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小説 涅槃湯 01

第一部 地獄篇

死後の仮想世界


ある冬の朝、ダンはアパートの部屋で独り毛布にくるまり、クレーン車のエンジン音を聞いていた。断続的にウインチのモーターが唸るような音を立てている。近所でマンション工事が始まったのだ。ついに根負けして、眠い眼を擦りながら起き上がると、ショットグラスにジンを注いで一気に呑みほした。火酒の効き目で調子を取り戻すと、バイト探しのネット検索を始めた。これが青年の日課である。

エリアを東京に絞り、週休二日、未経験可、服装自由、高収入と、都合のいい条件にチェックを入れて検索をかける。ふと目に止まったのが『あの世のモニター募集』という怪しげな求人広告だった。面白半分に履歴書を送ると、忘れたころに先方から案内図と面接の時間を記したメールが送られてきた。都内某所のデス・ラボという名の研究所である。都心にも関わらず鬱蒼とした木立の敷地に建つ大使館や、高塀の廻る豪邸が立ち並ぶ住宅街に、古ぼけたスペイン風の洋館があった。ダンは薄暗く茂るトウジュロの植え込みをくぐった。

デス・ラボは二〇xx年にある富豪の出資によって設立された、あの世に関するありとあらゆる情報を集めた私設の研究機関である。ロビーは古めかしい外観とは対照的に、ひろびろとした空間に大きなテーブル型端末が配置されていた。ディスプレイは透きとおった青緑色で、まるで池の底を覗くようだ。ダンの指先が触れると波紋を起こし、水面から浮かび上がるように立体的な人物の上半身が現れた。彼はデス・ラボへの思いを語る創設者だった。齢九十歳にしては艶々としたピンク色の頬を持った老人はいう。

「――ある日私は突然、死の恐怖に取り憑かれるようになった。その恐怖たるや、どのような山海の珍味も喉を通らなくなってしまうほどだった。それ以来、人と会うのもいやになり、ボケたふりをして仕事を引退し、台湾にある阿里山の隠れ家で茶を啜っていたのだ。しかし死への恐れは膨らむ一方だった。そこで恐れを消そうと祈祷師に拝んでもらったり、スペースシャトルの外で宇宙遊泳をしたりした。しかしまったく効果がない。考えてみれば当然だった。私は死というものを全く理解せずに、ただ逃げているだけだったのだから。そこで私は、死後の世界の研究に没頭した。そして最後にたどり着いたのが天眼マシーンだった……」

この研究所で開発が行われている天眼マシーンは、脳とデバイスを接続するブレイン・マシン・インターフェイスの応用技術により、死後の仮想世界を睡眠中に再現する装置だ。

この天眼マシーンの再現データとして、重点的に調査が進められたのがブッダのことばだった。ブッダとは、覚者という意味で普通名詞である。しかし歴史上のブッダといえば、二千五百年前に北インドに誕生した釈迦牟尼仏だ。日本ではお釈迦様として親しまれているが、その思想の全貌を知る人は少ない。ましてその教えに、あの世のガイドブックといってもよい面があるということは……。

じつはブッダは四十五年に渡る伝道の旅で、人の生まれ変わりと成長過程を詳細に説き、死後の世界を上手に旅するための、心の操縦法を弟子たちに説いていた。もっともブッダは自分のことばを書き残すことがなかった。ブッダのことばは、すべて弟子たちの記憶の中に納められた。これは古代インドでは当たり前のことで、師から弟子への面受口伝が尊ばれたのだ。

そこでもっとも有力なことばを提供してくれるのが、ブッダの高弟アーナンダである。アーナンダはブッダが五十代の頃から側近として働き、二十五年もの間いつも説法を聞ける立場にあった。また多聞第一といって記憶力に優れていたことから、ブッダの滅後に行われた結集(けつじゅう)という教典編纂の責任者となった。このときブッダのことばを纏めたものが「経」であり、また「律」といわれる比丘の守るべき規律と教団の運営規則であった。やがて「論」といわれるブッダの教えを体系化した解説書もだんだんと整備されていく。これを「三蔵」という。西遊記などでおなじみの三蔵法師は、経、律、論に明るい法師という意味だ。まとめられた「三蔵」は連綿と伝えられた。やがて経典は椰子の葉などに写本されていった。北インドの撰述による梵語経典は、時代の変遷などにより失われた資料も多い。そのため、仏教梵語から漢訳された阿含経と呼ばれる「経蔵」や、「律蔵」などの資料は貴重である。またスリランカやタイ、ミャンマーなどでは、パーリ語(古代インドの地方語)による仏典としてほぼ完全な形で現存している。

天眼マシーンは、これらの経典情報を睡眠中に再現する。そして人工知能を有するアーナンダをガイド役として蘇らせることに成功した。あとはモニタリングによる動作テストを繰返し、システム上の不具合が発見されれば、それを解消するという地道な作業が待っていた。


ダンは形式的な面接が済むと地下実験棟に通された。円形の壺のような薄暗い空間には白いオーバル型のスリーピング・ポッドがあった。五台のポッドがサークル状に並んでいる。このポッドが天眼マシーンだ。マシンの体験はいたって簡単である。煩わしい注意事項は一切なし。仮想現実のどのような出来事にも、普段通り自由に反応してよいことになっている。モニターの心理状態、健康状態は天眼マシーンによって管理され、その状況は逐次オペレーションルームに報告される。もっともダンは、天眼マシーンの体験中に起こったビジターのいかなる精神的、肉体的影響についても、これを自己責任とするという文言にサインを入れたのだが。

ダンは深く考えもせず、ウエットパンツ一枚で指定のマシンの前にやってきた。にこやかなアシスタントの女性が、サイドハッチを垂直に持ち上げた。なかは意外に広々している。柔らかなゼリーのような感触のベッドに半身が沈みこむ。あとは音声ガイドにしたがって眠りにつくだけだ。


む、む、む、む、む……。

ダンが目を覚ますと、彼は大の字になって冷たい草むらに寝そべっていた。真上で葉叢がざわざわと揺れている。枝がたわむと赤い花が一輪、耳元に落ちた。みればつむじを鶏冠のように立てた子猿が、樹の枝に長い尾を絡ませて遊んでいる。

(おれは夢を見ているのだ)

 ダンはそう思って、そばに落ちた花を拾い、まじまじと見た。瑞々しい花弁の一枚〳〵、踊るようにひしめく蕊の艶めきは夢とは思えない。半身を起こして周囲を窺うと、柔らかな朝の陽射しを受けて滴るような草原が広がっていた。林の向こうにレンガ造りの建物が見える。ダンは鳥たちのかまびすしい囀りを聴いた。

ふと人の気配に振り向くと、木陰で丸坊主のお坊さんが朗らかな笑顔で佇んでいる。かなりイケ面の青年であった。どことなく日本人にも見えるが、色は浅黒く、窪んだ眼窩に栗色の瞳を持つ青年の目もとは涼しげだった。

「こんにちは。ぼくの言葉が分かります?」

ダンは彼の口から日本語が飛び出したのにちょっと拍子抜けした。

この世界は天眼マシーンの仮想体験システムと、体験者の潜在記憶によって再構築され、使用言語もまた当事者にとって習慣づけられた言葉に自動変換されるのだ。研究員の説明がダンの脳裏にうっすらと蘇った。

丸坊主の青年がダンに語りかけた。

「ぼくはアーナンダ。アナンと呼んでくれ」

「ぼくはダン。きみはここのガイドだね」

「そう。ぼくの役目はきみに死後の世界を案内することだ」

「よろしく」とダンは目もとの涼しげな青年に笑みを返した。そよ風に葉陰が青く煌めく。楽なアルバイトだと思った。

「ところで、あの世って信じる?」

 おそらく意識調査の一環なのだろう。そのうち神を信じますかとくるぞと考えながら、

「いや、信じてないけど」とにべもなくあしらった。

「ホントいうと、あまり死後の世界に興味はないんだ」

「死ぬのは怖くない?」

「そりゃ怖いよ。でもね死ねば無になるだけだから」

草原の上に胡坐をかいたままのダンは、柿色の袈裟を懸けた若い僧を見上げた。僧はダンをまじまじと見返した。

「そんなことどうして言えるんだ?」

「脳が死ねば意識は無くなる。それだけさ」

古代インド人、というか、そういう設定の人物と話すのは骨が折れると考えながら、ダンはあくびを堪えた。しかし青年はごく自然に受け応えするのだ。

「へー。つまり脳がきみなんだね」

「あたりまえでしょ」

「じゃあ、自分の脳を自由に操作できる?」

「できるさ」

「ほう。どうやって」

「ネットだって漫画だって好きなときに見たり読んだり、ぜんぶ脳を使って操作してる」

「なるほど脳は便利な端末のようだが、スリープやシャットダウンはできるのか?」

 古代人という設定にしては質問が当世風だと思ったが、深く考えたくもないのでおざなりな返事をする。

「眠くなったら寝る。それかアルコールによる強制終了」

「はゝゝゝ。起動はどうする?」

「勝手に起動してくれる」

「死んだあともそうなるとしたら?」

「死ねば、もう端末が無いじゃないか」

「新しいハードウェアがあるよ。きみの意識は新しい端末によって起動する」

「そんなこと、信じられませんね」

ダンはふたたび横臥した。耳たぶに冷たい青草がチクリと触れる。

アナンはダンの隣に胡坐をかいた。

「自由に脳のシャットダウンもできず、スタートアップもできない。ぼくたちの脳は、マニュアルのないパソコンのようだけれど、脳と意識が同じものなら、なんで自由にならないのだ?」

「………」

「解らないことだらけなのに、脳の死を意識の終焉と決めつけるのは早すぎるよ。ぼくたちは死ぬと、新しい宇宙船に乗り込むのさ。       

その先にはいろいろな世界が待っているよ。神、人間、動物、亡霊、地獄の世界だ」

「亡霊や地獄なんて迷信だし」

「たしかに亡霊や地獄の罪人は自然界の生物ではない。もちろんナショナルジオグラフィックにも載ってない。でもね、存在しないとはいえない。ヒトの感覚器官で認識できる世界は限られているのだ」

「だれがそんなこと言っているんだ?」

「ブッダさ。ぼくたちは、死後、心の状態に応じて新しい宇宙船を手に入れる。その宇宙船は新しい感覚器官を備えていて、その感覚器官に認識可能な世界のなかで暮らすようになる。人間は人間同士が理解できる世界を認識する。同じように神さまは神としての感覚器官を持っているし、地獄の住人は地獄の世界だけを認識する」

「ぼくはね、人間の認識する世界しか信じない。それで十分じゃないの?」

「ブッダの譬え話をしよう――。

大海の底で盲目の海亀が暮らしていた。その海亀は百年に一回だけ息継ぎをするために海面に出てくるという。そうやって何億年と生きているのだ。さて海亀が百年ぶりに海面に頭を突き出したとする。そこにたまたま節穴のある板切れが流れてきて、その節穴に海亀の頭がすっぽりと嵌るとしたら、何回目の浮上でそうなるでしょう?」

「ほとんど、不可能だね」

「それくらい人間の生をうけるのは難しいとされる。なにしろ豚や鶏、犬猫、魚、ゴキブリ、果ては地獄の亡者まで、人間以外の生命は無数にあるじゃないか」

「はゝゝゝ。死んでから無になることもできず、ましてひと以外のものに生まれたらつらいね。鶏なんかに生まれ変わったらフライドチキンにされちゃうじゃないか」

「そうさ、きみも過去世は鶏だったかもしれないな」

「おれがフライドチキンだったって? そんなの覚えていないし関係ない」

「記憶に無いからって、存在しなかったとは言えない。意識が出荷時の状態に戻っただけだもの」

「………」

 小猿が花をつけた小枝を揺すっている。葉叢の向こうには深い青空が広がっていた。面倒な坊主の話さえなければ、ここは悪くないとダンは思った。


※本小説はフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです

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