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小説 涅槃湯 06

再会

デス・ラボの当初の目的は死後の分析に詳しい初期仏教の論書、倶舎論をもとにAIを駆使してあの世の世界をリアルに再現することだった。しかし、じつは、天眼マシーンは予想もしなかった次元の世界を開くことになった。天眼マシーンはひとの深層意識までアクセスできるブレインインターフェイスである。深層意識にアクセスることで、深層意識が認識している世界への展望がいきなり開けたのである。それは、個の大脳組織を超えて、他者の大脳と交信することを可能にし、深い夢の領域が織りなす迷路を超えて、遥か霊界へと通じる路だったのだ。

数人の医師が取り囲んで、あわただしそうに作業している。ダンは、手術室の天井あたりに浮遊して、医師たちの頭ごしに、自分が横たわっているのを見ていた。頭部の陥没部分を治療するために、頭の皮がペロリと、マンゴーの皮そっくりに剝きあがっていた。
ひとは誰でも死ぬ。それは次の瞬間かもしれないし、明日かもしれない。ダンにも突然の死が訪れた。死因は事故死だった。彼はすぐに自分が肉体のなかにはなく、意生身といわれる意識から作られた躰で存在していると気が付いた。意生身は自由にどこへでも飛んでいくことができる。幽霊に仕事もノルマもない。しかし呑気に空中浮遊を楽しんでいる気にはなれなかった。気がかりなのは自分の事故現場だった。
死者はやすやすと記憶の場所に移動する。夕刻の事故現場は、交通警察の実況見分が行なわれていた。まだ大きな血糊が残り、チョークでなぞられた人型の跡があった。人型の脇には無残にひしゃげた自転車が横倒しになっていた。捜査官が数名で状況確認をしている。立ち会いに加害者らしき者はいない。痩せた老人が捜査官の質問に答えている。
「爆発するようなすごい音がしましたよ」老人の口角に白い唾が固まっていた。「振り向いたら人が倒れてました。逃げたのは青いトラックだったなぁ」
ダンの脳裏にボンヤリと事故の記憶が蘇ってきた。交差点を渡り切ったところで、自転車の進路を歩道から車道に変更した。そのとき、路面電車のレール溝に前輪がすっぽりはまり、勢いで前のめりにもんどりうった。転んだ視線の先に、猛スピードで迫るトラックがあった。
(俺はひき逃げされたのか?) 
しかしダンはもはや死んでいる。実況見分にも立ち会えない。地団駄を踏むにも両足が宙に浮いている。ただ鑑識官たちの作業をみつめていた。事故の衝撃で散らばった車体のプラスチック片や塗装の剥離片を採取しているのだ。すべての事故状況が事務的に記録されていく。ダンという存在は、最後に数ミリの欠片と電子データとして採取されていった。いつしか街はたそがれ、茫然と佇むダンの頭上に、冷たい雨がしとしと降りだした。
そこに一台のかなり年代物らしきボンネットバスが止まった。運転手が軽く首を振って乗れという合図をよこす。ダンは誘われるままバスに乗り込んだ。車内は真っ暗だ。座席に座り込んでからは意識がない。どれくらい眠ったのか、窓外は闇だった。腕時計の針は事故発生の時刻で止まっていた。車内では、多くの黒い人影が、首をうなだれて物静かに座っていた。ときおりバスが停車して、どこからともなくお香の香りが漂い、読経の声が聞こえてくる。外ですすり泣く人々の声が上がった。バスの扉が開き、誰かが乗り込んできた。なにやら大声で泣き叫んでいる。
「やめろ、やめろ! おれはまだ死んでない!」
ごねる中年男を数名の乗客が引っ張りあげていた。
「あんたは死んだんだ、死んでいるんだよ! 往生際が悪いぞ!」
「いやだ、いやだ! 助けてくれぇ」
自分の躰との別れ、肉親との別れ、集めた財産との別れは突然やってくる。死の淵はとおに超えてしまった。それでも大抵の人間が紋切型の悲痛な叫びを振り絞る。誰もが必ず死ぬ運命にありながら、死を素直に受け入れることのできるものは僅かだ。もちろんダンも受け入れることはできなかった。騒ぎながら車内に入り込んできた中年男の顔面は朱に染まっていた。
「怖がることないよ」
隣席の男が話しかけてきた。
「あちこちで停まっては、死びとを拾い上げているのさ」
男は黒いサングラスをかけていた。よれよれの草臥れたスーツを着ている。
「このバス、どこに行くんでしょう?」
「終着駅は葬儀場と決まっている」
男は意味もなくニタニタと嗤った。男の躰からは鼻を衝くようなすえた匂いが漂ってくる。次の停車場では大勢の人々が続々と乗り込んできた。その誰もが嘆き、呻き声を発している。焦げ臭い匂いが充満した。バスの中はあっというまにすし詰めの状態になった。
「ビル火災かなにかで大勢亡くなったんだろう。まったくこんなバスまで通勤ラッシュとはね」
「ところであなたは?」
男は含み笑いしながら、自分の首を絞めるマネをした。
「ある日なにもかも面倒くさくなってね」
明け方ごろ、バスはギィギィときしみながら郊外の斎場に到着した。乗客たちはなにかに気が付いたようにバスから降り始める。自分の棺桶の場所が本能的にわかるのだ。
やがてダンの葬儀も始まる。皆おいおいと泣いていた。意生身となっても、ひとりひとりの顔はよく見える。笑っているのはさすがにいないようだ。坊さんの読経の声も聞こえる。
じきに自分の棺は火葬されるばかりだ。意生身になれば自由に飛び回れると考えるのは間違いだった。両親にはダンは見えないし、話しかけても聞こえない。学生時代の友人も見えた。けれど、卒業してなにをやりたいのか、やったらよいのか全く見通しがつかないまま、気ままなアルバイト生活をしていた。世の中から見ればダンは一種の透明人間だった。そして今度は本当の透明人間になってしまった。両親には申し訳ないと思った。そして、未海より先に死んだ自分に気が付いてさらに憂鬱になった。
――さあ、わしはきみの葬式で呼ばれたのじゃ。ご両親に最後のお別れをしなさい。
誰かがダンに声を掛けてきた。腰の曲がった老僧だった。皺くちゃの顔に静かな笑みを湛えている。彼は両親と集まった縁者を後ろに、ダンの棺の前で鐘を打っているのだ。ダンはそれを棺の上に座って眺めていた。
――お坊さんはぼくが見えるの?
――見えますよ。さあ、安心してあの世に旅立とう。
――ちょっとそういう気分じゃないんですけどね。
ダンは焦った。とても間延びした老僧の読経を聞いていられる余裕はない。
すると老僧は眦を吊り上げ、読経の声とともにダンにいった。
――ダン、この世への執着をすっぱり捨てなされ。
――呑気だな、お坊さんは! 
――あんたはこれから灰になるのだ。そんなことほっときなさい。
「むーげんにーびーぜっしんに――。むーしきしょーこう、みーそくほう――」
 老僧の読経が続いている。以前は楽に死ねるものならそれも悪くないと考えていた。しかし今は違う。
ダンは未海を探しにデス・ラボにむかった。意生身は自在に虚空を移動する。未海が横たわった目的の天眼マシーンは半透明に見えた。ダンにとってはマシーンの壁は粗く、素通りできるほどである。しかし、ポッドのなかに未海の姿はなかった。
ダンは遣る方無く自分のアパートに帰った。薄暗い部屋のなかはいつも通りだった。いくらか落ち着いたのはよかったが、急に空腹感が募ってきた。冷蔵庫を開けると、サンドイッチや飲み残したジュースがある。それをテーブルに置いてがつがつとやりだした。しかし味はない。あると感じたのは味の記憶でしかなかった。ひと通り平らげるが、いっこうに満たされない。もう一度冷蔵庫を開けると、たったいま飲み食いしたはずのものが手つかずのまま残っていた。ダンが途方に暮れてうろうろしていると、顔面血達磨の泥棒が部屋の奥からぬっと顔を出した。あまりの恐怖に声も出ないとはこのことだ。しかしそれは鏡に映った自分だった。
気づくとダンは薄暗くなった事故現場に悄然と立ち尽くしていた。そこは風化することのない記憶の棺のようにダンを呼び戻す。憤りと惨めさに留まっていることで自分が確認できる安心感があった。しかしすぐに込みあげる無力感と苛立ちで押し潰されそうになる。やがて斎場行きのバスがやってきた。遣りきれない気持ちを振り払うように乗り込む。
「やあ」隣席には、昨夜のサングラスの男がニタニタと嗤いながら座っていた。バスは昨晩同様、あちこちで死びとを拾っていく。斎場に着くと男がいった。
「ねえ、きみ。腹がすいたろう」
ダンが男に誘われるままついていくと、そこはお供物の残飯置場だった。よく見ると、たくさんの黒い人影が生ごみの山にへばりついている。男は人影を押しのけるようにして、残飯をむしゃむしゃと頬張りだした。今度は黒い影が男を突き飛ばした。サングラスがはじけ飛び、落ち窪んだ眼窩に緋色に血走る眼球が現れた。口元は蛇のように裂けていた。ダンはたじろいだ。しかし、ひりひりと焼きつくような飢えの感覚が抑えられなかった。

「お兄ちゃん!」
ふいに後ろから声がして振り返ると、その声の主は未海だった。
「未海! お前、なんで?」

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