真理の考察シリーズNO1
存在の秘密
存在は、完成しているが、完全ではありません。
本当は「ない」がもしあり得たなら、と言いたいのですが、「ない」は、あり得ることはなく、「存在」によって、否定されていて、仮定する事も、言葉がないのですが、真、もしくは世界が「ない」だったら、その意味通り、「ない」そのもので、完璧だったのです。
我々は、「ある」とか「ない」と言う言葉を使いますが、真の意味では「ない」は、ないのです。
なぜなら、もし、ないが存在するなら、存在するのですから、存在であり、「ない」ではありません。
それでは、我々が、普段、口にする、「ない」とは何かと言いますと、全てがある状態の事を「ない」と呼んでいるのです。
たとえば、光は透明ですが、分れることによって、色ができます。あるいは、白紙の紙には、何もある様には見えませんが、ここには、全ての形が眠っています。線を引き、識別される事によって、識別が生じ、認識可能な状態となり、「ある」と呼ばれる存在になるのです。実のところ、無に点は存在できません。それは、無と領域を持たない点が区別出来ない為です。領域を得る為には、線を閉じなければなりません。そうして初めて認識出来る点として存在出来るのです。これが、無から生じた点の素子の正体であり、この点の移動の軌跡が線であり、ここで、又、この線が閉じて面を生じる。この面が閉じて立体を形成する。つまり、識別が生じる為には、閉じて、外と内を分ける事によって、区別である、識をつくり、そうすることで、存在が、存在する存在、つまり、「ある」と言う存在になる。これを言い換えれば、無と言う無限に、有限の領域を作ることによって、存在は、存在する存在となり得ると言うことである。本当には全てが存在であり、存在しかなく、「ない」はどこにも、存在しないのである。そして、存在は、意味するところが、「ある」と言う意味であるにも関わらず、全てが存在する状態を「ない」と認識させる事によって、初めて、その意味を表現すると言う、実にコッケイな世界であり、真であるのである。あり得ない「ない」と言う架空の概念により、その意味を成す不完全な真であり、世界であるのだ!
それだけではない。まず、何の為にあるのかである。
「ある」が故に、疑問や矛盾が生じ、苦しみや不幸が生じ、幸福、喜びを必要とし、求めなければならない。
もし、なければ、幸福を必要とする何も誰も、自己すらなく、時さえもなかった。その意味でも「ない」と言う真は完璧であると言えるのだが、残念な事に、真は存在であり、全てが無に帰し、なくなる事があっても、その「ない」は全てがある状態であるだけであり、その本質は、存在であり、状態である為、その状態にあるものと、時が存在する。ここで言う時とは、物理的時間の意味ではなく、変化と言う意味での時であり、宇宙がゆらぎによって生じたと言われるに似ていて、無には、時が流れており、時が満ちれば、再び有へと変化するのである。
実は、存在そのものは、そういった意味で完全ではないが、完成はしている。その根拠と意味について、次章「無限と言う時を考えると」で述べたい。
「無限と言う時を考えると」
宇宙が有限であるのは、物理的存在である為であり、存在自体は無限である。無限を真に理解するのは、実質的には不可能であるが、私は、無限とは、必要に応じて無限に広がる。又は、続くものであると言う考えである。
そして、無限と言う時を考察すれば、未来に無限であるのと同様に、過去に向けても無限である。
確かに、物事には、始まりと終わりがあり、この宇宙が無限でない様に、全ては有限ではあるが、存在そのものは、無限であり、又、存在そのものは、時の支配の上にあり、不変であり、一向に変わっていないのである。
存在とは、「ある」と言う真理であり、真理そのものの意味を持ち合わす言葉である。そして、不変なるものは、時の支配下になく不変であり、変わるものが変わっているのであって、変わるものとは、時の支配下に存在するものである。
これについては、別の機会に述べるとして、我々の魂(意識の所有者)も、始まりと終わりを持つが、魂(意識の所有者)も又、無限の存在である。それは、意識を所有している事を知っているのは、実は、本人だけであり、いわゆる、機械的に、プログラムとして動いているのか、知覚を持つのかを知るのは、本人だけであるからである。たとえば、ゴミ箱に意識があるとは、誰も考えないし、信じない。しかし、そのゴミ箱自体は、心を持ち様々に感じ思いを持っていないとは、断言出来ないのである。なぜなら、当のゴミ箱自身でないからである。しかし、我々は、意識の所有者である事を自覚しており、又、他人も認めている。何が言いたいかと言うと、この意識の所有者である魂は、無に帰しても、存在であった事実は変わらず、つまり、永遠無限に存在であるのであり、時が満ちれば、再び意識を得ると言う真実である。
確かに脳の機能により、意識を所有しているが、経験をしているのは、自己であり、脳が経験しているなら、脳の経験であって、自己の経験にはならない。脳はこの世を我々に経験させる道具であり、情報を我々に伝えているに過ぎず、知覚している実体こそが自己の正体である。
話をテーマに戻すと、この知覚者である魂は、無に帰す事があっても、無限に生き続け、無限の過去を持つと言うことである。
存在は無限を所有しており、魂は無限に生き続けるが、魂の領分を超えず最終的には、有限に留まる。なぜなら、無限に成長し続けたところで、その成長には意味がないからである。つまり、存在は、あらゆる存在の領分を元々完成させており、と言うより、完成していて、全ての必要を満たしており、その意味で、最初から完成しており、不変にして不変であるのである。我々の魂は、無限に近い恒久永遠の多様な循環の中で生きており、成長過程にある魂というのは、無限の果てとも言える時の循環の中を、自己の必要に応じて、成長過程にある状態を選んでそうなっているだけに過ぎず、無限の過去の内に既に経験しているのだが、無限と呼べる程、過去の果てに経験したことであり、その過程においては、無も経験しており、ある意味では、最も新しい経験であるのである。
私は、何と遅れた時代に生きているのかと思う事が度々あるが、経験と言う意味では新しい今であり、経験でもある。
デジャヴ(既視感)と言う経験を度々受け、同じ人生を何度も繰り返す循環の中にいると思われる方もおいでだろうが、おそらく、自己の何らかの必要によって、その状態にあるだけで、私も、同じ時代を何度も生きている感を受けるが、同じ循環を無限に繰り返しているのではなく、たとえば、何らかの必要により、同じ人生を記憶する為に、繰り返しているのかも知れないし、真の自己に帰還してその訳を思い出すと思われる。
とにかく、無限と言う視点で考察した場合、それぞれの、存在には、必要性に現界があり、それらを充分に満たす世界は元々先に完成されていて、存在そのものは、無限の内にそれらを元々持ち合わせており、完成していたと考えられる。そして、存在自身は、時の上にあり、不変であり、時の支配下にあるものが、無限の多様性の中に循環しており、ある意味楽しんでいるのであるが、それなら、なぜ、残酷極まりない出来事や、歴史が存在するのかと言う疑問にぶち当たる。
これは、あくまで、私の考えに過ぎないが、確かに耐えがたい苦痛や苦労、苦難も存在するが、それらに遭遇する魂は、経験、学習する為に、遭遇しており、たとえば、度を超えた苦痛は、気絶、死亡によって、救われており、又、望まぬ苦痛を味わうのは、本当の自己の正体が、経験としてそれを望んだか、因縁報応に従って学習させられているのであり、もし、存在するより存在しない方が良ければ、存在しなかったはずであり、その為に無と言う存在があるのである。
存在そのものの持つ、命と言う神
存在を存在として意味たらしめているのは、存在の中にある命と言う働きである。なぜなら、只あるだけなら、そんざいを感知するなにもなく、あってないに等しく、機能、意味、を有しない故である。
この命と言う物は、働きと言う意味においては、時を有するが、これも又存在同様に時の上に存在している元々完成された物であり、その命が持つ働きは、存在の中にあって完全なものであり、全ての存在を幸福に定めている機能である。
もちろん、我々は不幸や悲劇と言う物を知っており、苦しみも知っているので、反論が出るのは当然と思われるが、それは、我々が、近視眼的に、そう感じているだけであり、真の不幸と言う物は、存在していないのである。もちろん、現実に、不幸、惨劇、苦痛、苦悩、悲劇は、無数に存在している。しかしそれらの経験は、様々な意味から、良き勉強、良き体験、感動のドラマ、なつかしき思い出と変わり、その人生の意図について、理解するのである。
そして、この命と言う働きは、本当の意味で、誰もが納得する、パーソナルと言う次元を超えた真の神と呼ぶに相応しい。
我々は、神、神々が、パーソナルであるが故に反発したくなり、反論したくなり、いる、とか、いない、とか、議論の対象にするが、たとえば、宇宙の広大さや、神秘性、生物の構造、あるいは、分子、粒子、素粒子、に至るまで、構造と法則性が機能し、この複雑極まりなく、精緻で緻密なこの世の仕組みに対し、本当は、不可思議性や、神秘性を感じ、それに対し、敬意の念や、感動を感じても良いはずであり、そこに、神と呼ばざる終えない不思議と神秘を持って当然と思えるのであるが、なぜかしら人間は、それが、そうなら当然だと、思いこみ、当たり前の様に思っているのが普通の人だ。この世界は、非常に高度な構造を持つ世界であり、たとえば、石が、何故こうも頑なに、硬く存在出来るのかを考えるだけでも、ここが、非常に、創造的に発達した世界である事を知れるはずであるのだ。なぜなら、あなたは、頭で思い描く世界の中で、こうも具体的で、頑なに存在する世界を所有出来るであろうか?
又、コンピューターが出来た当時、二足歩行させる為には、スーパーコンピューターを野球場何個か分の広さが必要だと言われていた。スポーツ選手等のファインプレーを実行させる為には、本来、非常な研究とデータが必要であり、物質である人間と言う肉を創造するには、実際には、非常にすぐれた、知能と、無からこれ程、具体的かつ頑なな世界を構築する力、エネルギーが必要なのである。
これらを考えあわせると、これらを発動させる力と精神と知能を持つ完成者としての神的存在が元々存在していたと考えざる終えないが、我々は、それが、パーソナルであるが故、認めたくなくなるのか、とにかく、このパーソナルな存在は、存在のもつ命と言う働きによりて、存在しているものであり、我々、個々の存在は、元々、その存在そのものの命から生じたものであり、それ故にパーソナルな神との関係性に疑問を持ち、自己と別物と考えるが故、反論、反発がでるが、元々の自己の正体であると言う理解に立ち、やがては、そのふところに帰るのだと、理解すれば、大きな視点から、それらのパーソナルな神についても、理解出来るのではないかと、私は、考えているが、どうしても、パーソナルな神を受け入れられないとしても、存在そのものの命と言う働きと言うパーソナルを超えた命の根源をもって、神とするなら、異論はないと、考えるのであるが、いかがであろうか?
私の考えによると、本来あなたの前に広がる世界は、あなたの世界であって、あなたが、蒔いた種をあなたが刈り取っているのであって、別人は存在しないのだと考えている。
なぜなら、あなたが存在しなければ、あなたの前に世界は存在しないからである。
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