ある人から突然電話をもらった
誕生日の次の日に突然、メッセンジャー経由で電話をもらった。
え、インドから?
と一瞬思ったが、もうモスクワに戻っているのだと彼は言った。
あそこだよ、まだあの家にいるんだよ。
懐かしさが溢れて止まらなくなった。ベルリンから何度その家へ足を運んだことだろう。まだ20代だった頃の話だ。彼とはつたないロシア語でそれはもうありとあらゆる話をした。会話が尽きることはなかったし、たとえ会話が尽きたとしてもその静けさがまた心地よかった。自分でいられる、そういう相手だ。
それはもう形容し難い複雑な気持ちと色んなことへのタイミングが合わずモスクワを離れたのが2001年の夏。
それから撮影の仕事でサンクト・ペテルブルクへ行ったのと、モスクワを一度再訪したのを最後にモスクワへ行く機会を完全に失ってしまった。
声を聞くと当時の想いのようなものとそれを俯瞰する自分がいて、妙に不思議な気分になった。当然のことだろう、もうずいぶんと時が経っているのだから。
モスクワの街も大きく変化し、住んでいる人もそれぞれの生活に合わせ多少なりとも変化をする。変わらないものなんてないのだ。それでも、根本的に変わらないものもやはり存在するので、その部分がまだ失われていないような彼の言葉にはどこか安心感があった。
この人に出会えて本当によかった。
今でもその気持ちは全く変わらない。向こうも恐らくそう思ってくれていることだろう。こうやって誕生日の前後にたまに電話をくれるように。
電話の最後でお互い当時の気持ちを思い出したのだろう、どちらからともなく笑いが漏れた。
なんだか、昔みたいだよね。
ほんとだ。
死ぬ前に一度はまっすぐ目を見ながら話がしたい、そう思える人がいるのは本当にありがたいことだ、15分ほどの会話を終えてそんなことを思った。
当時の友人たちとはまだ交流があるのか聞いてみたが、ほとんどの友人がいまだに飲むことも吸うこともやめないし、興味がなくなってしまった、と言っていたのが気になった。街並みがいくら変化しても、生活スタイルというか生き方そのものはあまり変わっていないのかもしれない。以前から刹那的に生きている友人が多かった。
街に嫌気がさしたら郊外の家にひとりで篭って、メディテーションをしたり、仏教の本を読んだり、サンスクリットの勉強をしたりするのだそうだ。完全に悟りを開いてしまったかのような彼の言葉に世捨て人のそれを連想した。
昔からマイペースで飄々とした人だったが、一時期モスクワに嫌気がさしたのかふいっとインドに渡ったことがあるのだ。確か6年くらいは住んでいたはず。それでも、生粋のモスクヴィッチはやはりモスクワに戻り、元いた古巣に戻っていた。それはある意味、羨ましいことだ。まだそうやって帰る場所があるのだから。
日本に帰る場所がなくなってしまっても、ベルリンとモスクワに帰る場所があれば、それはそれでいいのかもしれない。海外生活が長くなればなるほど「いつでも安心して帰ることのできる場所」の意味合いがとても大きくなってくるような気がするからだ。
*タイトル画像はみんなのフォトギャラリーより illust_himeさんのイラストをお借りしています