日本語を貪るように聞いた午後
どこでどうやって知ったのだろう。詳しい経緯は覚えていない。いつものように偶然、ツイッターのタイムラインに流れてきた文字列に目が留まり嶋津さんをフォローした。彼のnoteのこの投稿がとても気になったからだ。
なんという包容力。優しさはもちろん、底に秘める力強さや淡々とした決意のようなものが溢れ出している文章に惹かれた。
ぼくが先入観や偏見で相手を判断しない理由は。国籍も、性別も、年齢も、職業も。これまでに心ないことばで大切な人が傷ついている場面を何度も見てきたから。その時々で、静かに闘ってきたから。
嶋津さんをフォローしたら、これまでもなんとなく名前を見かけたりツイートのタイムラインで見かけたことのある人たちがぼんやり浮かんできた。
ツイッターにはこんなふうに、人と人をすごい勢いで繋いで行く力がある。
それがいい方に動くこともあれば、その逆もあるのがSNSの素晴らしいところでもあり、恐ろしいところだ。
ドイツに住むようになってから、もう随分と経つが、年を重ねるごとに「日本語」に対する「情」が強くなってきているように感じる。
だからなのか、自分の琴線に触れる文章に出会うと「うわ、この人に会って実際に話がしてみたい」と、かなりストレートな欲求が出てくる。
ツイッターやスペースだけでは、どこか物足りないのだ。コロナ禍で2年以上も一時帰国ができない状況だと尚更である。
こういうのをホームシックと呼ぶのかもしれないが、それとはまた別の何か。もっと根本的な欲求なのかも。
ドイツ語やその他の外国語だと、自分の発した言葉と感情の間にどうしてもズレが出てしまう。そこが外国語の哀しいところで、自分の想いや主張といったものを直球で投げることができない。その気付きにくい日々の不満のようなものが長い年月をかけて、自分の中に蓄積してしまう。そんなストレスを払拭してくれるのが、自分の母語である日本語で気の置けない友人たちと他愛のない話をすることなのだ。
コロナ禍のロックダウンで会える人が限られてくると、その傾向はますます強くなった。一番辛かった時期に定期的に会って、一緒に乗り切ってくれた友人には本当に感謝の気持ちしかない。
「会って、話すこと」というのはそういう意味で、私にとっては死活問題なくらい必然的なことだったのだ。
そんなことを考えていたら、まさにそのタイトルで田中さんという方が今野さんという編集者と本を出した、というではないか。
まだ本も読んでいないというのに、さらには気になる嶋津さんと3人でスペースで#対話パーティの企画まで持ち上がっていた。一体なにごとなんだろう。気になるではないか。そんなわけでスペースもそれほど好きではないのだが、今日は息子が宿題を始めるまでそれはもう貪るように聞いていたのである。
久しぶりにスペースを聞いて大笑いしたし、最初は嶋津さんが少し気の毒に思えたほどだ。田中さんがのっけから飛ばしまくったからである。
「どうでもいい(なくても死なないような)仕事に、どうでもいい態度で臨む」(田中さん)
こんな名言が聞けるのだから、やはりツイッターはやめられない。そして、「会って、話すこと」は間違いなく今の私にずぶりと刺さる本なのだろう。
日本語って奥が深いし、やっぱり聞いていて一番すっと体に馴染むんだよなぁ。当たり前のことかもしれないんだけど。
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