詩的な者たち――作者意図紹介


『私を食べて』


『私を食べて』

ウマ娘に対して全く無知であった頃「競走馬の擬人化という事は、走れなくなってしまったのなら……」という発想から生まれた作品です。

馬や牛などの家畜が人間と同じような体と理性を持つ世界。
ある日、家畜としての運命に絶望した牛娘が、牧師の目を盗んで牧場から逃げ出します。自身を牛娘だと示す角やタグは、自ら折って、取り外して、人間に紛れるようにして牛娘は、遠くへ遠くへと逃げていきます。
そうしてある雨の日に、牛娘は心優しい一人の人間と出会いました。牛娘が知られているよりも人間的で、食材としての運命から逃れようとする彼女を温かく一人の人として迎えてくれるような人間に。
そうして牛娘はその人に匿われ、一人の少女としての生を歩むかと思いました。
しかし彼女は牛娘。人間の為に、人間の欲に適うように厳選されてきた家畜娘。いつしか彼女はその人に「私を食べて」と望む様になりました。けれど彼女の願いは、その人の「人としての」倫理が許さず、叶えられる事は決してありません。
が、ある日彼女は亡くなってしまいます。彼女をここまで匿ってきた人間は、その倫理観の為に彼女を、最期まで人として扱おうと、人知れない場所で彼女を火葬します。
しかし彼女の死体は、まるで焼き肉の様に美味しそうな匂いを漂わせていて。
そうしてその人間は、最期に彼女の「私を食べて」つまり「私を殺して」という生命が本来持っているであろう本能と相反する願望を叶えたと言うお話でした。

(制作当時は、第一段落の「暖かい彼女」は単純に人より体温が高い程度の意味合いで考えていたのですが、火葬と考えた方がより全体として自然であると思ったので、作者特権として、制作意図をそのように歪めました。正直、食人への抵抗と彼女の願望の対立による情緒の起こり以外に興味はないので、食材娘云々はそういう風に考えていたんだなぁ程度で構いません)


『静かな家の中』

『静かな家の中』

こちらは歌詞調を志向している時期の作品です。他の作品と比べて字数が乱れていますが、リズムとしては整っているつもりです。

その日は、同棲する「君」へプロポーズをしようとしている日、あるいは結婚記念日で「君」へ感謝を伝えようとしていた日だったのでしょう。
しかし、最悪なことに、「僕」の留守中に「君」と同棲している家に強盗殺人犯が押し入りました。
強盗に刺された痛みで、もしくは「僕」への申し訳なさで涙した跡だけを遺して彼女は死んでしまいます。僕はそんな静かな家に帰ったのですが、最早何もかもが遅いのだと告げる理性の言う事が判っても、情緒としてはその現実が解らない僕なのでした。


『貴方に私の心臓を』

『あなたに私の心臓を』

こちらは全く関係のない楽曲を聞いている際に降ってきたものです。題名の句読点は表記ゆれ。

心臓の病でもうすぐ死にそうであった「僕」ですが、「あなたの為に、死のう」とそんな声が聞こえた気がして病室で目を覚まします。
「貴方に私の心臓を」正しく「僕」の為に「君」が命を投げ打って、その心臓を授けたのです。
「僕」のために「死のう」とした「君」でしたが、最期にはこの言葉の意味が逆転して、彼が彼女の為に「死のう」つまり「彼女の分まで生きよう」と生を決意しましたとさ。

愛ですね。愛です。尊いね。

『生人』

『生人』

工事現場を見かけて、思いついたものです。上にある様なストーリー性のあるものではありません。

工事現場の事故で鉄骨に櫛刺されてしまった様子を描いたものですが、それだけでは無い。これは芸術です。美を讃えた人体による作品です。それはまるで「生花」のような。
本詩は、内面に主観を置いていますが、それはあくまで外的に現れる美を高めるものに過ぎない。 外的にだけで見たら、ややグロい光景だが、内面の描写によってそれを排除して、完全な美を実現している。 

最高傑作ですね。


『    』


『    』

歌詞調を志向し、もともとはもっと長かったのですが、核心部分はここだけだろうと削って生まれたもの。


解釈を定めてしまうのは、本意でないので飽くまで参考程度にご覧ください。また、正直面倒なので、今後あちらにあってこちらに無い作品が生まれる可能性は十分にあり得ます。
ここだけの話。あちらが字数順になっていることは偶然です。


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