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成仏日記【6】父の人間性~禁止事項~

 父の独裁政権の元には、いくつか禁止事項があった。今思い出せるのは、漫画とゲーム、アニメ、それから塾だ。

【漫画】

 私は漫画は、絵も描ければストーリーも立てられる人にしか許されない創造物で、芸術だと思っていたので「漫画なんか買うな」と言われた日には驚いた。「馬鹿が読むものだ」云々も言っていた気がする。芸術を理解する心がないのか。日本人として生を受けておきながら、漫画を手にする機会を自ら失いに行くとは、頭がおかしいんじゃないか、と真剣に思ったが、小さな私はただ「はい」と頷いた。

 頷くだけでは終わらない。禁止されるとやってしまいたくなるのは仕方ないことだ。立ち入り禁止なんて、入ってくださいと書いてあるに等しい。図書館に漫画が置いてあることを知っていた私は、そこで借りて読むようになった。あとは、母が漫画好きだったようで、母の実家に漫画が置いてあったので、遊びに行った時は夢中で読んだ。結果、今や数百冊の漫画を手元に置いているのだから、ざまあみろである。

【ゲーム】

 次にゲームだが、これは子どもには死活問題である。同級生の話題はカードゲームとか、DSとか、そういうことだったからだ。放課後に遊ぶ約束をしたら大抵の子はゲーム機を持ってきて対戦だの通信だのしている。集めたカードを披露する。この輪に入れないのは大きかった。今でもゲーム機は扱えないのだが、このときの疎外感は忘れられない。

 そうなってくると、遊ぶ相手は自然と「ゲーム機を持っていない、カードゲームにも興味がない、ただ身体を動かし頭を自由に使って遊びたい」という変人になってくる。この頃から、私はマイノリティーの人間に好かれるようになった。母によると、中学の先生に「クラスで浮いてる子と普通に話していてすごいです」みたいなことを言われたらしい。

 それで思い出したことがある。中3の時、クラスで何を言っても反応しないと敬遠されているYくんと同じ班になった。同じ班になると、机を向かい合わせにして給食を食べる必要がある。私は食べるのが遅かったのにも関わらず、なんとかこいつの感情を動かしてやろうと班を巻き込んでしゃべりまくっていた。その頃の私に何がそこまでさせたのか思い当たることがないし、Yくんを好きだったわけではないのだが、当時のことは当時の私にしかわからない。

 そしてある日、試行錯誤の末にYくんが笑ったのだ。「あいつが笑ったぞ」「うそだろ」とどよめきが広がった。私は何を言ったのか全く覚えていないのだが、Yくんが笑ったのが嬉しかった。Yくんは卒業後のクラス会にも出席した。ちなみにそのクラス会は全く楽しくなかった。

 なぜゲームが禁止されていたのか理解は出来ないが、末っ子がそういった年になる頃には父を黙らせ機械を買えるほどの地位を築けたので、それは自分を褒めたいところだ。幼少期の自分がしてきた思いを、妹たちには味わわせたくない、というのが長らくの私の人生の指針であった。
 ゲームが禁止されたことによって奪われたものもあるのだろうが、それが些細なことだと思えるくらいには、私の人格形成に影響したと言える。

【アニメ】

 アニメもなぜか禁止で、ドラえもんの後のクレヨンしんちゃんは「下品だから見るな」と即電源を切られた。見ることが許されていたアニメはNHKで放送しているアニメと、「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」「サザエさん」「コナン」「ブラックジャック」だけである。

 父がまだ家に居た頃は、これ以外のアニメを見ている途中で父が帰ってくると、急いでチャンネルを変えたものだ。これでは冷戦時代にポーランド語を禁止されたポーランド人と変わらない。

 だが、ここでも「毒」が解毒されたことがある。それは、NHKのアニメが許されていたことに端を発する。NHKにはいろいろと論点があるが、教育番組にはずいぶんお世話になった。小学校6年生の時、その中で「獣の奏者エリン」というアニメを放送していて、親友に勧められたので観ることにした。これが私の人生の転換点となった。

 このアニメに大きな影響を受けた私は、元々本好きだったこともあり、原作を図書室で借りてみた。案の定、どハマりした。私の価値観の根底を築いたこの作者は、国際アンデルセン賞も受賞した上橋菜穂子先生である。上橋作品を読みあさった。ファンレターも書いた。初恋は上橋作品が好きな男の子だった。後にサイン会にも行った。

 本にハマるあまり、私は上橋先生のことを崇拝するようになり、彼女が文化人類学者であることを知ると、将来は絶対に大学に行って世界のいろんな在り方を学ぶんだ、と誓うまでになった。ちなみに、大学の基礎ゼミ(1,2年生が所属し、レポートの書き方やプレゼンの仕方など基本的なことを身に付けるゼミ)では、文化人類学者の講師のゼミに所属できた。
 ほらみろ、父め。毒を吐けば吐くほど、私は糧を得ていくのだ。

【塾】

 塾が禁止されていたのは痛手だった。中学生にもなれば周りの子は大抵行っているし、塾の話題もあがる。定期テストの対策も熟練の講師にしてもらえるし、情報も貰える。羨ましくて仕方なかった。一度だけ受験生になったら塾に通いたいと申し出たことがあるが「学校の授業で教わることを、なんでわざわざ金を払って塾でも習わないといけないのだ。わからないことは先生に聞け」と言われた。

 交渉するだけ時間の無駄だと思った私は、自分に一番合った勉強方法を研究するようになった。この時、先生の中に自己管理をしっかりし勉強することを身に付けさせようと活動していた先生がいたいたことも、大きく影響した。
 
 今でこそ流行っているが「スタディープラン」を作成し、達成度や改善点を適宜確認し、テスト勉強に挑むものである。私はきっちり計画を立てることが好きで、それがあると安心するタイプだったので、この方法にのめり込み、成績を気にせず様々な方法を試した。暗記の方法、勉強する場所、文字の色、ノートの取り方、とにかく色々試した。塾に通う同級生より点を取りたかった。おかげで私の成績は安定しなかった。毎回違う勉強法をしているのだから当たり前である。毎回同じなのはこれ以上悪くなりようがない数学だけで、学年の教員室でも安定しないけど頑張ってる子として話題になったらしい。

 なんだかんだで塾に行くことなく高校と大学に進学できたおかげで、妹たちも塾に通えなくなってしまった。

 改めて考えてみると、3人も子どもが居るにせよ教育費をケチるとは酷い父親である。父は比較的余裕のある家庭に生まれたし、職業的にも安定していたのだが、自分のものは驚くほど高いものを買ってくるのに、なぜかケチなところは徹底的にケチな守銭奴的要素があった。おかげで私も節約体質である。万歳割引商品。

 当たり前だが、子どもは作らないと出来ない。人数に限らず、子どもを作るならそれなりの出費というか犠牲は見込むべきだ。よく、子沢山で生活を切り詰め、親との時間もろくに取れないような大家族が特集されているが、なんとなく卑屈さが作動して見ることが出来ないでいる。

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