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小説 涅槃湯 03

等活地獄(地獄の永久機関)

ふたりは、すり鉢状に穿たれた大地の縁に立っていた。
すり鉢は赤黒い霧に覆われて大きさも定かでない。空は濁った墨のように暗かった。アナンはお構いなしにどんどん降りていく。ダンも後を追うしかなかった。しばらく岩だらけの急な斜面を進んだ。なだらかな段丘にでると、玉虫色のダブルの男がとぼとぼと先を歩いていた。そこにひとりの髪の毛の薄い若者が飛び出した。手にはナイフを持っている。ダブルの男は若者を睨み付け、すぐさま跳びかかっていった。若者の少なめの毛髪をむしり取るように鷲摑みにすると、耳たぶを食い千切ろうとする。若者も負けてはいない。握りしめたナイフで男の躰を手当たり次第刺しまくる。ダブルの男と若者の終わりのないバトルの始まりだった。
弾けるような金属音が響いてきた。彼らはいつしか、両手に鋭利な爪を伸ばしていた。
「シザーハンズ!」
「ここでは憎悪が凶器となる」
両者がつかみ合うと皮膚が裂け鮮血が迸った。男が若者の目玉を抉ると、若者は相手の顔面をぱっくり切り裂いた。際限もなく、互いの躰の肉を削ぎ落とし、切り刻んでいる。鋼の触れ合う金属音は止むことがない。そしてついに力尽き、両者はくずおれた。
灼熱の地獄にいっとき涼風が吹きわたった。男たちの躰はその涼風によって蘇っていった。むしり取られた毛髪も生えてきた。そして再び相手を目にすると怒りの炎が沸き起こり、戦いが始まった。
「貴サマ、まだ生きているのか!」
「テメェこそぉ!」
ここは、まだ生きていると想うことから想地獄といわれる。また何度でもみんな等しく活き返るという意味で、等活地獄と名付けられる。蘇っては殺しあう。これが際限もなくつづくのだ。それは彼らだけではなかった。一陣の風によって赤黒い霧が晴れると、すり鉢状に抉られた大地の全貌が見渡せた。季節も昼夜もない墨色に澱んだ空の下で、何千何百万もの男女が息を吹き返し、格闘の再開となるのだ。各々が日本刀、マサカリ、金属バット、チェーンソーなど、望み通りの武器で殺しあっている。ここでは腰の曲がった老人どうしの果し合いもある。若い女性と青年の決闘もある。無数にこだまする叫び声が、地響きのようにわんわんとダンたちの耳に迫ってきた。
「この世界に終わりはないの?」
「人間の時間に換算すると、彼らの服役期間は大体一兆六千四百二十五億年」
「アンビリーバボー! いったい何をしたらこんなところに来るんだろ?」
「いや、本当はこんなありさまを作りだしたのは、彼らひとりひとりの心なのだ。死んでいるのだから終わりがない。一日が二十四時間である必要もない。時間や肉体の制約を受けないから好きなだけ罵り合い殺しあっている」
「でも戦うためにはそれなりのエネルギーが必要だよね」
「エネルギーは怨みだよ。メラメラと怨みの炎が燃えさかっている限り、心からできた躰は何度でも蘇生する。なにしろ怨みや怒りというのは、彼らにとっては痺れるようなご馳走なのだ。だからお互い奮発し合って怒りのパワーをぶつけているね。よくみると彼らの目は陶酔しているだろ」

八つの大地獄は、それぞれ十六の小地獄を完備していた。煮えたぎるプールや高熱の鉄板からできたサウナルーム、鋭い剣が無数に突き出しているクライミングウォールなど、すべてが特別仕様だ。加えてむやみにガンを飛ばすインストラクターがいて、マンツーマンで強制的にサポートしてくれる。およそ身体的、精神的苦痛のすべてを味わえるコースが多数用意されていた。
「さあ行こう。ひととおり見学するだけでも、とても時間がかかる」

「これって仏教を信じさせるための脅かしじゃん」

「ぼくたちも人を恨むことがあるね。信じようが、信じまいがそれは立派な地獄の材料となる。繰り返し怒りや憎しみの世界を作りだし、そこに迷い込むことで、地獄を認識するための感覚器官が発達していくのだ」

「悪徳家で、平然と高いびきをかいている奴らもいるだろうに」

「人間の感覚が働いている間は、物質的知覚以外の認識は抑制されている。しかし死期が近づいたり、死んだりすると、生前に育ててきた地獄仕様の感覚器官が立ち上がる。すると残酷な悪夢のように地獄の世界も現れる。だが死者には夢から醒めるべき肉体がない。自分の生み出した怒りや怨みのエネルギーが尽きるまで、その世界を彷徨うのさ」

紫色の暗雲が覆う赤黒い大地を、ひとりの男が当てもなく彷徨っていた。ボロボロのスーツを着た会社員風の男である。割れた眼鏡をかけ直し、あたりを覗っている。頭部が陥没し、額に黒い血糊をこびり付かせていた。

男はダンたちを見かけると声を掛けてきた。

「あのー、すいません。道に迷ってしまって……。吉祥寺の駅を降りたまでは覚えているんですが」

アーナンダは男に合掌していった。

「ご主人、あなたに帰るところはないのです。死んでいるのだから」

「え?」

男は絶句した。しかしニタリと嗤うと、かぶりを振って立ち去った。

「気の毒にあの紳士はまったく自覚症状がないのだ」

アーナンダがいった。地獄の亡者は死を覚らない。記憶も支離滅裂のようだ。泥酔状態と同じである。

どこからともなく目出し帽を着用した屈強な男たちが現れた。Tシャツの下の僧帽筋が異様に盛り上がり、胸板は分厚く、露わになった上腕は丸太のようだ。男たちはスーツの男を取り囲み、いきなりボディブローを喰らわせた。苦悶の表情で前のめりになると、続けざま顔面に膝蹴りを入れる。鼻から血を噴いてのけぞった。男たちは嘲りながら、スーツの男をサンドバッグにしていた。眼鏡がはじけ飛び、顔面は青黒く腫上っていった。

「だれなんだ? 奴らは」

「地獄のインストラクターだ。昔は獄卒と呼ばれていた」

彼らは真っ赤に焼けた鉄板上にスーツの男を引きずっていった。鉄板に投げ飛ばし、手足を掴んで広げた。男の躰はあぶられたスルメのように悶える。インストラクターたちはお構いなしだ。ウエストポーチから釘と金槌を取り出すと、気合いもろとも全身を打ち据えた。男の悲鳴号泣はいつまでも続いた。

「どうしてこんな惨い目に……」

ダンは眉を顰めた。「インストラクターのほうがよっぽど悪いな」

「彼らを責めても無駄さ」

「どうして?」

「だって彼らは、本人の心が生み出したものだもの」

倶舎論によれば閻魔などの裁判官は霊的な生命体として認められるが、地獄の獄卒たちは亡者の罪業がかたちを成したもので生命体ではない。だから鬼たちは惨い行為の報いをうけることもなく、炎の中でも焼かれない。生きて活動しているように見えるだけなのだ。

多くの亡者たちは、ふたたび岩だらけの大地を踏みしめていた。誰ひとり口を開くものはない。ただわけもなく人の流れが生まれ共に歩き出すのだ。

「ところで、もう帰れる?」

「うん。そろそろ時間だ。しかしあと七つの大熱地獄ツアーが残されている。そこはこれまでの地獄が天国に感じられるそうだ」

「まだそんなにあんの?」

ダンがげんなりしていうと、不意に眼の前が闇に包まれた。

カプセル内に青い照明が点る。終了予定時刻が来たのだ。身体はこわばり汗ばんでいた。そのままぐったりしていると、いきなりハッチが開いて、若い女性のアシスタントが笑顔で迎えてくれた。

「お疲れさまで~す」

彼女からポンと手渡されたパンフレットには、八つの地獄の案内図と阿含経指定の入場資格が記されていた。


特別優待券

ようこそ! ヘルミュージアム、スーパーツインタワーへ

この大陸の地下に八層からなる灼熱地獄が存在いたします。また、傍らには同じ八層の構造を有する極寒地獄がございます。地底四万由旬(二十八万キロ)。まさに地獄のスーパーツインタワー!

まずは八つのホットな灼熱地獄ヘルタワーのご案内から

想地獄(永久機関の地獄)★体験済み

資格/しばしば悪事に手を染めた方

黒縄地獄(シュレッダー地獄)

資格/悪意をもって両親や仏に背いた方

堆圧地獄(人間ミンチ)

資格/悪事ばかりで善いことを一切しなかった方


叫喚地獄(煮物)

資格/怒りにまかせて生命を傷つけ殺生した方


大叫喚地獄(再び煮物)

資格/独りよがりな考えや卑しい欲望を満たすために繰り返し殺生した方


焼炙地獄(バーベキュー)

資格/日々たくさんの生命を焼き殺した方


大焼炙地獄(丸焼き)

資格/善い行為をきっぱり捨て、好んで殺生などの悪徳に精進

された方


無間地獄(いたるところ大火炎)

資格/父母や聖者を殺す。また残忍な罪を嗜んだ方


※各地獄に十六の付帯施設有り

特別優待券をお持ちの方は、無資格にてご利用頂けます。

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