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漫画名言の哲学20 - 超ベジータは超人なのか

私は『ドラゴンボール』という作品で、いつもベジータの側に感情移入してしまう。それは彼が常に「超えたい」という欲望に囚われ続ける存在だからだ。
カカロットを超えたい。限界を超えたい。そして、自分自身を超えたい―。
その絶え間ない欲求は、時に滑稽で、時に痛々しく、しかし確かに人間の本質を映し出している。


超人の自己宣言

「違うな、オレは超ベジータだ」

この言葉は、単なる強さの表明ではない。人造人間17号を吸収したセルを圧倒する場面で放たれたこの言葉には、より深い意味が込められている。それは自己超克の宣言であり、同時に新たな存在への跳躍を表明する瞬間でもあった。


超人という幻想

このテーマを語るのには、この人しかいないだろう。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で超人を説いた。しかし興味深いことに、この「超ベジータ」という状態には、ニーチェの超人概念とは異なる皮肉が込められている。

ニーチェの超人が「人間的なものの超克」を意味するのに対し、ベジータの「超」は、まだあまりにも人間的な、あまりにも執着に満ちたものだ。筋肉を膨らませ、外見的な力を誇示するその姿は、むしろ超人以前の、人間的な欲望の表れとも言える。

そして皮肉なことに、この「超ベジータ」は完全体セルの前であっけなく敗北する。これは単なる強さの差ではない。「超える」ということへの執着が、かえって本質的な超克を妨げてしまうという逆説を示している。


現代への示唆:見せかけの超克

興味深いことに、この「超ベジータ」の姿は、現代社会における「超える」ことへの執着を象徴しているようにも見える。SNSでの「いいね」数を競い、筋肉を誇示し、数値化できる「強さ」にこだわる私たちの姿。それはまるで、過剰に筋肉を膨らませた超ベジータのようではないか。

見た目の変化は、必ずしも本質的な超克を意味しない。むしろ、その執着が本当の成長を妨げることすらある。ベジータは後に、この過剰な形態を捨て、より洗練された超サイヤ人2への道を見出す。それは「超える」ことへの執着を超えることで、初めて可能になった境地だった。


超えることを超える:ベジータの真の成長

物語の後半、ベジータは面白い変化を遂げる。カカロットを超えることへの執着は残りつつも、それが人格の全てを支配することはなくなる。「超ベジータ」という一時的な姿は、むしろ彼の成長過程における通過点だったのだ。

ニーチェの言う真の超人とは、おそらくこちらに近い。「超えること」自体への執着を超え、より本質的な自己実現を果たすこと。それは必ずしも筋肉の膨張や、見た目の変化を必要としない。


永遠に超え続けること

「オレは超ベジータだ」

この言葉は、ある意味で彼の限界を示す宣言でもあった。しかし、その限界に直面し、それを認識したからこそ、ベジータは真の意味で「超える」ことの本質を理解していく。

現代を生きる私たちも、同じ課題に直面しているのではないか。見た目の変化や数値の上昇に執着するのではなく、本質的な成長とは何かを問い直すこと。そして、「超えること」への執着すら超えていくこと。

皮肉なことに、「超ベジータ」という一時的な姿が教えてくれたのは、真の超克とは、そうした可視的な「超越」とは全く異なる場所にあるということだったのだ。

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