、もともとアル中気味だったミロシュ氏の依存症が悪化していると聞き、心配になって「さすがにあれだけ恩のある人を放っておけまい」と、わざわざ私は数年ぶりにプラハに飛んで来たのですがー

 久しぶりに再会したミロシュ氏は以前とは別人でした。
 かつては伊達男の見た目であったのにも関わらず、今や無精ひげが酷く、虚ろな顔つきでまるで精気がありません。その上、額から発汗し続け、手足と全身がずっと震えています。

 それに以前は常にぱりっとしたシャツを着て非常にお洒落でした。それがです。目の前のミロシュ氏の恰好といったら!
 ズボンからだらしなくシャツの裾が出ており、そもそもそのシャツはボタンの掛け違いだらけで、しかもしわしわで、いっぱい食べ残しや食べ物の汁のシミがついて小汚い…。

 少し前に尊敬する父親を亡くし、よりを戻すことを切に願っていた妻とは結局正式に離婚。長年ずるずるつきあっている愛人の「二号さん」は夫と別れる気はない。

 体の関係もあった若い女性のビジネスパートナーには、自分が設立した通訳会社を奪われ、娘はタミル語を学ぶためインドへ飛び、息子は中国人のガールフレンドと再び北京へ。
 実の弟とは前から大して交流がない。犬のジェームスボンドも他界。

 つまり結局、ミロシュ氏の元に残ったのはウォッカの酒だけでした。

「アルコール依存症を治すための病院に入るべきだ。このままだと死んでしまう」
 私はそう思いました。ちょうどアイルランド人の作家マリアン・キーズのベストセラー小説『Rachel's Holiday』を読んだタイミングだったこともあります。

 『Rachel's Holiday』は今読んでも面白いと思います。
 薬物中毒である自覚のない主人公のレイチェルは
「セレブってよくリハビリ施設に入院しているって聞くわ。だから有名人に会えるかも」
とミーハーなノリと、まるで「休暇(ホリデー)」にスパへ行く感覚で施設に入所します。

 自分が薬物中毒者というのを全然分かっていなかったものの、一見意地悪なセラピストなどにより、入所者達との交流により、彼女の中の何かが変わっていきます。

 
 ミロシュ氏は実際、朝から晩までウォッカばかり飲んでいるそうで、以前も確かにそうでしたが、飲む量があきらかに大きく増えていました。
 食事はもうお手伝いさんに作ってもらっておらず、近所の行きつけのレストランで取っているとのころですが、その食べている様子を見ると、ぎょっとしました。過食症です。

 三~五人前の巨大ステーキとパン、その上巨大アイスクリームとケーキまでドカ食いです。そして服にいくらそれらをこぼそうが全く無頓着。前は育ちの良さをうかがわせる上品な食べ方だったのに。

「チェコ人男性版”レイチェル”だ!なんとか入院を説得しよう。もしだめだったら、どうしよう。…そうだ!ミロシュさんのお母さんに協力を頼もう」

 ミロシュ氏のお母さん…
 以前、私が誰もいないミロシュ氏の大きな家の留守番をお願いされた時、一度だけ氏の母親が様子を見に訪れて来てくれました。私がミロシュ氏母と一対一でお会いし、ゆっくり会話したのはその時が最初で最後です。

 小柄で可愛らしい、品の良いミロシュ氏母は美しい日本語で
「中国の茉莉花茶と日本の緑茶、どちらがお好みですか?」
と聞いてくれ、私が悩むと
「では順番に両方飲みましょう。中国のお茶も日本のお茶も非常に美味しいですから、両方をそれぞれ味わいましょう」

 そしてその時に、自分たち一家の話をしてくれました。映画さながらのドラマチックな物語です。

 こうして今、アル中で過食症にしか見えないミロシュ氏を目の前にし、私は彼の母親が話してくれた一家の物語を思い出しました。


ドイツがダンスパーティーを禁止するぎりぎり前に、そのパーティーでのワルツの演奏時に出逢いました


 ミロシュ氏の両親はプラハ郊外のそれぞれ別の田舎で生まれ育ちました。父は1919年、母は1923年生まれ。

 幼少時代、ミロシュ母は冬には凍った池でスケートを楽しみ、雪の上ではスキーを滑り、春と夏には森でピクニックをし、池で泳ぎました。

 しかし豊かな自然の多い田舎とはいえ、そこの村の小等学校はチェコの歴史と文学を熱心に教えており、教育水準が高く愛国教育に熱心なことで知られていました。

 ミロシュ母もその学校に入り、国語の先生の影響で「チェコ文学をちゃんと学んでみたいな」と思いました。後で振り返ると「言語への興味」はこの時から始まっていたのかもしれません。

 中等学校に進学しても授業が楽しく、毎日楽しい日々でした。
 しかし第二次世界大戦が始まり、チェコスロバキアはドイツ占領下に入りました。そう、チェコは1918年にスロバキアとともにチェコスロバキア共和国として発足しましたが、第2次世界大戦中にドイツに併合されたのです。

 ドイツは小等中等学校におけるチェコの歴史と国語(文学含む)の授業を一切禁止にしました。しかしミロシュ母が通う中等学校の教師たちは命令に背き、生徒たちにそれらを教え続けました。

 このことが発覚すると、その教師たちは全員、強制収容所へ連行され、チェコの歴史と国語の教科書は全て没収。それらの授業が一切なくなってしまいました。

 このことは大きなショックでしたが、だけどもそこはまだ花のティーンエイジャーの少女です。週末には劇場やダンスに通い、それなりに充実した青春を満喫しました。

 一方、この時すでに大学に上がっているミロシュ父ですが、彼は高校時代前半にはスキー、バイオリンの演奏、山歩きなどをして過ごしていました。

 しかし「息子が遊んでばかりだ」ということに危惧した彼の親が、息子(ミロシュ父)を「もっと勉学に励むために」プラハの学校に転校させました。

 その学校では世界史の授業にとりわけ力を入れており、ミロシュ父も熱心に学びました。この時に抱いた世界の歴史全般への興味や情熱は、ミロシュ父に生涯を通してつきまとうことになります。

 ミロシュ両親がお互いに出会ったのは1941年2月4日のダンスパーティーの場でした。ミロシュ母も大学生になろう頃でした。

 ドイツがダンスパーティーの禁止令を出すのは、この直後のため、二人が出会ったパーティーは最後に許されたギリギリのイベントでした。

 それはちょうとワルツの演奏が始まった時でした。ミロシュ父の目にミロシュ母が目にとまったのです。数多くいる年ごろの娘たちの中から、たった一人。ミロシュ母だけが輝いて見えました。

 そこでミロシュ父はミロシュ母に歩み寄り
「ワルツを踊ってくれませんか」
と声をかけました。ミロシュ母の方もその瞬間に
「この人が私の運命の相手」
と分かりました。

 二人はワルツを一緒に踊りパーティーが終わると手を握り合い、ミロシュ父の住む市営住宅に向かいました。寒い夜でした。

「私は女子大生の寄宿舎ではなく、彼の家へ戻りました。だけども、そこまでは遠くて、かなり歩きました。何しろ真冬のプラハの夜道です。本当に寒かった。そして私たちは初めて出逢ったその日に、一緒に夜を過ごしました」(*さすがチェコ人です)

「大学は閉鎖、家族は強制収容所で亡くなり、彼女だけが僕を支えてくれた」

 彼らはまるで磁石のS極とN極のように、それから可能な限り一緒に過ごすようになり、ミロシュ母はまだ18、19歳でしたがその流れでなんと入籍します。

 幸せの絶頂期でしたが、ミロシュ父に不幸が襲いました。思想犯?(*うろ覚えです)で強制収容所に入れられていた家族(両親ときょうだい?)がそこで三人同時に亡くなったのです。

 追い打ちをかけるように、彼らが通う大学は閉鎖されました。こういう話を聞いて育った二人の息子のミロシュは生涯ドイツを嫌います。

 大学が閉鎖された後、ミロシュ父母は部屋に引きこもり、ひたすら読書に明け暮れました。

「ドイツによる夕方の強制停電が始まったとき、彼と私は世界がブラックホール、もしくは世界が黒いカーテンに覆われているかのように感じられ、そこから逃げたいと思いました。

 なので私たちは「光」を求め、読書に没頭しました。不思議なことですが、ドイツに支配され多くが弾圧されていた時代であったにもかかわらず、当時、いくつも良い本が続々と出版されていました。
 そういった本の中にだけ、現実の世界のどこにも存在しない希望、光、灯りを見出せました」

 ミロシュ父と母は背中と背中を合わせながら、それぞれ読書をしました。そして読み終えると、手に持っていた互いの本を相手に渡し、交換をしました。

「私たちは特に教育の分野に強い関心を抱き、教育関連の専門書を読み漁りました。世界を変えるのには「教育」がその最善の手段だ、ということで意見が一致したのです。
 また、互いに言語にも興味を持ちました。その中には昔の中国の詩集もありました。たちまち二人とも中国に夢中になりました。

『いつか中国を訪れましょう』

 私たちはプラハに中国語を学べるコースがあることを知ると、一緒にそこに通い始めました。どうせ大学の授業もありませんでしたしね。それがすべての始まりでした。1944年のことです」

 その翌年、二人は「ノービー・オリエント誌」という中国を主に取り扱った東洋誌を創刊します。中国語を学び中国に関する書物を読みまくっているうちに、それだけでは飽き足らずになったからです。

若い学生夫婦は二人でハーバード大学で中国語と日本語を学ぶ


 第二次大戦が終わり、大学が通常に戻りました。
 ミレシュ両親は専攻替えをしました。

「というのは、終戦の1945 年にカレル大学には極東文献学・歴史学部が設立され、そこで中国語と日本語が教えられることになったからです。 極東文献史学科は後にアジア・アフリカ科学学科に拡大しました。私たちは飛びつきました。

 中国語を学ぶのにあたって、日本語も一緒に学んでみることにしました。好奇心です。

 だけども、日本語の勉強を始めるのは簡単ではありませんでした。なぜなら、日本語を学ぶ必要な基本的教材が不十分だったからです。まるで揃っていませんでした。

 例え日本語のテキストを入手できても、全員分がありません。そこで学生は数少ないテキストをコピーしたり、コピー費用すらない学生は手で書き写したりしました。

 そんな情けない有様で、しかもカレル大学の日本語研究サークルには数人の学生しかいませんでした。でもだからこそ、日本語研究サークルの仲間たちは仲が良く結束し熱意に溢れ、共に真剣に日本を学んでいました」

 そのうちミロシュ父はもっと中国分野を極め、ミロシュ母は日本分野を研究したいと思うようになりました。だけども当時のカレル大学では限界がありました。

 そこで1946年。ミロシュ両親は夫婦共々、最終的にアメリカのハーバード大学への奨学金を獲得しました。夫も妻も奨学生にちゃんと選ばれたのが大したものです。

 とはいえです。二人ともその大学がいかに権威あるのか、全く知りませんでした。ではその評判も評価も知らないのにも関わらず、なぜハーバードを選んだのかといえば

「プラハでは中国学の分野が発展し始めたばかりでしたが、ハーバード大学には豊富な東洋の蔵書が揃った図書館があり、中国分野での最高の専門家の教授群が教鞭をとっていたからです。

 そう、つまり中国の分野において、何もかもカレル大学とは桁違いのレベルだったのです。だからそこの大学に編入したいと思いました。まさかハーバードがそんなに世界的に有名な大学とは、後で驚きました」

 しかし
「私たちはすでに英語を学んで読み書き、話すこともできましたが、ハーバード大学で学ぶということは、夫と私にとって大変な努力と勤勉さが必要でした。

 なぜならどの授業もかなりのハイレベルで、うかうかしたらすぐに落ちこぼれます。本当に過酷でした。しかし、ハーバードの勉強の場はそれだけの価値はあり、非常に興味深いものでした。

 ここの学生たちもみんなそのことを理解していました。だから誰もがとても勉強熱心でした。このような名門大学で勉強できることを光栄に思い、いかに自分達がラッキーで恵まれているのか、よく分かっていました。

 ところで戦時中に軍隊に所属していた学生は、無料で教育を受けられましたが、私たち学生夫婦の場合はそうではなかったため、奨学金で賄えない出費には苦労をしました。
 
 まず学費が異様に高かった。ある意味、それが最も苦労した点でした。いかんせん私たちはわずかな費用しか持っていなかったので、とても質素な生活をしなければならず、生活はとても苦しかったです。だけども、ハーバードでの学生時代は美しく忘れられない時間でした」

 このハーバードでは二人は中国語コースに加えて、中国学者にとって必須の日本語コースにも出席しました。そう、ハーバードで中国語を専攻するのにあたって、日本語も必須科目だったのです。

 ミロシュ母の方は元々カレル大学在籍中にも、すでに熱心に日本語の勉強に取り組んでおり、彼女にとっては中国語よりもむしろ日本語の方を専門的に学んでいたため

「単なる必須科目だからというだけではなく、私の場合は真剣に日本語を学びました。その結果、チェコに帰国した後の1950年に、日本の散文に関する論文の弁論により、私は博士号を取得できました」

 追記ですが、ミロシュ両親がアメリカから帰国する二年前に、チェコスロバキアは共産主義体制に移行しています。

シベリアをドライブし、バイカル湖を眺め、中国に入りました


 日本語はさておき、ミロシュ両親は二人してハーバードで中国語を学んだことにより、
「1950 年 11 月末、私たちの教師であり友人であるヤロスラフ・プルシェク教授を団長とする最初の文化代表団に同行し中国へ渡る機会に恵まれました。

 中国へ行くことは私たち夫婦の大きな憧れで夢でした。まさかこれほど早く実現するとは思っていなかったので、二人とも興奮しました。

 私たちは汽車で旅行しました。当時は中国行きの飛行機はなかったからです。日数はかかったものの、陸路の旅は息を呑むようなものでした。私たちはシベリアをドライブし、バイカル湖を眺めました。

 満州国で中国の列車に乗り、長城を見て、最後に北京に着きました。(*満州国は1945年に消滅しているはずですが、ミロシュ母は1950年の訪中国の話をしていて何度も「満州」と口にしました)

 北京の天気は晴れていて、色とりどりの屋根が輝いていました。まるでおとぎ話の中のようでした。

 中国政府は私たちのために中国一周旅行を企画してくれました。国中を見てください、ということだったのです。

 それで私たちは南京に訪れました。当時は龍江に橋はなく、列車はポンツーンで運ばれていました。
 南京では寒くてたまりませんでしたが、私たちはへっちゃらでした。戦後間もない南京は美しい街で、寒くてがくがく震えるとかどうでもよかったのです。

 杭州、上海、広東省にも訪問しました。私たちは意欲的に中国の人々に会い、彼ら自身、彼らの人生、希望についてなど語ってもらいました。

 ところがです。彼らは私たちに中国政府を批判するように頼んできました。私たちは当惑しました。

 北京ではミロシュ両親は講談劇場や茶館を訪れ、チーパイ、スー・ペイチュンなどの芸術家、作家、詩人、俳優に会いました。

 また、そこで中国科学院会長郭木洛氏率いる中国平和代表団との会談に私たち二人は通訳者という肩書で立ち合いました。
 この会談は大成功でした。チェコスロバキアと中国の両国間に外交関係をが確立できたのですから」

 その直後です。会談では単なる通訳以上の活躍をしたミロシュ父が、在中国チェコスロバキア大使館文化武官に抜擢されました。同じく1950年のことです。

「北京在住中、私たちはより一層中国語を勉強し、中国についての論文や科学論文を書き続けました。

 そこでは、私たちには中国人の中にたくさんの友人ができました。誰もがとても親切で、いつでも何でも喜んで助けてくれました。長男のミロシュが北京で生まれたのは、1952年のことです」

日本に連れて行くなと言われた息子ミロシュを連れて、東京へ


 1954年、一家はチェコスロバキアに帰国します。

「プラハでは(妻の)私はアジア・アフリカ学部で中国学分野の助教授として働き、さらに中国語の家庭教師の仕事をしながら日本語の勉強を続けました。夫は外務省職員になっていました。

 私は教職という仕事がとても好きでしたが1957年、日本とチェコスロバキアの国交樹立後に外交使節団が再開されるやいなや、夫は駐日臨時代理大使として日本行を命じられました。
(*ミロシュ父も日本語を話しました。ただしより流暢だったのはミロシュ母の方でした)なので、私はプラハでの教職の仕事を辞めることになりました。

 長男のミロシュは1952年に北京で誕生したと言いましたが、夫の日本行を命じられた前の年の1956年に、次男はプラハで生まれています。しかしです。

 当時、チェコスロバキアの外交官は西側諸国には、決して義務教育の年ごろの子供を同行させることが許されていませんでした。

 よってチェコスロバキア外務省は
『外交官の子供たちのための特別な寄宿学校をプラハに設立した。赤ん坊の次男はいいとしても、長男のミロシュはその学校に入れろ。長男のミロシュは日本に連れて行くな、プラハに置いていけ』

 私たちは反感を抱き、何があっても決して長男のミロシュなしでは日本には行かないと決心しました。

 そこで私たちは東京のソビエト大使館の敷地内にロシア語小学校が併設されていることを知ると、
『東京のソ連大使館のロシア学校で学ばせるから、どうかミロシュも日本へ連れて行くことを認めて欲しい』

 夫は外務省に掛け合い何度も何度も懇願し続けて、最終的に外務省が根負けしました。その結果、なんとかミロシュを日本に連れて行っても良いという許可が下りたのです」


 チェコ人外交官一家が見た戦後間もない東京編、プラハの春そしてミロシュ父がロシアに追放される話へ続いていきます。

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