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言葉と想像力

どうしてこんなに気分が沈んでいるんだろう、と考えたけれど実は原因は割とはっきりしている。

心が死んだのだ。

元来打たれ強い方だとは思うが、そんな私でも他人が安易に放つ言葉にどうしようもなく傷つくことがある。

大丈夫。まだ微かに息がある。

誰にでも、これだけは言われたくない、そして自分では絶対に言わない・言えない言葉、というものがひとつやふたつあると思う。

カッとなって思わず口が滑ってしまうこともあるだろう。それならば、まだどこか救いようがある。

あ、怒って我を忘れて思わず口走ったんだろうな。

言われた瞬間はショックだろうが、そんな風にその場の勢いで口を衝いて出る言葉についてはまだなんとなく理解の余地がある。

怖いのは、他人に与えるであろう影響もある程度わかった上で放たれる言葉だ。

一番聞きたくなかったフレーズが一番聞きたくない相手の思考から文字列となって解き放たれた瞬間、自分の耳あるいは目を疑い、虚無感のようなものが心の底から沸々とわき起こる。

この人物は今、この状況でその言葉をよりにもよって私に直球ストライクで投げて来るのか。

投手にとっては、喧嘩の際の十八番であったり、聞き手を叩きのめす常套手段なだけかもしれない。それとも何か最終通達のようなものなのだろうか。

そういう私だって喧嘩になれば我を忘れて日頃の鬱憤をはらすような言動が口から飛び出すこともある。

ただ、その場の勢いで飛び出したそれらの言葉に傷つけられるのは捕手(キャッチャー)だけではなく、その言葉を投げた本人をも傷つけるような気がしてならない。デッドボール。

刺のある言葉では誰もハッピーにはなれないからだ。

ツイッターのようなSNSが発達するに伴い、日頃から簡単に自分の思いつきをどんどんタイムライン上に垂れ流せるようになった。ツイッターでも目を疑うような投稿がたまに飛び込んでくることがある。

目に見える相手であろうがなかろうが、言葉を発する時に一呼吸置いてから発話したり、書いたりする癖を付けた方がいいのかもしれない。一旦発せられた言葉や文字になって定着した字面はもう取り返しがつかない。

他人が自分の言葉を受けてどう感じるのか。足りない想像力を働かせながら今日もこうしてテキストを綴っている。言葉は足りているだろうか。きちんと伝わるだろうか、と。

*タイトル写真はラトビアの首都リガで撮影したものです。




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ベルリンのまりこさん
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