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小説 涅槃湯 07

あの世への旅行

「お兄ちゃん!」
ふいに後ろから声がして振り返ると、その声の主は未海だった。
「お前、なんで?」
 サロペットスカートの未海は相変わらずの可憐さだが、ダンを心細そうに見つめるのだった。
「お兄ちゃん。わたし死んだの?」 
「死んでなんかないよ!」
 ダンは思わず妹の手をとろうとしたが、虚しく空を切るばかりだ。
「お前はデス・ラボという研究所で意識回復の治療中だ」
「お兄ちゃん。ごめんね」
 その声をあとに、未海の姿は目の前で墨色の影法師のようにかすんでいった。
「未海! 未海!」
ダンは我を忘れて叫んだ。

「すごい汗だな。気分はどうだ?」
気が付くと、ダンは薄暗い室内の寝台に横たわっていた。そこはヴァスバンドゥのあの世の研究室だった。
「妹さんを探すために、君には死の練習をしてもらう必要があったのだ」
 怪訝な顔のダンにヴァスバンドゥは言葉を継ぐ。
「天眼マシーンは深層意識にアクセスすることのできるブレイン・マシン・インターフェースだ。それは他者の脳との交信さえ可能にする。だが、深層意識には複雑な階層があり、妹さんの深い意識レベルに達するには、君には死の経験を経てもらうしかなかったのだ。」
「あいつは死んだんですか」
「死んではいないが、死への移行状態にある」
「それじゃ、前の病院と変わらないじゃない!」
 行き場のない苛立ちが怒声に変わる。
「まあ、そんなに焦りなさんな。妹さんとコンタクトできたんだろ?」
眦を決するダンにヴァスバンドゥは平然として続けた。
「妹さんの意識レベルは予想以上に低いのだ。彼女の状態に意識レベルの波長を合わすために、君にも死んでもらう必要があった」
ヴァスバンドゥは一呼吸おいて「それに、君は死の状態や、あの世についてなんの知識もない。知識のないものにとっては、あの世への旅は危険極まりない。なぜならそれは、遥か彼方へと向かう宇宙旅行のようなものだから」
「そんなことより、未海はどうなる?」ダンはヴァスバンドゥに詰め寄った。「あいつは戻れないの?」
 ヴァスバンドゥはしばらく押し黙っていたが、おもむろに口を開いた。
「彼女は死線を踏み出し、霊界を彷徨っている」
ダンは行き場のない怒りのために絶句した。
「ダン君」ヴァスバンドゥが静かに言った。
「しかし彼女の意識が消えて無になったわけじゃない。君は妹さんを探すことができるだろう。再びこの現象界に連れ戻すことは至難の業だが、不可能ではない」
 今も未海の声は彼の耳について離れなかった。それは、人工知能の創作物かもしれない。あるいは、ただの夢。しかし俺は未海をあの世から連れ戻したい。
「ヴァスバンドゥ、俺は妹を連れ戻す!」
「OK! じゃトレーニング開始だ」
「トレーニング?」
「君はあの世へのパイロットとなるのだ。だから厳しい訓練はあたりまえなのだ」
 髭の口がにんまりとほほ笑んだ。


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