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「ハプスブルク家のエジプト」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅣ〜LOLOのチェコ編⑫


アルフォンス・ミュシャ(ムーハ))の「クレオパトラ」

 1991年の冬ー

 都内の大使館の多い地域を歩いていると、否応なしに気がつきました。様々な大使館に掲げられている国旗や看板の名称が変わり、大使館が多いエリアにはそれまでと違い、機動隊や警官の警備が強化されていたことです。

 そして、間もなくゴルバチョフがソ連連邦の解体を宣言しました。

「ソ連解体!Lolo,これは凄いことだよ!」
 
 天安門失敗で号泣した、台湾人と中国人の両親を持つ友人が興奮しました。

 麻布台にはすでにあの大きなソ連(現ロシア)の大使館がありました。東京タワーの手前のフリーメイソンロッジのそばで、昔はなかったけれど、今のドン・キホーテの先です。

 当時、警備などで物々しいソ連の大使館から、真っ赤なソ連の旗が下げられた瞬間は目撃していませんが、つい先日までとは国旗が変わっていることに、すごく驚きました。

 1991年の冬には続々と、旧ソ連連邦諸国らの大使館・領事館の旗も下げられ閉鎖になったり、他大使館に場所を間借りした国の窓口もあったはずですです。
 変わり身の早い国はすぐに新しい国旗と、新しい国名の表札を出していました。

 この時、問題になったのは、それらの賃貸契約について日本の不動産登記簿謄本には「所有者:ソヴィエト社会主義共和国連邦」になっていることでした。

 しかしです。その明記されているソヴィエト社会主義国が無くなってしまい、それらの大使館・領事館、高輪のソ連通商建物、各外交官たちの住居の契約書…。
「どうするの?」

 さらにソ連連邦の国々の間には確か、「在外資産の帰属と分割に関する条約」なるものが存在し(違ったかな?日本との間だったかな?)、
 犬散歩で出会った旧ソ連連邦だった某国の外交官の奥さんが、興奮していろいろべらべら話してくれましたが、ああ書けません! 

ピンクがワルシャワ条約機構諸国、青が北大西洋条約機構諸国、緑が非同盟諸國

 
 ソ連連邦はさておき、旧ソ連・東欧とは、1955年のワルシャワ条約機構で結成されたソ連を中心とした東欧諸国の結成チームです。
 ソ連,アルバニア,ブルガリア,チェコスロバキア,東ドイツ,ハンガリー,ポーランド,ルーマニアの8ヵ国
でした。

 エジプトではその翌年の1956年にスエズ戦争が勃発しました。英仏・イスラエルに攻撃されたのですが、アメリカは武器を売ってくれなかったため、エジプトのナセル大統領は、その旧ソ連・東欧から武器を買いつけました。
 ここからエジプトの社会主義化が始まりました。

 ところでソ連の消滅と共に、ソ連・東欧チームも「解散」になったのですが、では「東欧」の名称はどうなの?と
「今後は”中欧”と呼びましょう」
とテレビでも言っていたはずなのに結局、今でも「東欧」の呼称が根付いています。

 だけども、この間某旅行会社のツアーパンフをみると「東欧三カ国周遊ーチェコ・ハンガリー・オーストリア」となっており、驚きました。
「こりゃあ、いくら何でもオーストリア大使館から苦情が入るぞ!」

 在日チェコ共和国大使館が誕生したのは1993年で、チェコスロヴァキア大使館がそのままチェコ共和国大使館に移行し、同じ敷地内にスロヴァキア大使館の窓口もちょこん、と設けられていました。

 国旗も新しいチェコの国旗がばんと大きく掲げられ、スロヴァキアの国旗が目立たなかったのを覚えています。しかも観光パンフレットも、チェコ側には割と充実していたのに、スロヴァキア側には何も置いていなかった…。

 1997年に私がチェコ大使館に訪れた時も、まだそんな感じでした。
「チェコとスロバキアのパワーバランスが見えたわ」
 なんて思いましたが、チェコ大使館とは離れたところに、スロヴァキア大使館が登場したのは2002年に入ってからです。


スロヴァキアのベネトン

 1998年、スロバキアの首都ブラチスラヴァに初めて行った時、あまりにも田舎でびっくりしました。マクドナルドすらも進出しておらず、せいぜいベネトンが一軒ぽつんとあるだけでした。

「ああまたしもベネトンよ!」
 アフリカのいろいろな国にもありました、カイロにはいっぱいありました、ルクソールにまでありました。
 さすがにシリアにはなかったものの、レバノン、ヨルダン、などまるでコンビニストアのように、「すぐそこにベネトン」。

  ベネトンは1980年にニューヨークのマディソン街に第1号店を出店すると、第2号店には東京を選んでいます。タイミングが東京の不動産バブル時代。

 その後、中東にも多く店舗を構え、そしてスロヴァキアのど田舎のブラチスラヴァまで…。その理由は、ベネトングループには不動産会社と金融会社なども所有しているのが絶対関係しているのに違いないく
「ベネトンめ、こんな所まで…!」

 そう言うはものの、ブラチスラヴァのベネトンは安くて、そこで買ったスーツケースは未だに愛用しています。色が派手なので、空港のターンテーブルでもすぐに見つけられるのが有り難い。

 とにかく、この淋しい首都の中心にはベネトンショップ以外何もありません。なので、観光グループやテレビの撮影隊を連れて行くと、弱りました。

 日本の団体ツアーの添乗員さんたちも
「スロヴァキアは何もないつまらないところ。ツアーの行程から外したほうがいい」
と日本の旅行会社に報告書を提出していった結果、実際にスロヴァキアを訪れる日本のツアーがぐっと減りました。

 民主化の後、アメリカの力を借りて急成長を遂げたチェコからは切り離され、発展から取り残され、日本人ツアーのパンフレットからも外され…嗚呼…。

ロスチャイル家のロイド船〜アレキサンドリアまで運行開始

 1798年に、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を果たし、そこからエジプトとフランスの国交が生まれたのは、有名な話です。

 しかし、オーストリアのハプスブルク家はそのずっと前の1750年頃から、エジプトとの貿易を開始していました。

 オーストリアのサロモン・ロスチャイルド男爵(1774-1855)が所有する海運会社ロイドがエジプトと海路を結ぶと、エジプトとの交易はより盛んになり、さらにエジプトがオーストリア王立郵政公社と契約締結後、両国の貿易は最盛期を迎えました。

 エジプトにとっての最大貿易相手国はオーストリア、二番目はオスマン帝国トルコでした。

 1851年、ロスチャイルド家のロイド蒸気船がイタリアのトリエステ港とアレクサンドリア港を結ぶ定期的な運航を始めると、今度は人々の往来が始まり、まずハプスブルク家が次々とエジプトを訪れるようになりました。

 ロイド船はアレクサンドリアまで4日間かかったものの、一番速く一番豪華で安全で、快適な一流の船でした。

 高い料金にもかかわらず、時間厳守、効率性、信頼性で有名だったため、度々乗車券が完売になったほどでした。しかも、このトリエステ-アレクサンドリア間の航路では、会社の船長の中で、最も経験豊富な船長が必ずこの航路を任されました。

ロスチャイルドのロイド船の広告ポスター。やっぱり「オベリスク」が描かれていますね…。

 せっかくなので、ロイド船についてもっと見ていきましょう。

 船は毎週木曜日の午前11時半にトリエステを出発し、金曜日の午後1時頃にブリンディジに着くと、一時間停船。月曜日の午前6時にはアレクサンドリアに到着しました。

 アレクサンドリア港からは、別のロイド船に乗り換えポートサイード、ヤッファ、ベイルート、スミルナを経由してコンスタンチノープルへ向かう旅行者も多く、まさにそこは巨大なハブ港であり、多くの言語が飛び交っていました。

 
 ロイド船の旅は料理でも知られていました。
 ファーストクラスの乗客は、ロールパンや卵料理などの朝食を楽しみにし、午前11時からのブランチでは温かい食事2品、チーズ、フルーツ、パン、コーヒーがもてなされた。午後4時までは紅茶サービスもありました。

 午後6時30分頃には4種類のホットミール、スープ、サラダ、ケーキ、チーズ、フルーツ、ロールパン、コーヒーを、夕方8時頃にはミルク入りの紅茶とバター入りのパンを味わえました。

 二等席の乗客も同じメニューを受けたが、温かい食事の数は少なかった。三等船室では乗組員と同じように、食事を楽しむために別途の料金を支払う必要がありました。

ハプスブルク家のエジプト訪問

 ロイド船の運行開始により1855年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で、後のメキシコ皇帝であるフェルディナンド・マクシミリアン大公は、オーストリア海軍司令官としてパレスチナとエジプトを訪問しました。

 つまりトーマス・クックやドイツ帝国のウィルヘルム2世のずっと前に、AHの皇帝は聖都エルサレムにも巡礼に来ています。

 1869年には、皇帝フランツ・ヨーゼフがスエズ運河開通式典に出席しました。

 当時のエジプトの君主であるイスマイール副王はヨハン・シュトラウス2世に、この式典のために「エジプト行進曲」の作曲を依頼。

  運河建設はフランス主導によるものでしたが、つまり、エジプトが非常にハプスブルク家にも気を使っていたのが分かります。

イスマイール副王が建てたカイロのゲジーラ宮殿。(のちのマリオットホテル)中央の椅子に腰をかているのが皇帝フランツ・ヨーゼフ。煙草を口にくわえた人もいますね

 1873 年、すっかり「オリエント」に夢中になっていたハプスブルク家はウィーンで万国博覧会を開催した時に、「トルコの家」「ペルシャの家」、「モロッコの家」それから「エジプトの宮殿」のパビリオンを出しました。

 「エジプトの宮殿」のパビリオンは、巨大なマムルーク朝様式のドームや 2 つの異なるミナレットなど、さまざまな時代のイスラム建築の要素を再現して構成された印象的な建造物でした。
 それらは、ボヘミアの建築家フランツ・シュモランツ (1845-1892) によって設計されました。

 この時、ウィーン市長のカジェタン・フェルデラーは、万国博覧会への中東からのゲストをアラビア語で歓迎しました。それだけ中東との関係強化を意識していたからです。
 ただし、万博自体はコレラの流行とそれに続く経済危機の発生により、結果的に成功しませんでした。

  
 1881年には皇太子ルドルフもエジプトを訪れ、この地域への旅行の思い出をもとに著書『東洋旅行』を執筆しました。

 旅行好きだったエリザベート皇后はその年の10月にポートサイード、イスマイリア、アレクサンドリアを回り、最後のオーストリア皇帝の父であるオットー大公も、狩猟のためにしばしばエジプトに滞在しました。


  ルドルフの後はフランツ・フェルディナンドが王位継承者となりましたが、1895年に健康状態が悪化したとき、主治医の勧めでエジプトに渡りました。

 フェルディナンドはカイロのゲジーラ宮殿に長期宿泊したのですが、自分の病は完治しないと分かっていたので、静養よりも遊び暮らす方を好みました。毎晩、カイロ在住のオーストリア人貴族らとナイトクラブなどに繰り出したのです。

 言葉を返せばカイロは夜の遊び場、ナイトクラブなどがいかに充実する街であったのか、というのに驚かされます。

 まとめとして、トーマス・クックが観光化する以前から、エジプトはまさにハプスブルク家の王族にとっての旅行先、避冬地そして療養地だったというわけです。

ウィーンの画家たちが愛したエジプト、そして召使い・見世物のエジプト人

 頻繁にエジプトを訪れたのは、ハプスブルク家の人々だけではなく、オーストリアの画家たちもまた然りでした。

 中でも著名画家はレオポルド・カール・ミュラーです。

 彼は 1873 年以降何度もエジプトを訪問し、カイロに冬季スタジオを所有していました。ミュラーは1877 年に彼はウィーン美術アカデミーの教授に任命され、数年後にはその学長に就任しました。

 ミュラーの生徒には、ルドルフ・オットー・フォン・オッテンフェルト、パウル・ヨアノヴィッチ、フランツ・クサーヴァー・コスラー、ヨハン・ヴィクトール・クレーマーといった多くの著名なオーストリアのオリエンタリスト画家が含まれ、
 彼の生徒の中にはドキュメンタリーのリアリズムで知られる多作のルートヴィヒ・ドイチュもいました。

 中東を旅してその日常生活を正確に描いた画家はオーストリア人には限りませんでしたが、今でも高い評価を受けているほとんどのそれらの作品は、ミュラーの生徒だったオーストリア人画家によるものが多いそうです。

 なので今日、彼らの絵画は非常に人気があり、高値で取引されています。

 ちなみに私がカイロに住んでいた時、それらの絵画のコピーがスーパーで150円で売られていました。でも、今思うと19世紀のオーストリア人の画家たちが描いたエジプトの街や人々の絵を、スーパーで売っていることがシュールですね…。

レオポルド・カール・ミュラー作

 反対にエジプト人たちも、オーストリアに渡って来ていましたが、旅行ではありません。

 まず、娯楽産業従事者たちです。彼らはサーカスまたはモンスターショーの移動式興行が、オーストリア渡航の目的でした。

 モンスターショーでは黒い肌、普通ではない体格、普通ではない容姿の人々を見世物にし、AHの人々を驚かせ、好奇心を惹き付けて楽しませ!ました。

 2つ目のカテゴリーのエジプト人は、召使いです。
 15世紀にはすでにオーストリアにはアフリカ出身の召使がいたのですが、その時からエジプトに訪れたオーストリア人が(*恐らくカイロの奴隷市場で)エジプト人やスーダン人の召使いを購入し、連れて帰っていたからです。

 彼ら召使いの人数はオーストリア人の観光客、探検家、貿易商、外交官の数が拡大に比例し、ますます増えました。

 有名な話ですが、
 ウィーンの実業家ヨーゼフ・ワイドマンはエジプト旅行を何度もし、ある時、エジプト人少年ムハンマドを召使いとして連れて帰りました。

 1905 年に亡くなると、ワイドマンの遺言で、17 万クローネもの全財産がこのエジプト人の召使いに遺され、妻にははした金だけでした。
 人々は
「これは妻の不倫に対する復讐だった」
と噂し、大きな話題になりました。

 のちに、ムハンマドはその莫大な遺産で輸入会社を設立。オーストリアで大成功をおさめた、数少ない元召使いのエジプト人でした。

 それから、高等教育を受ける留学を渡航目的としたエジプト人がウィーンに入って来ていました。ただしエジプト人といっても、彼らは裕福なチェルケス系もしくはトルコ系のパシャ(貴族のような身分)の一族の人間たちでした。

「ヨーロッパの一流建築家らを呼び寄せよう」ー西洋と混ざったエジプト様式建築の誕生

 オーストリア=ハンガリー帝国(AH)の商人、ビジネスマン、銀行家、肖像画家、医師や行政官そして前述の建築家といった職業の人々は、旅行などを目的にではなく、ムハンマド・アリ王朝のケディブ(副王)に仕えるために、エジプトに入国していました。

 ルドルフ・スラティンはエジプトのダルフールのスダ州知事に抜擢され、1900年から1914年まではスーダンの総監察官を務め、ケディヴからパシャの称号を与えられました。

 ケディブに仕えたユリウス・ブルム(1843年-1919年)はCredit Anstalt銀行のカイロ支店(1876年に閉鎖)を開き、その後エジプト財務省に勤務。1876年から1890年の間には大蔵大臣の代理を務め、「エジプト経済の父」となりました。

 エジプト副王の住むアブディーン宮殿では、オーストリアの医師が好んで起用されました。当時、ウィーンには世界的に有名な医学部があり、医師のレベルが高かったからです。

 ハンス・ベッカー医師は1893年にカイロのオーストリア・ハンガリー病院長に就任し、1894年から1914年まではエジプト「最後」のケディブであるアッバス・ヒルミー2世の主治医を務めました。

 
 1861年にアメリカで南北戦争が勃発すると、それまでアメリカから綿を輸入していたヨーロッパ諸国は弱り果てました。そこに登場したのがエジプトでした。

 君主のイスマイールは張り切り、エジプト綿を外国に大々的に輸出しました。

 エジプト綿で大儲けしたお金とナポレオン3世の資金で、スエズ運河は誕生。
 するとイスマイールは
「カイロの街をヨーロッパの首都に匹敵する、現代的で文明的な条件を備えた近代都市にする」

 例えばエジプト証券取引所があるエズべキーヤ地区には、多くの西洋人ビジネスマン一家が住んでいたので、完全な「ナイルのパリ」の界隈に作り上げられました。  

エジプト証券取引所

 数々の宮殿、イタリア人建築家によるオペラ座、パリの外灯と全く同じガス灯、街路樹の通り、バークリー銀行、各国大使館、トーマス・クック旅行社の入ったシェファードホテル…。
 今でも営業し続けている伝説のカフェ「グロッピー」も、この頃にこの地区に開業されました。

グロッピーのカフェ

 「エジプト・コットン」輸出バブルに湧き、その資金で街がどんどん開発されていくと、「ゴールドラッシュ」ごとく、一気に外国の企業がなだれ込んできました。
 
 同じ時期、トーマス・クックがエジプトの観光ビジネスを巨大化しました。こうなってくると、ちんまりした首都カイロを早急に拡大、そして近代化させる必要に迫られました。

「これは建築家、建設士、設計士が必要だ」
  イスマイール副王は思いました。


 ところでこの19世紀、フランスはオスマン帝国の領土だったアルジェリアとチュニジアを占領しました。
 フランスはイギリスにその了承を得る見返りとして、エジプトにおけるイギリスの勢力増大を許可しました。

 当然、これにエジプト側はムッスリし、その後、ムハンマドアリ王朝の王子たちの留学先は以前はパリが主流だったっものの、ウィーンの有名なテレジアヌムアカデミーが選ばれるようになりました。

 イスマイール(1830-1895)はウィーンで 2 年間勉強し (1844 ~ 1846 年)、その後も度々ウィーンには足を伸ばし、1858年からウィーンでは大々的な建築が行われ、劇的に変貌を遂げる様を見ていました。

 ウィーンの旧市街の城壁の跡地にはリング通りが生まれ、1867年以降ですが、デンマークの建築家テオフィラス・ハンセンによる新ギリシャ風国会議事堂が完成。

 それに、ドイツ人のゴットフリート・ゼンパと、カール・フォン・ハーゼナウアーによる新バロック様式のブルク劇場。 

 フリードリヒ・フォン・シュミットによる新ゴシック様式の市庁舎など、数多くの公共建築が生まれていく過程も、実際に自分の目で見ていました。

 イスマイール副王は
「オーストリア=ハンガリー帝国で経験を持つ建築家たちも欲しい!」

 既にカイロにはフランス人、イタリア人、ギリシャ人、トルコ人、ドイツ人らの建築家および設計事務所、建築事務所がいくつも入りこんでおり、そこにいよいよ、AHの建築家たちも一気に呼び寄せられました。

 これだけ各国から一流建築家が集結すると、その結果、古代エジプトとギリシャ ローマの装飾モチーフの融合バロックやルネッサンス様式とイスラム、マムルーク朝、オスマンなどの様式を融合された、独特の「エジプト様式」が生まれました。

https://www.greategypt.org/p/giuseppe-parvis.html

「デミトリアス・ファブリツィオではなく、ディミトリ・ファブリキウスです」

1998年(1999年?)

 私はプラハの事務所から、アレクサンドリアのギリシャ協会に、

「広島原爆ドームの建築家ヤン・レッツェルが、カイロのアブディーン宮殿に仕えていた時、彼の上司であったであろうギリシャ系ドイツ人建築家デミトリアス・ファブリツィオ」
について、FAXで問い合わせをしました。

 すると、返ってきた返事は、

〚まず、あなたは外国語読みの名前を見たようですが、
ギリシャ語読みではその名前はデミトリアス・ファブリツィオではなく、ディミトリ・ファブリキウスです。

 ファブリキウス(1848-1907)は確かにカイロのアブディーンの宮廷主任建築家でした。

 エーゲ海の◯◯島(忘れました)で生まれ、ドイツへ移住し建築家の道へ進みドイツの国籍を取り、その後カイロの◯◯設計事務所に声をかけられエジプトに渡航。

 すぐに(*イスマイール副王の孫の)アッバス・ヒルミー2世副王にスカウトされ、1891年の大火災後のアブディーン宮殿の大規模な修復及び改築を担当。

 その他、アレクサンドリアのモンタザ宮殿の中の「サラムレク宮殿」、1903年にはシェリフ・パシャ通りにあるエジプト国立銀行本部(現存)、サヴォイホテル(現存)、農業銀行(現存)など手掛け、パシャ(ナイト)とベイの称号も得ました。

 1907年に亡くなると、カイロの旧市街にあるギリシャ正教会墓地に埋葬されました〛

 このFAXの最後には、こう書かれてありました。
宮廷主任建築家だったファブリキウスには、複数の弟子たちがいました。中でも目立っていたのは、若手の…

             つづく

カイロのファブリキウスの建築
アル・サラムレク宮殿




 


               

             

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