茉莉花茶と緑茶を愛したチェコ人外交官一家Ⅱ~東京で大使館物件探しをする~LOLOのチェコ編㉕
「北京時代、私たちは茉莉花茶が一番好きで、頻繁に飲んでいました。今でもよく飲んでいます。
だけども日本では毎日、朝起きると宜興の陶器ですぐに緑茶を飲むのを習慣にしました。なぜなら緑茶は一日の始まりの飲み物として最高で、体にも精神にもとても良い効果を感じられたからです」
ミロシュ母はそう言うとにっこり微笑み、優雅な手つきで茶碗を手に取り、緑茶を静かに飲み始めました。その時、私はある質問が喉まで出かかりました。
『じゃあ、ウォッカで始まる朝を迎えている息子さんのことは、一体どう思っているのですか?』
駐日チェコスロバキア「臨時代理」大使に抜擢
1957年、「ストップオーバー東京」という映画が公開されました。
アメリカの諜報員が共産主義のスパイ組織を追跡し、彼らの暗殺計画を阻止するために東京に派遣される、というのがあらすじですが、このあらすじを先に読んでいなければ、映画を全部見終えても
「え?そういう内容だったの?」
と本来の内容に一切気づかないという、酷い脚本の駄作映画です。
当然、アメリカでも日本でもこの映画は興行成績が悪く、どちらの国でも全く話題にならなかったらしいのですが、それはともかく…
その映画の公開時期頃、共産主義国家のチェコスロバキアから臨時代理大使として、ミロシュ父が妻子を伴い初来日を果たしました。
ところで、日本がチェコスロバキアと国交を結んだのは1919年でしたが、1939年、第二次世界大戦でそれが断絶されました。
しかし1956年に日ソ共同宣言が行われたことにより、日本はチェコスロバキアとも国交を回復しました。
その結果「とりあえず」という形で、駐日チェコスロバキア「臨時代理」大使が急遽日本に赴任することになり、東洋研究者であるミロシュ父が抜擢されました。
夫の辞令を聞いた時、ミロシュ母は大いに興奮をし目を輝かせました。
「中国に住んでいた時は多くの中国の詩に出逢い深く感銘を受け、片っ端からそれらを読み漁っていっていました。中でも蘇東坡の作品に胸が打たれました。
私は蘇東坡の詩だけではなく、彼自身の生き方と信条にも大いに感銘を受け、私の一番のお手本をする歴史上の人物にもなりました。
(*蘇東坡:またの名は蘇 軾。1036年生まれ。北宋の詩人、画家、書道家、政治家でもあったが二度左遷されている)
中国の歴史も学びましたが、私はこの国における文化の頂点に達した宋の時代に一番興味を持ち深く研究をし、その結果『神宗皇帝の中国』という本の出版までしました。
一方、日本については元々日本の詩、文学や美術、歴史よりも”日本の美や美意識”に私は興味がありました。
それは何なのか具体的に述べると、見た目も美しい和食、和食の美しい盛り付け、和食の作法、茶道、華道、日本庭園、日本美術など全ての”美”です。
それに挨拶の仕方にまで”美”が入っているのは、日本ぐらいです。また”恥じらい、ためらい、奥ゆかしさ、謙虚さといったものを美徳としているのも日本だけですし、”侘び寂び”の概念にも関心を抱いていました。
しかし、そういったことは書物の中だけで学ぶのは難しく、実際に日本の文化に入り込んでみなければ、真に理解しにくいです。よって夫の日本行きが決まり、私は目を輝かせ喜びました」
だけどもミロシュ母には大きな懸念も一つだけありました。
「日本に行くことを嬉しく思いましたが、大きな心配もありました。
それは
『チェコスロバキア人の私たち一家を見る日本人たちが、日本の敵国だったアメリカ人と誤解をしないか?』
ということでした。
アメリカが広島や長崎にしでかしたことを、もちろん夫も私もよく知っていました。なので、もし私たちがアメリカ人に間違えられたら、酷い仕打ち、復讐をされるのではないかとびくびくしたのです。
なので、いっそうのこと身に着ける服に”私たちはアメリカ人でありません”と書いた名札を縫い付けておこうか、と二人で冗談で言い合ったほどです」
夫婦は幼い長男とまだ赤ん坊の次男を連れていたので、なおさらそのような心配を抱いたのかもしれません。
チェコスロバキア大使館となる土地と建物を自分たちで探す
「アメリカ人に見間違えられ、憎まれたらどうしようー
私は大変緊張し、二人の息子を連れて初めての日本の地に降り立ちました。本当にドキドキしました。
だけどもです。すぐにほっとし拍子抜けしました。最初から日本人は誰もかれも私たちにとても親切だったからです。
東京に到着した私たちは帝国ホテルに滞在中、自分たちで住居となる家を探しました。
家族の住まいについて夫と私の意見が一致していたのは、西洋人向けの邸宅を選ぶのではなく、
『日本の生活様式をより詳しく知るために、一般的な日本家屋に住もう』
ということでした。
もっとも日本の住まいは天井が低いですが、夫はさておき私は背が低いので、このことはそんなに問題とは感じませんでした。
畳の部屋、日本式のお勝手、和式トイレ…。これらが備わっている日本家屋に私たちはこだわりました。それから部屋数も多いに越したことがないと考えていました。
きっと色々とゲストが宿泊に来るかもしれないのと、夫婦それぞれの勉強部屋も欲しかったからです。
この条件に当てはまる家を見つけるのは全く問題ありませんでした。というのは、当時の東京の一戸建ては大抵広かったので、部屋数の多い家はいくらでもありました。どこの家族でも子どもの人数が四人から五、六人いるというのがざらだったからです。
むしろ私たち夫婦には息子が二人しかいない、と言うと日本人には『まあ二人だけですか?』ときょとんとされたものです。
住まい探しと同時に、私たちはチェコスロバキア大使館となる土地と建物も探しました。
これも夫婦二人で探しましたが、こっちは非常に苦労しました。何しろ大使館なので、治安や交通の便の良いところを選ばねばなりません。しかし夫も私も東京の土地勘はゼロです。
大使館の場所選びのために、タクシーに乗ってほうぼうをずいぶん回りました。何度も迷ったりもしました。
夫も私もくたくたになったものの、タクシーの運転手の誰もがみんな誠実で親切であったことは非常に心強く有難かったです。
事情を知った日本人の運転手さんはみんな親身になって協力してくれ、不動産情報を単なる親切心だけで持ってきてくれたり、いい物件を聞いて回ってくれた運転手さんもおりました。
それにしても、東京の道はなかなか覚えられませんでした。というのは、東京の人口は1000万人もいるマンモス都市で(*正確には当時の東京の人口は851万8622人)ごみごみしている上、どの通り(ストリート)にも名称がありません。ごく一部の大通り以外、道に名前がないのです。
ですから、どこか目的地へ向かうのにも中々そこの辿り着けず、よく迷いました。第一、行き止まりが多く、似通った通りが多いのでなおさら混乱したものです。
さて、ようやくどうにか、静かで優雅な東京地区にチェコスロバキア大使館を置くという問題をなんとか解決しました。それは英国風の大きな邸宅で、敷地内には広い庭がありました。
そう、大使館に広い庭があることにもこだわっていました。ちょっとしたセレモニーやレセプションに使用できる面積の庭があるに越したことがありませんから。
建物の周囲の環境も良かった。落ち着いた場所でありながら、歩くとすぐ近くには戦火で焼け野原になった跡地に商店街が生まれており、活気がありました。そしてその商店の人々はみんな友好的でした。
最終的にこの土地はチェコスロバキア政府によって購入されました。
二か国が分断された後、そこにはチェコとスロバキアの大使館が分かれ、新しい建物に置かれました。(*現在は東京のチェコ大使館とスロバキア大使館は別々の住所です)
母親は東京生活を満喫し、かたや長男は…
1950年代の東京の人々は敗戦から立ち直り、復興に向けて勤勉で意欲的でした。しかし、その一方で彼らは比較的つつましく暮らしていました。
街の通りには、さまざまな商品を扱う興味深い店がたくさんあり、筆文字で飾られた小さなのぼりの形で宣伝することもよくありました。
私たちが何かを買い物している時に、店員に日本語で話しかけると、彼らはしばらく驚いて私たちを見つめたものです。
そして、日本の人々は夫と私がチェコスロバキア人だと知ると、非常に親近感を抱いてくれ、口々に両国の国交回復のことを言ってくれました。
例え国交の件を知らなくても、誰もが非常に友好的でした。商店街の人々も街中でちょっと出会う人々も皆、私たちに典型的な日本人の礼儀正しさで接してくれました。
忘れられないのは、道を歩いていると突然雨が降り始めた時でした。
見知らぬ日本人の女性が私にところにバッと駆けて来て、彼女自身が濡れるのにも関わらず、私の頭の真上に傘を開いてくれたことです。
赤の他人のために、下心もなく自分が濡れてもいいから傘をさしてあげる…そんな親切にあふれた人は日本人しかいません。
とにかく、当時の日本人は礼儀正しさと美意識で私たちを魅了しましたし、私が直に見て触れて学びたかった”日本の美や美意識、美徳”のあれこれも知ることができて、私の日本研究は大いに捗りました」
ミロシュ母は満足そうに当時のことをそのように語りましたが、長男のミロシュはと言うと…。
5,6歳で来日した少年のミロシュは麻布台にある連邦ソビエト連邦大使館付属ロシア人学校に入学させられました。
日本の学校及び西側諸国の小学校では決して教育を受けてはならない、という決まりがあったため、やむをえませんでした。しかし、これは「悪夢」でした。
そもそもロシア語が分からないので、クラスメイトや先生の言うことが何一つ理解できません。
これは親が悪いと思います。学校でこういう問題を持つことを予め予測できていたのに、ロシア嫌いのミロシュ両親は息子にロシア語を多少なり予習させることを一切させていなかったからです。
言葉の聞き取りも話すことも、ロシア語を書くこともできない。もちろん、ロシアの歌も知らない。
それに自分以外ほぼ全員がロシア人です。大いに戸惑い孤立感が半端ではなく、しかもチェコ人だというとからかわれ馬鹿にされ、いじめられました。
「学校に行くのが嫌で嫌でたまらなかった」
その結果、原因不明の高熱が出たり、朝が起きられなかったり、毎日が憂鬱でたまらず
「新学期が始まると”夏休みまであと〇〇日”、と自分に言い聞かせ、毎日指折り数えていた。で夏休みが終わると今度は”冬休みまであと〇〇日”と数え始めていた」
学校だけではありません。家に帰っても日本人のお手伝いさんしかおらず、言葉も通じませんし文化や考え方が異なるので、コミュニケーションに苦労しました。
つまり学校ではロシア語やロシアのあれこれが分からず困惑し、家では日本語や日本の風習など知らないので戸惑う。まだ6歳ぐらいの幼い子どもだというのにです。
「だけども親父もおふくろもそんな自分の苦労や孤独に全く気付かなかった。
というのは外交任務はあまりにも過酷で、俺が起きている時間に両親はほとんど家にいなかったからだ。それによしんば家にいても、それぞれ自室にこもって、何か執筆などに精を出してばかりだった。
よく覚えているのは、深夜や早朝にトイレで目が覚めて起きると、親父の部屋もおふくろの部屋も明かりがついていたことだ。そっとそれぞれの部屋を覗くと、いつだって二人は机に向かって何かに集中していた。
両親は睡眠時間を削り、いくらクタクタになろうが短い時間に集中して、せっせと書き物や勉学に精を出しており、残されたわずかな自由時間は俺より四歳年下の弟をあやすために使っていた。
ある時、俺はロシア語をだいぶん話せるようになり、初めてロシア人の先生に褒められた。
まんざらじゃなかったので、同じように褒めて欲しくて、おふくろの前でもロシア語を口にしたんだ。
すると険しい顔で、淡々とこういわれた。
”ロシア語が上達するのは、あまり関心しないわ。それよりも日本語を覚えて欲しい”」
それ以降、ミロシュ少年は自分で日本語の猛勉強を始めました。尊敬する母親に認められたい、褒めてもらいたい、気に入られたいという一心からです。
「家にいる時はテレビをずっと見続けた。聞き取れた日本語をノートに書き留め、あとでその意味を調べたり、聞き取れた日本語を口を動かし発音しぶつぶつ唱えたり、真剣に日本語の学習を頑張った。
もともと遊ぶ友達もいなくて常に一人で孤独だったので、一に日本語学習、二に日本語学習。必死に頑張った」
そうそう、ミロシュ少年が一番夢中になったテレビ番組は「月光仮面」でした。
余談ですが、後に私が月光仮面を演じた俳優の奥様にお目にかかれた時、
『チェコスロバキア大使御曹司が月光仮面のファンだったそうです』
とお話したら、ニコニコ喜んでくださいました。親の介護など色々ご苦労され、青山でお弁当屋をされていたと思います。
日本に住み始めて二年が経ったある日。
「突然、ミロシュが日本語をすらすら話してびっくりしました。それまで全然話せなかったのに、本当に急に流暢に話し始めました。私は目を丸くしました」
ミロシュ母はそのように語りましたが、実際は「ある日突然」日本語をすらすら口にしだしたわけではなく、前述のようにミロシュ少年はかなり努力をしていたのです。
そう、必死に一人で異文化・異国の言葉(しかもロシア語と日本語)を学ぶことに追われていたのです。
自然に囲まれた環境の中でで駆けずり回る小等学校時代を過ごした両親のように、ミロシュ少年はのびのびと子どもらしく遊んで過ごすことはかないませんでした。
チェコスロバキア帰国、逆カルチャーショック
1961年。一家が来日して丸四年が経ちました。
ミロシュ父は駐日臨時代理大使の任期終了です。彼らはチェコスロバキアに帰国しました。
すると9,10歳になるミロシュは逆カルチャーショックに苦しむことになりました。
「チェコ語の読み書きを一切やってこなかったのと、チェコ語で授業を受けたこともないので全然こっちの学校の授業についていけなかった。
日本では必死にソ連学校、そして日本の日常生活に馴染もうと努力していた。だから、うっかりロシア語や日本語が口に出ちゃったり、つい何かのお礼を言う時や謝るときにぺこぺこしてしまう。すると周囲に怪訝な顔をされ馬鹿にされ笑われた」
ミロシュ少年は混乱し狼狽え、びくびくし始めました。
あれほど努力したことーソ連と日本のそれぞれの言葉や、それぞれの文化を身に着けることを一気に全否定されるのです。どうしていいのか分からない、混乱するばかりです。
だけども尊敬する両親を失望させたくない、それに基本的に真面目な性格だった少年は今度は祖国に同化しようと、こっちの文化に溶け込もうと歯を食いしばり努力をしていきました。
恐らく親も息子がいかに苦労しているか、分かっていなかったのだと思われます。
なぜならそのことをミロシュ母に振っても、きょとん顔をされ
「いいえ、あの子はすんなりとプラハの学校になじんでいましたよ」
と目をぱちぱちして答えるだけだったからです。
東京オリンピックでベラ・チャスラフスカブームが起こる直前に再び来日
チェコスロバキアに戻り三年が経ちました。ミロシュ少年は12歳になっています。ようやくこちらの学校や日常にも慣れ、授業にもまあまあついていけて友達もできました。
ところがです。
1964年、ミロシュ父は今度は正式に駐日大使に任命され、再度東京に駐在することになりました。結局チェコにはたった三年間しか戻らなかったわけです。
「え?また日本に住むの!?いやだいやだ。せっかくこっちに慣れてきたのだし、このままプラハにいたい」
ミロシュ両親は面食らいました。なんでも「はいはい」言うことをきいてきた長男が初めてむきになって反抗したからです。
「ミロシュや、東京オリンピックがもうじき開催されるんだよ。生で世界の平和の祭典を見れるんだよ。それに今度はソ連学校には入らなくていいんだよ」
「えっ?本当に?」
どういうことかというと、ミロシュ両親は本当は息子にソ連の教育を受けさせたくなかった。それに、どこかロシア人っぽい考えもするようになってしまった長男ミロシュのように、特に可愛がっている次男をそのようにさせたくありませんでした。
そこで今回は別の学校に入学願書を出すことにしました。しかしチェコスロバキアの外務省では、外交官の子どもはみんなソ連の学校に入れなければなりません。そのような規定があります。
ではどのように、それを避けたのか。
詳しく教えてくれませんでしたが、多分入学書類偽造か賄賂か何かを思いついたのだと思います。
「今東京に戻ると、わくわくするオリンピックが待っているし、それに前のソ連学校とは違って、楽しい学校にも通えるんだよ。どうする?」
「…じゃあ僕もまた日本について行く…」
こうして、一家は三年ぶりに日本、東京に舞い戻りました。
ミロシュ母は目を丸くしました。
「私たちはたった三年間だけ東京を離れていただけだったのにも関わらず、その短い間に東京はえらく変貌を遂げていることに、驚きました。
前回、私たちは1957年から1961年まで日本に住んでいました。途中一時帰国を何度かしているものの、約四年間プラハを離れていたわけですけれども、その間プラハは何も変わっていません。
ところが東京はどうでしょう。三年間で大きく変わっているのです。これはきっと高度成長期真っ只中であったことと、オリンピックの開催の年だったことがその理由だったに違いありません。
1964年に入った頃の日本人は自分たちを可能な限り、最高の方法で世界にアピールすることに非常に関心を持っており、東京は急激に発展に向かっていました。
ですから東京は以前よりもずっと活気に満ち溢れ、人々は未来へ向かい希望に燃えていました。
また、この年の東京オリンピックは我が国にとって、非常に忘れられないオリンピックとなりました。ベラ・チャスラフスカです」
つづく
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