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大きな波

今日は特にこれといったテーマがないので、自分の人生の中で何度か起こった「波」について少し書いてみたい。

大阪で生まれ、幼稚園に通っていたが卒園間近に奈良へ引っ越すことになった。賃貸マンションから一軒家へ。よくある話だ。幼稚園で朝礼台に上がって、全園児の前でお別れの挨拶をしたのを今でもよく覚えている。

そのまま、奈良の住宅地へ引っ越しをしたのだが、両親はそこで無理に幼稚園には行かさず、数ヶ月の間、毎日好きなように過ごすことができた。家の前がちょうど児童公園だったし、近くに畑も田んぼもあるようなところだ。

6歳になり、小学校へ入学。まだ開発されたばかりの住宅地だったのだろう。近所にはまだ小学校ができておらず、電車でひとつ向こうの駅にある歩いて30分くらい離れたところに1年生の間だけ通った。

いくつも団地の並ぶ坂を下り、もっと急な坂を下りると田んぼが左右に広がる。左手にもっと大きな田んぼが広がる車道を先へ行くと、大きめのスーパーが見えてくる。駅はもうすぐだ。駅の高架下を渡り、何百メートルか先にやっと小学校が見えてくる。

今から思うとかなり辺鄙な場所を30分もひとりで歩いてよく通っていたと思う。まだたった6歳だったというのに。そういう時代だ。後に、この田んぼ沿いの道で通学中の小学生が犠牲になる事件が起こっている。

2年生からはできたばかりの丘の上に立つ小学校に通うことになった。歩いて15分くらいだっただろうか。丘の上にあったので、階段を何段も上がる必要があった。

そんな奈良の家には引っ越しをしてから大学を卒業するまで、ずっと住んでいた。その家には15年くらい住んでいたことになる。

教育熱心な家庭の多い、どちらかといえば退屈な住宅地。近所には石垣に囲まれた家に住んでいるピアノの先生やコリーを何匹も飼っていた家もあった。隣の引っ越してきた住人は秋になると大きな木の落ち葉が散るといって、よく苦情を言ってきたものだ。

そんな家からなぜ、大学を卒業して全く縁も所縁もないベルリンに突然行こうと思ったのか今でもよくわからない。

魔が差した、としか説明のしようがなかった。「ベルリンに行かないと。」と半ば確信に満ちた予感がしたのである。

それがちょうど95年の4月だった。サリン事件や阪神大震災が立て続けに起こった年である。

日本で奈良の実家から大阪の大学に電車通学していたのだが、朝の満員電車も退屈な大学の講義も本当に嫌で嫌で仕方がなかった。大学で良かったのは図書館の本を好きなだけ読めたことだろうか。

当時はバブル時代真っ盛り。ボディコンやマハラジャのノリも全くピンと来なかった。大学生がブランドのバッグを持って通学するような時代だった。合うはずがない。Y'sが好きだったので、どちらかというと常に全身真っ黒。

そんな折、大学3回生の時に(専攻が英米文学だった)、アメリカには行っていたが、イギリスにはまだ足を運んでいなかったのでヨーロッパも見ておきたいなと思った。

イギリス各都市→アムステルダム→ベルリン→パリ→ベルリン→パリ

ロンドン着、パリ発のチケット。なぜかパリが全く肌に合わず、ベルリンにわざわざ列車で戻ったのである。

なぜなのか。93年のベルリンは底抜けに静かで暗かった。夏だというのに肌寒くさえあった。

ここは首都なのに何かが違う。

その異質な何かに強烈に惹かれたのだと思う。

そして、そのまま日本に帰ってもますます自分の居場所がどこにもないように感じた。何かが噛み合っておらず、常にずれているような。

それは恐らく幼少時からどこかで感じていたものだったようにも思う。小学校でも中高一貫の国立の学校に行っても同じだった。それでも、型にはまった公立よりはまだずいぶんとマシな方だったのだろう。

居ても立っても居られなくなり、またベルリンに向かった。勘違いだったら困る、と思ったからだ。2回目のベルリンの印象も変わらず強烈なままだった。

英語圏に行くはずが、なぜか独語圏になってしまったのはそういうわけだ。

そして、独語圏にやってきたというのに、ロシアに行ってしまったのも説明のしようがない。

そういう説明できない大きな波が来る時が人生には何度かある、と思っている。

それがどこに自分を連れて行ってくれるのかは全くわからない。そういうものだ。

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