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祈りのサイエンス〜色即是空〜

こんにちは。yamaki-doです。
今日は生活していて思う宗教的な疑問のお話になります。

お経のある生活

高校時代はこの見出し画面にある神宮文庫の黒門(御師邸門)をくぐって毎日通っていたように、伊勢志摩出身のわたしにとってお寺や神社は生活に溶け込んでいました。住職さんや宮司さんの知り合いも身近にいたので、宗教行事はなにか生活と切り離したところにある別のものではなく、すでに日常生活のなかの一部となっていました。般若心経はもはやライター的な感覚で引っ越しのときは梱包して一緒に持っていき、癒やされたいときにキャンドルに火を付けたらそれを読む、ぐらいの感覚でしたが、最近になってようやく、そういう人が実は少なくて自分が少数派だということを認識しました。

イスラム教と科学

それほど、日本では日常から切り離されている宗教ですが、わたしは割と高校を卒業した頃から、もっと宗教的な実践がしてみたいという好奇心があり、だからこそ、イスラム教にも興味を抱いていたのかもしれません。日々、生きていることの奇跡に対して何らかの形で表現したくて、その方法を探したいという気持ちに突き動かされていました。大学時代は、中東を旅行したり、ムスリムの友達が増えるにつれ、「祈りとは」や「信じることとは」といった話をする機会が自然と生まれ、自分のなかにあった疑問や不思議に思っていたことについて、さまざまな視点から意見を交わすことができました。
そのような中で、宗教について一番大きく考え方を変えさせられたのは天才的なムスリムの夫婦からでした。彼らはクルアーン(イスラム教の聖書。語根(قرأ)読むから活用。読み物の意)に書かれている、一節の科学的根拠を数学で証明することに、どこから来るのかさっぱりわからない情熱で熱中していて、夜の3時までかけて作ったパワーポイントを使って説明してくれました(いや、本当にいみがわからなかった)。説明が始まって私たちカップルはすぐに寝落ちしたので、内容は殆ど覚えていませんが、何やら、クルアーンの一節にある「一刻」という時間を導き出すために、地球と太陽の距離とか、自転とか公転とかを計算していくと、秒速が値として出てきたから、神は啓示で時の速さを示されたという話だった気がします。
その話には全くついていけなかったのですが、宗教書を科学的に捉える視点がとても新鮮で、その後も中東赴任の機会など、様々な場面で文化的な背景や民俗学的な考察をする際に、別の観点からの大きな示唆を与えてくれました。
このエピソード以外にも、化学、錬金術、アルゴリズムなど、科学や工学の分野でアラビア語由来の言葉がすでに英単語として普及していたり、古代エジプトの天文学など、中東における科学の歴史は深くまた広がりも広く、人が幸せに生きるためのエッセンスがこれでもかというほど盛り込まれていて本当に興味深いものがあります。

ノーベル賞と般若心経

祈ることを掘り下げていくと、それは願うことと全く違うものであることがわかってきます。そこにはいつも実践という能動的な行為があり、信じるということのは、棚ぼた式に何らかの利己的な結果が来るのを待つということではないということがわかります。宗教書にあたるということは、数千年前の智慧にあたるということですが、それは、単に懐古主義に浸るのでもなく、そこに書かれている字面をただ単に覚えることでも、起こりもしないミラクルを愚直に待つことでもない、ということです。
糸川英夫は『般若心経と最新宇宙論』で、日本初のノーベル物理学賞者の湯川秀樹博士が次のように伝えたと残しています。

ノーベル賞を受けた中間子理論のヒントは 「 般若心経 」 に書いてあるんですよ。色即是空によって現代物理学が見事に説明できるんです。しかも今日では実験的に証明されているんですね

1000年後にりんご教が布教している可能性

情報の伝播ということを考えたときに、ふと、わたしたちはその倫理的・哲学的な荘厳からそれを伝え守ってきたのか、それは生活に必要な科学技術であったから、残ったのかということを考えることがあります。そのときに、パソコンやスマートフォンの浸透によりもたらされた生活の変化から、伝播するものの種類や性質を併せて考えてみたとき、後者なのではないかと思うことがあります。
それでも、やはり人間はいつの時代も単純で愚かしいので、手段がだんだん目的化し、もしかしたら、数千年の後の世界では、appleの創立者の自伝が、りんご教として変化していき、全く違う生活様式の未来の人間たちが、宗教的儀式の際に、祭壇にりんごと人参の供物を並べ、古典的な様式美として黒のタートルネックとジーンズを着て、教会の宝物庫に所蔵された過去の遺物であるipadを経典として持ち出し、祈りを捧げているかもしれません。

まだまだ未知で既知の世界

過去のものはあまねくすべて古く、何も新しい発見はない、という考えをするより、もしかしたら、今でも宗教を必要とすることの裏には、実は数千年前にはすでに知っていた未知の既知が、素粒子のように、長い年月の間、自然災害や、紛争、民族移動などを繰り返している間、いつの間にか忘れ去られてしまい、だからこそ経典がいまでも人類にとって必要とされ残り続けていて、それを解き明かす旅にいざなわれているのではというロマンを感じたほうが、楽しそうですね。

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