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小説 涅槃湯 09

あの世へ飛翔する栄養素

ある日の早朝、ダンとアナンはブッダが悟りを開いたという、ウルヴェーラーという土地に来ていた。ウルヴェーラーは古くからさまざまな修行者たちが集まるガヤーという聖地の近郊にある。ブッダが悟りを得てからは、ブッダガヤーとも呼ばれるようになった。近くにはネーランジャラーという川が流れている。雨期になると氾濫することもあるが、普段は穏やかな表情で水量もさほど多くない。ブッダはここで沐浴し、スジャーターという娘から乳粥の施しを受けた。そのときブッダは六年間の苦行を終えたのだった。
微かに肥やしの薫る、青々と滴る麦畑のあぜ道を歩いて、二人はその川縁に来ると、遥かにブッダが苦行したとされる急峻な岩山を望んだ。川べりの往来には小さな屋台がいくつも並んでいる。いつのまにか香ばしいカレーの臭いに誘われて来てしまったのだ。
ふたりはバニヤン樹の木陰にやって来た。
「この林は随分広いね」
ダンがいう。
「違うよ。これは一本のバニヤン樹さ」
「え?」 
「バニヤン樹は枝から無数の気根を出す。これが伸びて地に根を張ると太い幹のようになる」
ダンの目の前にあるのは、どう見ても小さな森である。枝は梁のようにどこまでも伸び、大小の気根は絡まって支柱となり、緑の天蓋を支えている。
二人はバニヤン樹の木陰に座ってカレーライスを注文した。
「ところでぼくたちの食物は、形のある食べ物だけじゃない。ブッダは四種類の食物があるといった」
「タンパク質、脂肪、炭水化物、ビタミンだ」
「それは栄養素だろ」
カレーライスが運ばれてきた。ホウレンソウと豆のカレーだ。
「いい匂いだ」
ダンは立ち昇る湯気に思わず鼻先を突きだした。
「味、香り、舌触りも形ある食べ物に含まれる。口に運んで段々と食べるから、段食(だんじき)といわれる」
焼きあがったナンをちぎると、香ばしいバターの匂いがひろがった。
「段々と食べるから段食。確かにそうだ」
「触食(そくじき)といって、感触から取り込む食事もある」
「なんのことだろう?」
「眩しい太陽、木漏れ日、暖かな炎、涼しい風……」
「腹の足しにはならない」
「触食の栄養素さ。これがないと生物は育たない。卵の孵化も親鳥が温めるからできるだろ」
「そういえば、あちらは日光浴、こちらでは木漏れ日の下で気持ち良さそうに昼寝しているね」
「ぼくたちもカレーを食べながら、触食を取り入れている」
「どんな?」
「部屋でひとりスープを啜っても美味しくない」
アナンがいうと、テーブルに影を落とす葉叢がざわざわと乱れ風が煌めいた。遠くで水鳥の囀りが木霊する。
「たしかにここは、格別美味しく感じるね」
ダンたちはあっというまにカレーライスを平らげてしまった。
「つぎのレストランに行こう」
「もう食事はいいよ。チャイがいいね」
「はゝゝゝ。つぎの食事はそういうものじゃない」
二人は木陰を出て、川沿いを歩き出した。ダンとアナンは深い森の前にでた。樹林が矩形に伐採され、黒い土壌をむき出しにしている。
「ここが次のレストラン」
「今度は畑か。種撒きしているね」
「このレストランのメニューは意思食(いしじき)。希望、思い、願いが栄養となる」
「希望を食べるレストランか……」
「こんな話がある。昔、飢饉のために飢えて動けなくなった父親がいた。彼には二人の幼子がいたが、子供たちを慰めるために、袋に灰を詰め込んで壁にかけ、あれは麦粉だから、いざとなったら食べようと嘘をついていた。まもなく父親は亡くなり、子供たちだけは麦粉に希望をつないで、どうにか生きながらえていた。ところが、やがて人が来て袋を開けると、中からは灰がでてくるだけだった。子供らは灰を見るなり死んでしまったという」
「希望は命の糧か」
そういってダンはひたすら種を蒔く農夫たちを眺めた。
「次へ行こう」
椰子の点在する青々した麦畑のあぜ道を行くと、小さな集落に入った。赤いパンジャビドレスの女の子を先頭に、背丈の不揃いな子供たちが一列にならんで歩いている。後をついて行くと、藁葺の屋根と柱だけの小屋にほかの子供たちも集まっていた。
「学校だ」
「そう。小学校というレストラン。ここでのメニューは識食(しきじき)といわれる。五感と心を使って認識を食べるのさ」
「どういうこと?」
「認識というのは、分別すること。学校では国語や算数、音楽などいろんな分別を学ぶ」
じきに子供たちの唱和が始まった。先生が節をつけて詩句を唱えると、子供たちも続けて声を張り上げる。
「元気だ」
「認識欲が満たされるのだ。しかし問題もある」
「どんな」
「分別は色眼鏡のもとだからね……」
ふたりは集落を離れ、森のなかに入った。
ここは出家の修行者たちがあちこちで瞑想を楽しんでいた。林の中は静かで涼しい。
「ここは苦行林。様々な苦行者がいる。かつて世尊もここで遊行した」
樹の下で鳥の羽根にくるまって瞑想している行者がいた。人の毛髪を衣としたものがいる。丸裸の行者は体毛をむしり取っていた。立ちっぱなしで座らない行者、跪坐のまま移動する者。棘で編んだ筵に座る者らがいた。全身の垢が堆積して躰から青々とした芽が吹きだした行者もいた。
「世尊も若い時代にひととおり試みた」
「なんのためになるんだろ」
「感覚に溺れる肉体を過酷な状況に追い詰めて弱らせ、肉体から精神を解き放とうとした」
「それで成功したの?」
「毛の先ほどの自由も得られなかったのさ」
「それで?」
「つぎに断食行を試みた。慎重に食を減らし、最後には日々の糧が米一粒となった。この苦行を世尊は六年間続けた」
仏典は伝えている。
身体は骨と皮だけになっていった。背骨は紡錘を連ねたようになり、肋骨は陋屋の垂木がヘシ曲がったように砕けた。眼窩は落ち窪んで、瞳は深い井戸の底のようだった。頭皮は苦瓜の天日干しのようになった。腹に触れようとしても背骨を掴み、背中に触れようとしても、腹の皮を摘まんでいた。排泄のために立ち上がろうとして、そのまま前のめりにくずおれ、身動きできなくなった。身体を蘇生させるために掌で摩ると、体毛とともに皮膚が剥げ落ちた。
「まさに餓死直前だった。世尊の生命を支えていたのは、希望だけだった。そこで世尊はひとつの解答を得た」
「悟りというやつか?」
「いや、肉体を極限まで苦しめても、精神は一向に自由にならないということだった。ブッダは苦行に入る前、すでにふたりの仙人に弟子入りして最高度の禅定を会得していた。しかし、苦行によって消耗した躰では初歩の禅定にさえ入れなくなっていたのだ。
弦を緩めればいい音色にはならないし、張りつめれば切れてしまう。本来の肉体は浄でも不浄でもなく、道具でしかないということに気が付いたのさ」
やがてふたりはある樹の下に来た。
「これはアシュヴァッタと呼ばれるイチジクの樹の仲間だ」
見上げると澄み渡る青空を覆うように、アシュヴァッタ樹は豊かに葉を茂らせている。
「立派な樹だ」
「肉体の健康を取り戻した釈尊は、この場所で精神の冒険に旅立った」
青々とした葉身の先端は細く垂れさがり、秋の涼風にあおられると、囁き声のようなざわめきが起きる。古代のインド詩人はそれを精霊の囁きや、楽神の音楽に喩えた。この大樹は後に菩提樹と呼ばれ、二千五百年経った現代でも多くの参拝者が巡礼に訪れる。現存の菩提樹は四代目であるという。
「段食は貪らなけれれば肉体を助ける。おなじことが触食や意思食、識食にもいえる。大事なのは、形ある食べ物と感覚の食べ物は今を生きるための栄養だが、意思食と識食は、これから生まれ変わるための未来の躰を作るというよ」
「寝てばかりいると牛になるとか」
「牛? むしろナマケモノかもね。ブッダはいった。もしある人が蛇の習慣を身に付け、意識を蛇に向け、蛇の性格を身に具えると、彼は蛇に生まれ変わるだろう。ある人がミミズクの習慣を身に付け、意識をミミズクに向け、ミミズクの性格を身に具えると、彼はミミズクに生まれ変わるだろう」
「習慣になっている思いや認識によって来世が決まるということか」
「そう、消化した栄養次第では神にも悪魔にもね」

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