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小説 涅槃湯 05

ブッダの霊魂論

ブッダは無我を説いたとされる。無我とは、常住普遍のアートマン(自己主体)があるという形而上的な見解を否定し、ただ、条件の寄せ集めにより一時的に自己が存在するという考え方だ。
だから、死後の自己はもちろん無く、死ねば虚無となるという説が、ブッダの主張であったとする学者もいる。
しかし、死後ばかりか、前世のありさまについて、阿含経、パーリ聖典をはじめとする初期仏教は雄弁である。
無我を説きながら、なぜ輪廻転生を説くのか?
そのような疑問を抱く人々がブッダの在世時にも少なからずいた。

陽の光を浴びる竹林が静かな風に燦々とさざめいた。ダンは木陰でアナンが来るのをまっていた。
「ナマステー」とアナンの声。
「これから世尊と遊行僧の問答が始まる。行ってみよう」       
「てゆうか、俺は妹を探しに来たつもりだけど」
「妹さんの意識はデス・ラボがいまだ探索中だ。それまではAIの作成した体験プログラムのモニターがきみの仕事だろ」
 とにべもない。

大勢の比丘やバラモンたちが園林の奥へ向かっていた。ダンたちもその流れに入った。竹林に囲まれた広場では、すでに多くの人々がブッダと遊行僧の対論を聞こうと詰めかけていた。
マガダ国ラージャガハは、ブッダが悟りを開いて間もなく、カッサパ兄弟とその門弟千人を従えて訪れた大都市だ。カッサパ兄弟はマガダ国の権威あるバラモン一族で、国の内外に多くの信奉者を擁していた。それが、まだ名もなく、バラモンでもない若い沙門ゴータマ・シッダッタに帰依したのだ。釈尊の名は瞬く間に知れ渡ることとなった。このとき苦行時代からの旧知の仲であるビンビサーラ王が最初の仏教僧院、竹林精舎を寄進した。
格式高いバラモン家と王家を帰依させた男とは何者なのか、ブッダ、覚者と呼ぶに相応しい聖者なのか、人々は深い関心をもって若い沙門の言動に注目した。とりわけ求道に熱心なバラモンや遊行者たちは、かれを試そうとしばしば論戦を挑んだのだ。
こんもりと繁る竹林の木陰は日中でも涼しい。その木陰のひとつに、背の低い簡素な胡床が二脚置かれていた。ブッダと遊行僧は向かい合って座っている。ブッダは在家者から寄進された、柿色に染められた木綿の僧伽梨を懸けていた。供回りの僧たちも小ざっぱりとした身なりである。対して遊行僧は痩せ細った躰に泥のこびりついた弊衣を纏っていた。遊行僧は、ときおり獅子鼻の右脇にある大きな黒子を人差し指の腹でごしごしと掻いた。背筋はぴんと伸び、鋭い眼光をブッダに向けていた。
雑阿含経には、次のような対論の内容が記されている。
「ゴータマさん。少々お尋ねしたいことがございます」
「はい。なんなりと」
ブッダは朗らかに遊行僧をみつめた。その余裕の笑みに、遊行僧は油断ならじとばかり一段としかつめらしい表情で切り出した。
「では、お聞きしますが、ゴータマさんは生命と肉体とは同じものであるとお考えですか」
「いえ、わたくしはそのような質問には答えません」
 遊行僧は額の縦皺を深く刻んでブッダを見据えた。
「ほう。では生命と肉体は異なるとお考えですね」
「いえ、その質問にも答えません」
遊行僧はブッダを訝しそうに睨めつけた。一種の詭弁論ではないかと考えたのだ。詭弁論とは当時流布した論理学で、なにを問うてもウナギのように逃げる。
――わたしはそう考えない。そうでないとも考えない。また異なるとも考えないし、異ならないとも考えない……などと。
もしそうなら埒が明かない。しかしブッダは公然とあの世を説き、輪廻転生を説いている。これは明らかな矛盾だった。
「おかしいなあ。ゴータマさん、あなたは聞くところによると、弟子が亡くなると、誰それはあっちに生じた、誰それはそっちに生じた。何某は亡くなって身を捨て、意生身によって生まれ変わったというそうじゃないですか。それはつまり、生命と肉体が別ものだからではありませんか?」
とここぞとばかり畳みかけたが、ブッダはさらりと応えた。
「ひとは条件によって生まれ変わります。条件がなければ生まれ変わりはありません」
遊行僧は獅子鼻をいっそう膨らまして、一瞬、考え込んだ。当時の伝統的思想では、肉体は滅んでも生命=霊魂は永遠と生き続ける独立した存在と考えられていたのである。
「それはどういう意味ですか?」
「ですから生命は条件によって生じ、条件が無ければ生じないと説くのです」
「ではどのようなときに条件が有るとし、または条件が無いとするのですか?」
「たとえば炎は条件によって燃え、条件がなければ燃えないのです」
 生命が炎に喩えられている。生命が肉体という条件によって生存するならば、死によって生命も滅ぶはずである。しかしブッダは弟子の生まれ変わりを説いている。ならば生命は肉体とは別個に存在しなければならない。
「私は炎だけが燃えているところを見たことがありますよ」
「ほう。たとえばどのような炎ですか。教えてください」
「炎が盛んに燃え上がり、そこに疾風が起きて炎を吹き飛ばすことがあります。そんな時には、炎だけが空中に舞うではありませんか」
「いや、そのような炎もまた、条件がなければ生じません」
「空中を飛ぶ炎に、どのような条件が必要なのですか?」
「風という条件が必要です」
獅子鼻の黒子をごしごしと掻きながら、雁首ひとつ上体から突きだす恰好の遊行僧は、納得いくまでは引き下がらないという気迫でブッダを見据えた。園林に集まった見物人たちも息を凝らし、耳をそばだてている。
「人は亡くなると意生身によって転生するという。では、あなたのいわれる意生身は、どのような条件によって存在しますか」
ブッダは静かに透る声で応えた。
「意生身は、渇愛(激しい渇き)によって存在します」
 遊行僧は突きだした雁首のまま目を剥いた。周囲にいたバラモンたちもどよめく。遊行僧は、肉体と霊魂の二元論を説くバラモン思想の信奉者であった。肉体とは別個に意生身が存在するなら、それは霊魂によるしかない。ところがブッダは、意生身は渇愛があるときに生じ、渇愛がないときには生じないというのだ。
それは縁起の教えだった。縁起とは無明(愚かさ)や渇愛を条件として、人間の誕生や死が展開するという仏教の基本的考えであり、輪廻の主体が不滅の霊魂であるとする考えにたいして、まったく新しい生命観であった。
釈尊の時代にも人は死んでまったくの無になるという考え方と、死んでも輪廻の主体は永遠に生き続けるという考え方があった。だが釈尊は縁起の立場にたって、無を説く前者を断見と呼び、有を説く後者を常見と呼んで二つの両極端を否定したのだった。
遊行僧は獅子鼻の黒子をしごくのをやめ、尻を掻き、胡床に座りなおし、険しい表情で瞑目した。
輪廻の本体とは渇愛、激しい渇きに似た執念や無明によって存在する意生身なのだ。それによって人は輪廻していく。どこにも永久不滅の霊魂はない……。そうブッダは説いている。
竹林のさやぐ音だけが大きくなった。
遊行僧は反論できなかった。この遊行僧は名をヴァッチャゴーッタといい、その後もブッダにさまざまな疑問を投げかけたが、のちにブッダのもとで出家し、阿羅漢となったとされる。
夕刻、ダンとアナンは北の城門を入って小高い丘の中腹にたった。南側にはラージャガハの王都を望める。この都城は四方を大小五つの山に囲まれた天然の要害だ。尾根沿いに城壁が廻り、遥かに広がる大森林が都城の外縁まで迫っていた。
「アナン。幽霊はいつも何かに渇いてるんだ」
「ぼくたちも渇いている。渇いているから生きている」
「じゃあ、ブッダはどうなる? ブッダにも激しい渇きがあるのか?」
「世尊には慈しみがある」アナンは涼しげに笑みを浮かべた。
眼下には豪壮な木造の宮殿、煉瓦建築や、木と泥で造られた家々の街並みが広がっていたが、西側の険阻な山嶺の陰りがはやくも城下町を呑み込んでいく。窓から漏れる燈火の灯りが冷たい星屑のように煌めいて、都市国家の甍はゆっくりと夕闇に沈んでいった。

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