カールマルクスが渋谷に転生した件 17 マルクス、「少子化問題」を憂いる(後半)
マルクス、話し合う
「では」マルクスが講壇に立つ。「まず根本的な問いから始めよう。なぜ少子化は『問題』なのか?」
環境経済学研究会は予想以上の参加者で、教室は満員だった。現役の研究者から大学院生、さらには子育て中の母親まで、実に多様な顔ぶれが集まっている。
「税収が減る!」
「年金が不安」
「経済が縮小する」
次々と声が上がる。
「ふむ」マルクスが髭をひねる。「つまり、人口減少は資本主義システムの危機だと。しかし、メリットもある」
マルクスがホワイトボードに書き出す。
『人口減少のメリット
・一人当たりの居住スペース増加
・環境負荷の低下
・労働力の希少化→賃金上昇の可能性
・教育機会の充実』
「え…?」会場がざわつく。
「そう」マルクスが声を上げる。「少子化そのものが問題なのではない。問題は、永続的な人口増加を前提とした資本主義システムの方ではないのか!」
「マルクスさんの指摘は興味深いですが」
手を挙げたのは、子育て中という30代の女性研究者。
「でも現実には、保育所は足りないし、研究時間は削られるし。少子化なのに、なぜか子育ては更に困難になっているんです」
「ああ」別の若手研究者が続く。「任期付きの身分じゃ、子供なんて考えられない。でも『産めよ増やせよ』って、上からは言われる」
「まさにそこだ!」マルクスの髭が震える。「諸君らは二重に搾取されているのだ。一つは研究者としての知的労働において。もう一つは『人口の再生産』という名目で」
「データを見てみましょう」西野准教授が資料を示す。
「この10年で、若手研究者の任期付きポストの割合は増加傾向に。基盤研究費も実質的に目減りしています。一方で、研究に必要な機器のコストや、論文掲載料は年々上昇」
「なるほど」マルクスが資料に目を通す。「知の生産コストは上がる一方で、若手研究者の生活基盤は不安定化している...」
「そして」西野が続ける。「都市部の家賃は上昇し、保育費用も...」
「家賃の上昇といえば」西野が資料をめくる。「渋谷区の平均家賃は、この5年でも20%以上上昇していて...」
「待て」マルクスの髭がピクリと動く。「この不動産価格の高騰、まさに『地代』の問題ではないか。19世紀のロンドンでも同じ構造があった。土地という再生産不可能な商品が、いかに労働者から搾取の...」
「マルクスさん」さくらが制する。「地代論は置いておいて...」
「すまない」マルクスが咳払い。「つまり、研究者の劣悪な待遇に加え、都市の家賃高騰が、若者たちの生活設計を更に圧迫している」
「そうなんです」別の若手研究者が発言。「任期が2年とか3年の職場を転々としてるけど、引っ越し代がかさむし、子供の保育園も その度に変わることになる。結婚したくても...」
「現代の資本主義は」マルクスが静かに、しかし力強く語り始める。「知の生産者から、生きる場所すら奪おうというのか」
「でも」会場から声が上がる。「少子化って、このままじゃ社会が維持できないんじゃ...」
「それこそが最大の欺瞞だ!」マルクスの声が響く。「なぜ社会の維持を、個人の再生産への圧力で解決しようとする?我々は別の道筋を示さねばならない」
「別の道筋とは?」
西野准教授が意図的にマルクスに振る。
「考えてみたまえ」マルクスがホワイトボードに向かう。「なぜ少子化が『問題』とされるのか。年金制度の維持?労働力の確保?」
「経済成長のため!」会場から声が上がる。
「まさに」マルクスの髭が震える。「永続的な経済成長を前提とした資本主義システムが、永続的な人口増加を要求する。しかし、この地球の資源は有限だ」
「でも」フロアから研究者が手を挙げる。「人口が減ると、消費も減って、経済も縮小して...」
「待て」マルクスが声を上げる。「我々は『縮小』を『衰退』と見なすのをやめねばならない。そもそも、誰にとっての『問題』なのかを考えてみたまえ」
「資本家たちにとって何が問題なのか?消費市場が縮小し、利潤が減少する。これが彼らの本音だ」
マルクスが指を折りながら続ける。
「国家にとっては何が問題か?社会保険料を支払う若年労働者が減少し、年金や医療のシステムが揺らぐ」
「そして」髭が皮肉げに震える。「政治家たちにとっての問題とは?日本の国際的影響力が低下し、世界での発言力が弱まることへの、プライドと焦りではないか」
「つまり」マルクスの声が力強くなる。「これは本当の意味での『人口問題』ではない。資本の利潤の問題であり、システムの持続性の問題であり、さらには権力者のプライドの問題なのだ!」
「確かに」西野准教授が補足する。「だから解決策も、全て上からの『産めよ増やせよ』という圧力に...」
「そして最も見逃せないのは」マルクスの髭が怒りに震える。「このような『危機』を煽ることで、若者たちの不安すら、新たな市場創出の機会として利用されている点だ。結婚相談所、マッチングアプリ、不妊治療ビジネス、育児関連商品...」
会場がざわつき始める。
「あの」子育て中の女性研究者が遮る。「理論は分かります。でも、目の前の保育園探しや、任期付きポストの問題は...」
マルクスの表情が変わる。
「すまない」声のトーンを落として。「君の言う通りだ。まずは具体的な要求から始めよう」
西野が頷きながら。
「例えば、大学における保育施設の整備とか、研究者の産休・育休制度の充実とか」
「そう」マルクスが熱を帯びる。「しかしそれは単なる『対症療法』であってはならない。我々は新しいヴィジョンを...」
「新しいヴィジョンとは」マルクスが静かに、しかし力強く語り始める。「人口を単なる数値として扱うのではなく、一人一人の人間の発達可能性として捉え直すことだ」
「具体的には?」西野が促す。
「第一に、知の生産を守ること」マルクスが指を折る。「研究者の生活保障は、人類の未来への投資だ」
「第二に」さらに続ける。「子育てを個人の責任とせず、社会全体で支える仕組みを」
「第三に」髭が誇らしげに震える。「そして最も重要なことは...」
その時、会場の後ろのドアが開く。
「すみません、遅くなりました」
ベビーカーを押した若い夫婦が入ってくる。研究者らしい。
会場がざわつく中、赤ん坊が小さな声を上げる。
「ほら」マルクスが優しく微笑む。「これこそが我々の語るべき未来ではないか。知を探究する者が、安心して家族を持てる社会。子供を産むことも、産まないことも、個人の自由な選択として」
夕暮れの教室に、まだまだ議論は続いていく。窓の外では、渋谷の街に、少しずつ明かりが灯り始めていた。
続く