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スエズ運河は流れる③ - 基督と回教..古代エジプトの神々は消えた


かつてエジプトは多くの外国に狙われ、支配を目論まれた国だが、今では観光を目的に多くの外国人がやって来ている。

傍で見ていると、いろいろな外国人観光客らがいた。

「ラムセス二世の巨像が大きいって言ったって、(ジョージワシントン、 ジェファーソン、ルーズベルト、リンカーンの顔の岩の)ラシュモア山より全然小さいじゃないか。ワハハ」

と大声で言い放つアメリカ人のオッサン(しかも田舎訛りの米語)、

ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征のルートを辿るフランス人ツアーグループたち、

紅海リゾート地ハルガタで日光浴を楽しむ、海のない国ドイツからの観光客たち、

そしてオールドカイロとシナイ半島では、聖家族の足跡を巡る世界中のクリスチャンの観光客たち、

またかつてのアラブの偉業とイスラム教の真髄に触れたく、イスラミックカイロ地区を熱心に見物するアラブ人たち...

歴史と時代は流れる、時にはゆったり時にはうねるように、行ったり来たりする。それはまるでスエズの雄大な運河のように...

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↑コプト教会の天井


それまでの外国(人)統治者は、古代エジプトの宗教と文化を受け入れ尊重した、ところがローマは全く違った。

むしろ彼ら穀物搾取や非情な重税などで、エジプトの人々を苦しめた。

ローマンが唯一エジプトで成し遂げたことを強いていえば、キリスト教を根付かせたことだった。


現代、エジプトの国教はイスラム教だ。しかし、コプトと呼ばれる、クリスチャンの国民たちもいる。

彼らの先祖は、イスラム教の時代に入っても、改宗をしなかった(拒んだ)エジプト人たちだ。



コプトはエジプトの国民全体の10%に過ぎない人口だったが、たまたま私が働いた旅行会社の社長がコプトだったので、社員もコプトが多かった。

でもモスリムの社員もいたし、見ていると普通に仲良く共に働いていた。よってたまにモスリムがコプトを殺した、というニュースを耳にするとものすごく違和感があった。

会話をしていても、コプトとモスリムの気質や性格の違いなど、よく分からなかった。同じエジプト人だし。

ただ何となく、コプトの方が大人しくて攻撃的な人はいなかったとは感じた。息を潜めてひっそりと信仰を続けてきたためなのか..

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"コプト"の語源は簡略化して言えば、ギリシャ語のアイギュプトス( Aigyptos ) 。意味は"エジプシャン"。

次にエジプトに来たアラブは、エジプト人をアイギュプトスと呼ぶのがまどろっこしく、略して"キプト"と呼んだ。コプトはそのヨーロッパ訛りだった。

その後、イスラム教がエジプトに入ってきた時に、モスリムに改宗したエジプト人と、クリスチャンのままのエジプト人を分けて呼ぶことが多くなった。

この時に、モスリムにならずに、クリスチャンのままの選択をしたエジプト人たちの方だけを、もともとエジプシャンの意味だった、"キプト"(コプト)を呼ぶようになった。


コプトは1月7日にクリスマスのミサに参列し、片方の手首に丸っこい十字架の入れ墨を彫り、(クリスチャンなので)一夫一婦制のみを守り、

飲酒も豚肉を口にすることも自由だった。(実際、豚肉を売る数少ない肉屋は全てコプト人の経営だった)

女性もイスラム教徒のように、髪の毛や肌を覆い隠すこともない。

そして普通はコプト同士結婚するが、学校や社会に出ると、圧倒的にモスリムの人口の方が多いので、ちょくちょくモスリムの異性と恋愛し、結婚する話も耳にした。

ちなみに、コプトといえば有名どころでは、古いが国連のアナン議長もそうだった。


話は戻る。

ローマ(聖マルコなど)によるキリスト教布教は、エジプトで着実に広まった。ところが、思わぬ"誤算"が生じた。

いくらキリスト教徒になっていこうが、エジプト人の宗教観の根底に古代エジプト教、エジプト神話がある。

例えばエジプト神話では、多くの神々が登場する上、ホルス神の両親のオシリス神もイシス(アイシス)女神も神様である。

この古代エジプト教神様一家ストーリーが、すでに彼らのDNAに染みついて覚えているため、エジプト人のクリスチャン(コプト)は、てんでん違うことを言うようになった。


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どういうことかといえば、三位一体の解釈がまず問題になった。

キリストが地上にいた時、人だったのか神だったのか、という議題について正統派は、

『体は人間であったが、十字架にかけられた時に体は滅びた。しかし"中身"は永遠』。

ところが、エジプト人は

『神は人の体に宿らない。だからキリストも地上にいたとき、体も神だった』。


さらにマリアについても、正統派の考え方では、マリアは"人間の体を持ったキリスト"を生んだ、人間の女性(母親)だ。

しかし、コプトは、キリストとは別にマリアも神の母として信仰。(←決してコプト派だけではないですが、ここではコプトの話だけでいきます)

正統派は「はっ!?」。

一神教の基本が崩れてしまう。が、エジプト人たちは全然耳を傾けない。

その結果、正統派に愛想を尽かされたエジプト人(コプト)たちは"異端"宣告を受け、ローマ帝国から激しい迫害を受けることになった。

エジプト人の受難が続いた。


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↑動物のマスクを被った聖人(左)! (『エジプト』ガイドブック望遠郷 同朋舎出版より)

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↑ケンタロウス(上半身が人間、下半身が馬)など、完全にエジプト神話とギリシャ神話が入っている! (3世紀)

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↑聖書にも出てくる"アンク"(生命の鍵)

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名前を聞けば、そのエジプト人はコプトかモスリムかすぐに判別できます。アイザック、ハニー、アーデル、ムーサ(モーゼ)などはコプト、ムハンマド、フセイン、アリなどはモスリム。

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↑コプトの十字架

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↑アダムとイヴの顔もエジプト人

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↑コプト語でかかれた聖書。コプト語はギリシャ語のアルファベット、末期古代エジプト語のデモテックなどから成り立っています。

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↑オールドカイロ。コプト教会、バビロンの塔の跡などある地域で、幼いイエスキリストを連れたヨセフとマリアが滞在した地域とも言われている。

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三位一体論はまだ白熱し、ローマ帝国による植民地的扱いにエジプト人もいよいよ我慢できなくなってきた。

よってエジプト国内各地で反乱が起きるようになっていた。

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395年、エジプトは今度は東ビザンチン帝国領に入った。

この時期に、エジプトのキリスト教は"コプト"という、前述したような土着性を持つ独自の宗派を確立させていく。

同時に東ビザンチン帝国により、古代エジプト教の信仰を禁止にされる。古代エジプト教も細々残っていたが、ここで完全に消滅した。 

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次に登場したのが、イスラム教のアラビア人(上の地図参照) だった。

アラブ軍の将軍アムルは、エジプトの宗教に寛大さを示し、農民にも気配りを見せた。

荒れ果てた農耕水路を復旧させ、壊れて使えなくなっていた各地のナイル川水量測定装置を修理。そして禁止されていた農業祭事の復活も許した。

やみくもに生産物農作物も取り立て、重税を与えるだけだった、横暴なローマ帝国、東ビザンチン帝国とはまるでちがった。

またアラブのアムル将軍は、砂に埋もれていた運河を再開する大公共事業を打ち立てた。

運河によって、エジプトからアラビア半島のメッカに穀物を運ぶことを考えたからだ。

作業員には報酬も出した。

感激したエジプト人(特に農民)は進んでモスリムに改宗していった。

運河は実際に紅海には繋がったが、地中海とはまだ結合していない。そしてアムル将軍の死後、権力者が次々に変わり、次第に運河も忘れらていった。


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アラブによって、今のカイロに首都が生まれたのは969年だった。
アラブ人たちは歓声を上げた。

「これは勝利だ、我々の勝利だ!」

この"勝利"の単語がそのまま首都名になった。アラビア語で"アルカーヘラ"。そう、アルカーヘラとは the victory の意味だった。


ところで、コプト教会が集中するオールドカイロがコプトの界隈ならば、中世のモスクやイスラム建造物が集中するイスラミックカイロはモスリムの界隈だ。

ここの中心はファーティマ朝 (10世紀初~12世紀。エジプトを中心に北アフリカ〜シリアを支配したイスラム王朝) が築いた城塞都市だった。(一帯を取り囲んだ城塞はもうない)

放置された期間も長い古い地域なので、上下水道の整備はなく、カイロの最貧困街の一つだった。

だから、日本人ツアーを含む外国人ツアーはイスラミックカイロに観光に来る場合、完全にコマーシャル化しているハンハリーリ市場しか足を運ばないものだった。(治安の意味でも正解)

イスラミックカイロには、エジプト国内で最も権威のあるアズハルモスク(←イスラム教への入信/改宗もここに足を運び、試験を受ける)、

マムルーク朝の建築が美しいアルハキームモスク、イスラム建築の傑作のスハイミー邸、バイナル・カスラィン通り(二つの宮殿の間を走る大通り)、

またグーリーヤ区のズワイラ門、アルフセインモスクなどなど、イスラミックカイロは中世のイスラム建築が集結したエリアであり、これらを見ると、

「ああカイロが世界一豊かな街だった時代が本当にあったのだな」。

実際、カイロのイスラム地区は中国の万里の長城、ヴェネチアの街と同様、世界遺産としてユネスコに選ばれている。

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↑スハイミー邸

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↑ズワイラ門

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毎年夏になると、アラブ人(アラビア半島のお金持ち湾岸人たち)が一気にカイロにやって来た。

理由は、エジプトは比較的戒律が緩く、そして比較的夏が過ごしやすいから! (←あくまでも彼らの感覚で)。

五つ星ホテルやマンションを借りて長期滞在。(←だから夏は賃貸物件は全て"湾岸人料金"に値上がりする)


アラブ人もピラミッドや博物館、ルクソール観光もしていたが、彼らが一番熱意のある眼差しで、

襟を正して(すとんとした白い民族衣装、トーブ姿なので襟付けなんて着ていないが) 見学をしていたのは、やはりカイロのイスラミック地区だった。(あとホテルのカジノとベリーダンスショー...)


ある意味、イスラミックカイロ地区でアラブ人をガイドするのは、難易度が高い。

何故なら、彼らはこの中世のアラブが強さを誇っていた時代に精通し、イスラム教にももちろん長けており、アラビア語の説明も全て読めるので、ごまかした適当な案内は決してできない。

(ちなみに、横で聞いているとエジプト人ガイドは、ちゃんと湾岸方言のアラビア語で解説をしていました)

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1187年にエルサレム王国を破り、第三回十字軍をやっつけたイスラムの英雄、サラディン(アルメニアクルド人の出目)もエジプトにやって来る。

しかし、本当の意味でカイロが全盛期を極めるのは、次のマムルーク王朝だった。


マムルークは"奴隷"の意味があるが、トルコとアラビア半島一帯にかけた、奴隷出身の軍人たちを指した。

彼らは兵役を終えると、奴隷の身分から解放され、さらに土地も与えられた。

そしてサラディンの後継者を追い出し、エジプトのみならずシリアとパレスチナも支配し、東トルコまで勢力を拡大し、東西地帯幅広くを手に入れた。


そのおかげで、エジプトは交易が盛んになった。

中国、インド(アラビア半島の東側以降を指す)、アラブから入ってくる香辛料やシルクは、カイロの街を中継した。

カイロに一旦入った商品は、ジェノバ、ヴェネチア、フィレンツェに運ばれ、そこからさらにヨーロッパ全域に輸出された。

そうして14世紀のカイロの人口は、ヨーロッパ最大都市のパリの二倍はあったほど、活気があふれる街になった。

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栄えたマムルーク朝の時代の一番の欠点は、王位継承が世襲制でも投票制でもなく、強者が王位に継ぐという形式だったことだ。

そのため、後継者争いが熾烈極まりなく、殺し合いや暗殺などもうめちゃくちゃだった。

生き残って王になっても、その後釜を狙う奴にすぐに殺られるなど、まあ血の気が多く物騒なことで...

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カイロが交易の拠点だった時代、物の運搬の拡大化を計り、ヴェネチア人の商人たちが、古代ファラオの運河を再建する案を思いついた。

なにしろヴェネチア人といえば、大の運河好き。だからなおさらそのアイディアに夢中になった。

ところが、時代はもはやカイロ主役ではなくなってきていた。

既にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインド到着し、その6年前にはジェノバ人のコロンブスが新大陸を発見している。

交易中継都市カイロは需要が激減し、街が寂れていっていた。だからヴェネチア人たちもエジプトの運河再建の提案をピタッと止めた。

砂に埋もれている運河は、ため息をつく。運河は辛抱強く、息をのんで待っていた。

やはりあのフランス人を待たねばならないのか。

ナポレオン・ボナパルトが地中海を渡り、エジプトにやって来るのを、スエズ運河は黙ってひたすら待ち続けていた。


つづく


(なお主な王朝の順番は、まずアッバース朝(スンニー派)、そしてファーティマ朝(シーア派)、マムルーク朝(サラディン&十字軍の時代))。


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↑アブメナの街。1979年世界文化遺産として登録。アレクサンドリアの南西45kmにある、コプト教の聖地で、エジプト最古の宗教都市。ツアーで訪れたら、神父様(写真中央)がそれはもう、大歓迎してくださり(←日本人ツアーは滅多に来ない)、それはもう丁寧に解説して下さいました。
だけど詳しすぎてマニアック過ぎて(←通訳が難しい&時間も押す)、でも遮るわけにいかず大変でした。神父様、むろんバクシーシの要求はなく(エジプトで初めて!)、大変素晴らしい方でした。
写真右のエジプト人は、もう20年前にお亡くなりになったライセンスガイド。彼はモスリムなのでこの仕事を嫌がり、教会にも入らず(←ダミアンか 笑)、ずっとソワソワ落ち着かない様子でした。写真も神父様から離れて...

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↑もちろん天使も聖母マリアもキリストもエジプト人顔

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