僕たちは、いい小説を読めない
一生のうちに、一作だけ小説を書いてみたい。
それには、いい小説をたくさん読む必要がある。
人は、読んだものでできているからだ。
そうはいっても、いい小説を読むのは簡単ではない。
簡単そうなのに。
すぐに読めそうなのに。
いったい、何が障害になっているのだろうか。
出会えない
いい小説についての知識がない。
例えばあなたは、「20世紀最高の小説は何ですか」と聞かれて、まともに答えることができるだろうか。
そう、僕たちは、高校でクイズのような文学史は習ったけれど、小説は読んでいないのだ。
その中で何がいい小説かなんて、そりゃあ分かるわけがない。
読み始められない
文学作品を読み始めるには、選ぶ、買う、ページを開くという3つのステップを踏む必要がある。
意外に、やることが多いのだ。
普段からビジネス書などの本を買う習慣がある日人は、「買う」まではいけるかもしれない。
だが、ビジネス書と違い、文学作品は明確な目的なく読むものだ。
読み始めるには「小説でも読むか」という心の余裕が必要になる。
読み続けられない
いわゆるいい小説は、難しい。
なかなかページが進まない。
慣れないと、同じ個所を何度も読んでしまったりする。
ちょっと油断すると「あれ、何の話だっけ」と戻る羽目になることもある。
最初は苦しいが、ここを耐えれば楽しくなるのだが……
(多くの人は、後に楽しくなるまで待てない)
考え続けられない
当然のことだが、ただ文字面を追えば「読んだ」と言えるわけではない。
「味わう」ことができないと、本当に読めたとは言えない。
味わうのは、読んでいる最中だけではない。
いい小説に当たると、読んでいないときも、読み終わってからも、その小説について考え続けたりするものだ。
僕はカフカの『城』について、かれこれ2年も断続的に考え続けていて、これがなかなか楽しい。
日々大量のノイズを浴び続ける社会を生きる僕たちにとって、「いい小説を読む」のは簡単ではない。
逆に言えば、ノイズを浴びない生活が作れれば、読めるかもしれないということだ。