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【育児と禅語】無分別|子育て中に響いた言葉

子育て中に響いた「禅語」を備忘録としてnoteに綴ってみようと思う。

「分別のある人間になりなさい」と一般的によく言われるが、その「分別(ふんべつ)」とは何だろうか。
デジタル大辞泉によれば、分別とは「道理をわきまえていること、物事の善悪や損得についてよく考えること」を表すというが、禅の世界では「諸々の事理を思量し、識別する心の働き」をいうらしい。似ているようで違うような。

禅語の無分別(むふんべつ)

禅の世界では、そのもの自体に目を向けることが大切で、善悪、大小、優劣、長短などの比較によって生まれた価値を良しとしない。
他者との比較によって生まれる満足は、常に自分自身を他者との差でしか見ておらず、本当の意味での満足ではない。
誰とも比較することなく、ありのままの自分自身を見つめること、何かと比較することなく、ありのままに物事を受け止めること、そういった見方を良しとするのが、禅の世界の「無分別(むふんべつ)」だという。

誰が善くて誰が悪いかなんて誰が言えるのさ?

私自身、仏教に関しては無知なのだが、書籍などで禅語に触れると「子育てに戸惑いを感じたとき、こんなふうに考えると良いのかも」と思うことが少なくない。
スヌーピーで有名な漫画「PEANUTS(ピーナッツ)」で、チャーリー・ブラウンとルーシーの会話に以下のようなセリフがあった。

ルーシー「考えてほしいんだけど・・・」
ルーシー「世の中に悪い人のほうが多いの、それともいい人のほうが多いの?」
チャーリー「誰が言えるのさ?誰が悪い人で誰がいい人なのかなんて、誰が言えるのさ?」
ルーシー「わたしよ!」

チャールズ・M・シュルツ著『PEANUTS』/訳:谷川俊太郎

チャーリー・ブラウンの「誰が悪い人で誰がいい人なのかなんて、誰が言えるのさ?」というセリフ。禅語の「無分別」に通ずるものがあるように感じる。

他者との比較は視界を曇らせる

育児をする上でも、同じ月齢の子と比較して「我が子は成長が遅いのだろうか」「他の子も出来るのだから練習させなければ」と考えて、親が子どもに無理強いするのは良くない。
親は、きっかけ作り程度の介入に留め、子どもが周りをよく観察して自然と行動に移すまで、優しく見守るのが良いのではないか。
子ども自身は、日々成長している。それなのに親は「他者との比較」により子どもを見る目を曇らせる。

ありのままの我が子を見つめる

我が子の例で言えば、「生後何ヶ月頃には手を振ること(バイバイ)が出来るようになる」、「生後何ヶ月頃には手づかみでおにぎりが食べられるようになる」、「生後何ヶ月頃にはコップ飲みが出来るようになる」など、一般的にはそう言われていることでも、1歳2ヶ月現在、未だにこれらが出来ない。
手を振る動作は素振りを見せず、おにぎりは握り潰して遊んでしまうし、コップはひっくり返して中身をこぼしてしまう。

しかし、その一方で、特に何も教えてもいないのに、そばに居る人に物(おもちゃ等)を手渡して「どうぞ」と言葉を添えたり、誰かと目が合えばニコリと微笑んだり、静かな場所では大声を出さなかったりなど、感心させられることもたくさんある。

手を振る動作も、おにぎりを食べることも、コップで飲むことも、いつかは出来るようになる。比較して物事を捉えるのではなく、ありのままの我が子を見つめ続けたいと私は思う。

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