カールマルクスが渋谷に転生した件 12 マルクス、存在しなかった(前半)
マルクス、無国籍だった
「ここが東京出入国在留管理局か」
マルクスが品川駅前の巨大な建物を見上げる。
「区役所で紹介されて」木下が説明する。「まずはここで在留資格の相談を...」
「待て」マルクスが立ち止まる。「この建物の威圧的な佇まい...まるでプロイセンの官庁のようだ」
「まあ」さくらが苦笑。「確かに雰囲気ありますよね」
受付を済ませ、相談窓口に通される一行。
「では、あなたの国籍は?」
入国管理局の職員が、机の上の書類から目を上げる。
「これは、少し複雑な話でな...」マルクスがため息をつく。
「1818年、当時のプロイセン王国で生まれた私は、1845年に国籍を離脱し、以来、無国籍者として...」
「えっと」職員が困惑した表情で。「1818年...ですか?」
「ああ」マルクスが髭をひねりながら。「そして1883年にロンドンで死亡し、謎の力で現代日本に...」
「あの!」木下が慌てて割り込む。「実は歴史的な記録があるんです」
スマホでWikipediaを見せながら、「1845年のプロイセン国籍離脱は、れっきとした事実として...」
「はい」職員が戸惑いながらも画面を覗き込む。「確かにその記録は歴史的事実とは思いますが…公的文書もここにはないですし、そもそも、あなたの主張される時空を超えたという...」
「つまり」マルクスが机に身を乗り出す。「私は二重の意味で体制の管理を超えた存在なのだ。時空的にも、国家的にも...!」
「マルクスさん」さくらが肩を抑える。「声が大きいです」
周囲の来庁者たちが、チラチラと好奇な視線を送っている。
「本来、無国籍者の受け入れには」職員が説明を始める。「かつての国籍や、無国籍となった経緯の説明が...」
「やはり!」マルクスが突然立ち上がる。「これこそ現代官僚制の本質ではないか!」
「また来た」ケンジがため息。
「19世紀の国民国家形成期に、私は国籍という概念そのものを超越した。そして今、21世紀の官僚制は、その超越者としての私を『無国籍』という枠組みに押し込めようとする!」
「はい」さくらが水の入ったペットボトルを差し出す。「まず、落ち着いて」
「ところで」職員が小声で。「Das Kapital TVの...その、収入証明は...」
「収入証明については」木下がスマートフォンを操作しながら。「YouTubeも含めた収益明細と、関連する収入の資料を...」
「おお」職員が目を見開く。「これだけの視聴者数と収入...」
「見たまえ」マルクスが得意げになる。「これこそ、人民の声なのだ!もちろん社会的に還元しておる!」
「はい」職員が咳払い。「ですが、在留資格申請には、もう少し具体的な...」
「具体的?」マルクスの声が上がる。「100万人を超える視聴者が、現代の搾取システムについて学び、議論し、そして...」
「いや」職員が慌てて。「その社会的影響力は理解しましたが、まずは基本的な身分関係を...」
「身分関係!」マルクスが再び立ち上がりかける。「またしても封建的な...」
「座ってください」さくらが制する。「あの、確認ですが。無国籍の方の在留資格申請って、具体的にはどういう...」
「はい」職員が落ち着きを取り戻す。「まず、無国籍であることの確認のため、関係各国の大使館に...」
「なに!?」マルクスの髭が震える。「プロイセンは既に存在せず、ドイツは統一され...」
「そうですね」職員が意外にも頷く。「その歴史的経緯も含めて、ドイツ大使館に照会して...」
「待て」マルクスが急に冷静になる。「つまり、私の無国籍性を証明するため、現代のドイツに、かつてのプロイセンでの私の国籍離脱を確認すると?」
木下がまとめる。「要するに、ドイツ大使館にプロイセン時代の記録がまだあるか、聞く必要があってことですね」
「なんと面倒な!」マルクスが机を叩く。「この官僚制的手続きこそが、国家という虚構の...」
「はいはい」さくらが遮る。「その話は、Das Kapital TV新企画『無国籍マルクス、官僚制を語る』で」
「おお」マルクスの目が輝く。「確かに。この経験こそ、現代の...」
「あの」職員が遠慮がちに。「その番組、私も見てるんですけど...」
一同、驚いて職員を見つめる。
「特に、資本主義における労働疎外の回が...」職員が少し興奮気味に。「大きな声では言えませんが、残業続きの私には、とても響いて...」
「同志!」マルクスが今度こそ完全に立ち上がる。「これぞまさに、体制内部からの...」
「すみません」隣の窓口の職員が声をかけてくる。「少し、お静かに...」
「ほら」さくらが諦めたように。「とりあえず、必要書類のリストをいただけますか?」
「では、まずドイツ大使館に...」
職員がリストを手渡す。
「待て」マルクスが不安そうに髭をいじる。「ドイツ大使館で、『私はカール・マルクスです』と言ったところで...」
「あ」木下が心配になる。「確かに...無国籍なのでパスポートもなにもありませんよね…」
「本人確認ができませんね」職員も頭を抱える。「かといって、150年前に亡くなっているはずのマルクスさんの国籍離脱証明を求めるのも...」
「手続き上は」さくらが提案する。「まず、ドイツ大使館に1845年のプロイセンでの国籍離脱記録について...」
「おお!」マルクスの目が輝く。「歴史的事実の確認という形で!」
マルクス、久しぶりのドイツ語
数日後、麻布のドイツ大使館にて。
「すみません」領事部の職員が困惑した表情で。「もう一度確認させていただきますが...」
「はい」木下とさくらが説明を繰り返す。「1845年、プロイセン王国での国籍離脱に関する記録について...」
「それは分かりました。歴史的事実として、カール・マルクスの国籍離脱は記録にあるはずですが...」職員が言葉を切る。「ですが、なぜ今それを?卒業論文か何かのためでしょうか?」
「その」さくらが曖昧に。「在留資格申請のために...」
「在留資格?マルクスとなんの関係が?」職員の目が点になる。
その時、マルクスが一歩前に出る。「Ich bin tatsächlich Karl Marx!」
静寂が訪れる。
職員が重い口を開く。「ええと…わざわざドイツ語でありがとうございます。」
職員がさくら達を見て続ける。
「ですが、皆さんいらっしゃいますし、よろしければ日本語でも…」
マルクスは日本語に戻す。「うむ、私は語学が堪能だからな。ドイツ語、英語、フランス語に加えて今では日本語まで…」
職員がマルクスの言葉を遮る。「ところでこれは…何かのアートパフォーマンスなどでしょうか?」
「違う!」マルクスが叫ぶ。「私は本物だ!ドイツ人であれば私のことはギムナジウムで習うだろう!」
「ああ...」職員が画面を見つめたまま。「確かによく似てらっしゃいますが...」
「似ているのではない。私が本物なのだ!」
「マルクスさん」ケンジが制する。「声が...」
「しかし!」マルクスは止まらない。「こうして私は、二重の意味でシステムの矛盾に直面している!一つは時空を超えた存在として、もう一つは無国籍者として!」
職員は深いため息をつく。
「分かりました。歴史的記録の確認という形で、できる限りの...」
「おお!」
「ただし」職員が付け加える。「あなたが本当にマルクスご本人だとは、公式には...」
「なに!?」
「はいはい」さくらが慌てて制止する。「それで十分です。ありがとうございます」
大使館を後にする一行。
「結局」マルクスが不満げに呟く。「私の存在そのものが、現代の官僚制には理解不能というわけか」
「でも」ケンジが笑う。「これ、めっちゃ面白い企画になりませんか?」
「確かに」さくらが頷く。「『無国籍マルクス、世界を行く』...各国大使館を巡って...」
「待て」マルクスが立ち止まる。「私の苦難を、また娯楽コンテンツに...」
「いいじゃないですか」木下も笑う。「現代の官僚制の矛盾を暴く、実践的批判として」
「ふむ」マルクスの髭が誇らしげに動く。「それは、理論的には興味深い...」
「はい」さくらがスマホを開く。「じゃあ、次はイギリス大使館ですね」
続く