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小説 涅槃湯 10 第二部 天上篇 あの世とこの世の中間地帯 

炎陽に焦げつくような都会のアスファルトを離れ、ダンはいつものように、ひんやりとした天眼マシーンに横たわった。妹を探して、地獄世界を一通り探索したダンは、つぎに天上世界のモニタリングを始めることになったのだ。
女性の自動音声が柔らかに響く。
「地球の直径が一万二千七百キロ、その四十四倍の標高をもつ須弥山山頂に三十三天の宮殿は位置しております。これは地球の大きさを三十センチと致しますと、天界の宮殿は、そこから約十三メートル上空という計算となります」
つまり、ご近所のおばさんが育てているパンジーのプランターと、四階建てのマンションくらいの差があるのだ。
「その須弥山中腹には四天王と呼ばれる神々の居城があります。今回は、四天王親睦会と題したプログラム編成になっております。それではインドのとある村の墓場からスタート致します」
なんで墓場から? そう思う間もなく、ダンの意識は死の世界へと沈んでいった。四天王の居城に辿り着くには、四天王の配下である夜叉たちの徘徊する墓場を通らなければならない。墓場は、人間世界への執着を残す夜叉たちの棲家であり、この世とあの世の中間的領域なのだ。墓場といっても屍体捨て場である。葬儀には数種あり、荼毘に付し、霊園の塚や祠堂に埋葬する火葬もあるが、水葬、土葬、野葬がある。野葬は一定の場所に野ざらしにして、禿鷹や豺狼の餌とする。
また屍肉を漁るのは獣ばかりではない。日が沈み、夕闇が迫ると異形の夜叉たちが野葬の腐肉を求めて集まってくる。夜叉というのは、鬼霊とも漢訳されるが、さまざまな死霊や悪霊、自然霊を指す。
ダンが迷い込んだのは、ちょうどそのような夕暮れ時の墓地であった。地面は大雨の後のせいか、ずぶずぶとぬかるんで、泥に足を掬われそうになる。木の根っこなのか、棒きれなのか、人骨なのか見分けのつかない塊を足場にして、ダンはゆっくりとあたりの様子を窺った。
空を低く鈍色に覆う雲と、ねじ曲がった低木がまばらに生えるばかりの土地との間に、幽かに灯りのもれる小屋をみつけた。ダンはいつもながら棄権したくなったが、モニター用に設定されたプログラムが完了するまでなすすべもなく、おぼつかない足取りでゆっくりと小屋めがけて歩き出した。足は泥にもつれ、思うように前に進めない。あたりは獣たちが喰い散らかした四肢、夥しい蛆にびっしりと覆われた腐爛死体、堆積した白骨などが捨て置かれていた。
えいっ、えいっ、という甲高い掛け声が聞こえてきた。小屋に近づくにつれ、その掛け声は大きくなっていく。どうにか小屋の前までたどり着くと、ダンは明かりの洩れる隙間からなかを窺った。
黒くずんぐりした人影ごしに、赤々と灯るオイルランプが見えた。黒い影はこちらを背に丸太に座り込み、鉈を振り下ろしていた。鈍い音とともに脚や腕が大きな俎板から転がり出る。それを蓬髪の童女が親指を咥えて眺めていた。
「これっ、危ない、危ない」
黒い影が怒鳴った。
「だって、お腹すいたもーん。早くしてよー」
「夕飯はさっき食べたじゃないか。意地汚い子だよ」
黒い影は母親なのだろう。
「あっ。誰かいる」
ダンは娘にみつかってしまった。母親が振り返ってダンを睨み付けた。
「なんの用だい?」
「はい。四天王にお参りに」
「こんな時間にかい?」
小肥りの女は、無言で首を揺らすと板戸を開いた。チョコレート色の丸い顔に黒い血糊がこびりついている。
「もの好きな輩が多いよ」
女はそっけなくいった。
小屋の中は生臭い死臭で充満していた。切断された遺体が散乱し、足のやり場もない。女はそれを麻袋に詰め込みだした。ダンは地獄廻りを想い出した。しかしここでは死体はもがくこともなく静物のように大人しくしている。
「そんなに珍しいかい?」
「これどうするんですか?」
「狗どもが食べるのさ」
娘も手際よく手足を拾っては袋に詰めている。
パーリ仏典テーラガーター(長老の詩)にいう。

黒い大女が鴉のように身を屈め
ひとつの腿を切断したら、他方の腿も切断する
ひとつの腕を切断したら、他方の腕も切断する
それらを鉢のように積み上げて座っている

この小肥りの女も、納屍堂と呼ばれる小屋で働く死体処理人なのだ。
「さあ、行こう。あんたも手伝っておくれ」
麻袋のひとつをダンも受け持たされた。
墓地は死の世界ではない。何千、何万というコオロギやヒキガエル、カラスやミミズクなどが喧しく啼いていた。袋の死体は近くの丘の上まで運び、ばらまくだけでよい。あっというまに飢えた豺狼たちが平らげてしまう。
娘の目当ては、鴉の喰い残したお供物の果物、お菓子や麦焦がしの団子だった。昼間、火葬の煙の上がるのを見定めておき、人気の途絶えた大禍時にお下がりを物色するのだ。娘は戦利品を腕一杯に抱え、意気揚々と先導する。
やにわに娘は駆け出した。
「おにいちゃーん!」
甘えた声でだれかに声を掛けている。
小さな土饅頭の横に、若い男が胡坐をかいていた。娘は彼に調達したばかりのお下がりをあらかたあげてしまった。
「いつもありがとう」
 若い男が礼をいうと、少女ははにかんで「いいの」
小肥りの女はぶっきらぼうに声を投げた。
「あんた、もう帰りなよ。そろそろ十日にもなるよ」
「いや、いいんです。ぼくの暮らすところはここしかないんです」
青年は傍らの土饅頭を愛おしそうにみつめた。
「お釈迦様もいうだろう。死んだ者は帰らないって」
彼は若い妻に先立たれ、彼女を慕うあまり墓地で暮らすようになった。娘は痩せ衰えていく若い男を見かね、お下がりをあげていたのだった。
「おばさん、ぼくはね、ここにいると妻がそばにいるような気がして、とても死んだとは思えない」
女は腕組みをして、気の毒な男を冷ややかに見下ろした。
「骨に惚れてどうする?」
しばらく墓地の奥へと歩いていくと、煌々とした灯りが見えてきた。サークル状にオイルランプを並べ、その中心で火葬灰にまみれた丸裸の男が蓮華座を組んでいた。手には髑髏の杯を持ち、何かを飲み干している。男と目が合うと、真っ赤に濡れた唇がニタリと嗤った。この村の墓地は、さまざまな隠者たちのたまり場なのだ。財産を放棄し、世俗から離れ、火葬灰にまみれ、木や獣の皮を纏う。仏教の出家者も、しばしば墓地を修行場とした。
テーラガーター(長老の詩)に曰く。

わたしは墓場に女が棄てられ
躰中を蠢く蛆虫に喰い尽くされているのをみた
愚者たちの好物であった肉体をみよ
病に侵され、不浄と腐臭を垂れ流す集まりを

釈迦時代の出家は、墓地にあって死骸の徐々に朽ちていくさまを観察し、肉体への欲求を抑制しようとしたのだ。また墓地では糞掃衣(ふんぞうえ)を調達する。腐敗の終わった死体から衣を剥ぎ取り、洗ってから染め直し、小片に裁断した布を継ぎ合わせて袈裟としたのだ。
ある比丘は腐りかけの死体から無理に衣服をはぎ取って、僧房に持ち帰った。翌朝、死骸が僧房の戸口に頽れていたという。生腐りの屍が比丘の後を追いかけてきたというのだ。この事件のあと完全に腐った死体からのみ衣を得ることという律が制定された。
闇の迫る丘の上で、死体処理の女は切断された腕や脚をばらまいた。はやくも山狗たちが集まりだした。初めにリーダー格が内臓をガツガツ喰いだす。つづいて他の狗たちも低い唸り声をあげながら争って喰らいつく。
ダンは唖然とした。黒い獣たちの影に交じって、腐肉を咥えた男がいたのだ。四足で素早く這いまわるさまは狗たちと変わらない。彼は幼いころ墓場に捨てられたのだという。

あたりを吹きぬける風の勢いが増してきた。
女はダンにむかっていった。
「これからは夜叉たちの時間だ。四天王に参拝に行くんなら奴らに頼んでみな」
女は娘の手を曳いて歩き出した。
「おじちゃん、さよならー」
少女はダンに手を振った。
(おじちゃん? しかも奴らって誰?)
女たちの背中ははやばやと夕闇の中に吸い込まれていった。
まもなく、ずるずると何かを引きずるような音が近づいてきた。鴉たちが一斉に林から飛び立つ。巨大な黒い気配がダンに迫ってきた。殺気立つ無数の息遣いがダンの周囲を埋め尽くし、徐々にその範囲を狭めていた。
頭上に雷鳴が起こり、閃光が走ると、低く垂れ込めた雲が蠢く臓物のように浮き彫りになった。同時にダンのまわりに集まってきた黒い影の塊も一瞬露わになった。
猪や魚の口を持つもの、虎や熊、象、髑髏の頭を持つもの、眼がひとつのもの、顔面が半分ないもの、顔がたくさんあるものたちが、屍肉を求めて闇夜の墓地や樹林に戯れ、跳梁する。あるものは三叉の鉾を引きずり、叫びながらこん棒や鉈を振りまわして威嚇する。仏伝諸経典で、夜叉たちは異形の群れとして描かれる。
とぐろを巻く雲塊に稲妻が走るたび、邪悪な気配は濃くなっていった。彼らは一斉になにか呟いていた。耳を澄ますと、出ていけ、出ていけと聞こえる。仕方なく手探りでそこから出ようとすると、今度は入れ、入れと聞こえる。そこで引き下がると、再び出ていけ、出ていけと聞こえる。どうすることもできない。真っ暗闇で立ち往生したダンは地べたに座り込んだ。腰が抜けたのではなかった。開き直ったのだ。
「お前ら、うぜえんだよ。俺は四天王に会いたいだけなんだ!」
 と小胆者ほど、くそ度胸を発揮する。
誰かが胴間声を発した。
「まあ。礼儀を知らない殿方ですこと。まず、あたしたちの質問に答えなさい。もし答えられなかったら、お仕置きタイムよ。あなたのおつむは正気を失い、心臓が破裂するでしょう。そしたらガンジス河に沈めてあげる」
ダンを取り囲む夜叉たちは大嗤いした。
――こいつらはどうせバーチャルだろ。でもいつ終わるのかな?
ダンは独語した。
「さあ、質問です。その一。この世で最高の富とはなんでしょう?」
ダンの額からねばっこい汗が滴った。そもそも富という言葉に縁遠い男だから適当な答えが浮かばない。
(金? 株? いやもっと価値のあるものあるよな。超大きな豪邸。いや、そんなもんじゃないな……。そうだ土地だ)
「土地、いや国、大きな国を所有すること。……かな?」
血に飢えた夜叉たちは、赤い眼をらんらんと輝かせて、「ファイナルアンサー?」と畳み掛けた。
忍び嗤いがあちこちから起きた。答えに窮するダンに、すぐにも夜叉たちが跳びかかろうとにじり寄る。闇は殺気に凍りついた。
そのとき、突如、ダンの頭上に朗々とした大音声が響いた。
「この世で、最高の富は信用である!」
夜叉たちの動きが止まった。そしてダンを睨み付けている。稲妻が走り、雷鳴が轟く。夜叉たちは訝しんでいたが、ふたたび質問が始まった。
「では、その二。幸せになるために何をすればよいか?」
「正しい方向に歩め!」
またしても大音声が響く。
「いちばん美味しい味は何か?」
「真実に勝る味はない」
「最高の素敵な生活って?」
「智慧のある生活」
質問と解答の応酬はしばらく続いた。おもしろくないのか、舌打ちして帰ってしまう夜叉たちもいた。
「誰の声だ!」
一人の夜叉がしびれを切らしたように叫んだ。
すると強烈なサーチライトで照射されたようにダンの周囲が白く輝いた。
「私は毘沙門天だ!」
気が付くと、ダンのそばに巌のような体躯の巨漢が立っていた。見上げると瑠璃が象嵌された見事な白銀の鎧で全身を固めている。右手にブッダの教法を込めた多宝塔を持ち、左手に三叉の戟を突いてかるく腰をひねる。顔つきはVシネマも真っ青の強面である。
強烈な光線が辺りを覆い、夜叉たちは眩しそうにうずくまり、睨まれては縮み上がった。彼こそ四天王のひとり、須弥山の北方を支配し、夜叉の軍勢を配下に従える大将軍だ。また釈尊の説法会では警備にあたり、よくその法話を聞いたから多聞天とも呼ばれる。古い聖典スッタニパータにもかれの名が現れる。古代インド神話では布袋様のような福の神であった。

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