20030316 一神教と多神教
日本人が自然科学を極めるのが下手なのは仕方がないのかも知れない。だから人口の割にはノーベル賞の受賞人数が少ない$${^{*1}}$$。
デカルトの方法序説$${^{*2}}$$だったか、「自然に拷問をかけて真理を白状させる」という発想が西洋にはある。これは何か「自然」という物は創造主が作った物で、その創造主は自然を超越した場所に自然とは独立して存在していると考えているからではないだろうか。そもそも自然を作った創造主が自然と渾然一体となっていると考えるのは無理がある。創造主が頂点に位置しており、その下に自然が存在すると普通は考えるだろう。だから「自然に対して拷問」という発想が出てくる。
これが自然科学を極めることの出来る考え方だ。研究対象である「自然」に対して徹底的に調べ上げる。人間が作り上げた理論と自然とが食い違っていないか、食い違っているのならそれは何故か、虱潰しに調べ、考え抜くのである。
創造主の存在は、存在すること自体が真理であると初めから決まっている。しかし自然自体は創造主が作った物だから何か必ず道理があるはずだ。人間も含めて自然は全て作られた物だから、森羅万象それぞれが相互的な関係を持ち得る。だから人間に理解できない事象は自然にはないと考えたくなる。ただ、その全てを理解するには自然は膨大すぎて人間が何千年何万年かけていくら頑張ってもなかなか出来ない$${^{*3}}$$。
日本人の自然観$${^{*4}}$$はどうであろう。自然は最初から存在しているのではないのだろうか。誰かが作ったというのではなく、最初からあるという感覚である。そして自然の中には様々な事象を起こす神が至る所に存在する。起重機の斜線にも在る$${^{*5}}$$。神と自然とは渾然一体となっているのである。
だから自然を拷問にかけることは出来ない。ある程度探求するとその事象に宿る神の所為にしてしまって考え抜くことが出来なくなるのではないだろうか。日本人は途中で「何故だか解らないが、そうなる」と思ってしまい、それで納得してしまうのかもしれない。
一方、自然に潜む多くの神の存在を理解しているので、これらと上手く付き合える。だから日本人は物を作るのが非常に上手いのだろう。
*1 経済・社会データランキング OECD:ノーベル賞の受賞者数[1901-2002年] 国別・分野別のノーベル賞の受賞者数-受賞者数10人以上の国(1901年~2016年)
*2 20010807 句読点付き題名
*3 Unit 6: ``The Great Ocean of Truth''
*4 近代出版ホームページ
*5 北原白秋記念館 神は在る、鉄塔の碍子に在る。神は在る、起重機の斜線に在る。