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金原ひとみ『持たざる者』 感想

妻子と離別したグラフィックデザイナーの修人、修人のかつての愛人で現在はシンガポールで家庭を営む千鶴、千鶴の妹で自由奔放に暮らすシングルマザーのエリナ、エリナとイギリスで出会い、駐在員の夫の帰国が決まった朱里。震災、死別、家庭環境の変化、ある日突然、日常は歪む。人はそれをいかに受けて生きていくのか。立場の違う四人の葛藤を描くことで現代社会の風潮を照射した傑作小説。

集英社文庫『持たざる者』より引用 あらすじ

全体観

 何も持たない状態で生まれる。まず有に固執し、それを喪失する。喪失を味わって私たちはより一層有に固執する。しかし有を得られなかったという事実が重くなり、絶望する。もう何もいらない、と今度は喪失に固執し、固執すればするほど喪失さえ自分の元から逃げてゆく。そして私たちはまた何も持たない状態になり、生まれる。

 このくり返しで保たれる私たちの毎日が最大限効果的に描かれている。『持たざる者』は執着の物語であり、それに苛まれる者のある種の無力感を、楽観的に描くことも悲観的に描くこともしない。それは人生そのものに対する見方として理想的であるように思える。理想的である、と断言しないのは、その持ち上げ方自体"執着"に該当する場合があるからである。何かを得ようという原動力で動くことも、何も無いんだからという原動力で動くことも、そのどちらも真であり、同時にどちらも偽だ。この物語は、真偽からの逸脱を図っている。四人の人物を真と偽の間で揺れさせ、物語の中の最後では真か偽のどちらかに寄せる事によって逸脱を表しているように見える。完全な逸脱の位置に意見の腰を据えることは、結局執着に他ならないからだ。
 私たちは常にある意味での執着をしながら生きてゆく。

何も持たないということ

 私は執着をして生きていかなければならないということが怖くなることが多々あって、その度逃げてきた。どこにも所属したくなかったし、なにかを得ようともしたくなかった。
 金原作品内に出てくる人物は何も持っていない者ばかりだ。
『蛇にピアス』『アッシュベイビー』『アミービック』『オートフィクション』『アンソーシャルディスタンス』
 読んだことのある作品のどれも、何も持たない者が出てきた。あらゆるものから逃避しながら生きてきた私にとって、ついにどこにも所属しなく(極めて流動的に)なり、ただのなんのスキルもない19歳になった私にとって、金原ひとみの小説は私の身体にしっくりと馴染んだ小説だった。特に『蛇にピアス』『アッシュベイビー』『オートフィクション』の主人公は年齢が近く、作品中の、自分を壊したい壊せないけど壊したいんだよもう全部わかんない壊したい! という強烈な欲求に深く共鳴した。何も持っていない女の子の話。この話を読む為だけに私も何もなくなったのだ、と思う程だった。
 昔から私は自分が生きているか死んでいるか分からなかった。それは私にとって悲観的なものでなく、ただ当たり前なものだ。いつも白昼夢の中にいるような感じ。その感覚は本作の無力感、逸脱感に似ている。作中にてエリナの、私は昔からどこにもいない宇宙人のよう、地球に生きていない、という趣旨の記述があるのだが、まさにそんな感じ。私が作中で最も共感したのはエリナであった。
 私は、そんな状態なのに何かを得ようとしたり所属していたりすることがひたすら怖かった。だから高校を辞めた時とても安心した。高校は楽しかったけれど、それとは全く別の話で、私は所属から逃げたかった。たまたま高校だっただけで、高校でないどこかに所属していたらその所属から全く同じ感情で逃げたがっただろう。辞めて、ようやく自分が戻ってきたとさえ思った。何もない者は、何もない場所にいるべきだと当たり前に思っていた。
 金原ひとみの小説を読んで、私の態度は少しずつ変わり始めたと思う。金原作品内の人物は、何もないまま誰かと会い、すべてを壊したがり、壊し、壊せないという壊れ方をしたりもする。そしてまた何もなくなる者もいた。相変わらず私には何もないが、ただ私はなにかを渇望し執着し生きてゆく。何も無くなればまた生まれる。毎日がすり抜けてゆく途中で私たちは熱にしっかりと触れている。
 金原作品に蠢く痛みや熱は、愛おしい。愛おしさはすぐ逃げてゆくけれど、また欲求することができる。欲求は、嬉しい。時に恨めしい。金原作品の良いところは、欲求に対する感情の制限を感じさせないところだ。それはすべての人物がすべての欲求に身を任せて動いているという意味ではなく、血の巡りのような無意識下の欲求を限度を超えるほどの近さで、速度で認識しているということだ。
 いつかは何も持たず死んでゆくのだ。『持たざる者』は、何もないまま触れようとしたっていい、という許しに似た眼差しを感じる作品だった。

震災、死別、家庭環境の変化

 私は小学生のころ牛乳アレルギーということになっていた。両親、主に父が放射能の影響を気にしてのことだった。放射能を気にして学校では牛乳を飲まない、ということは友達や先生に話してはいけないと言われた。私が小二の時父が亡くなっても、その約束はなくならなかった。私にとってそれは不思議な経験だった。約束という私を心配した証拠のようなものが、父がいなくなっても私の手元にある。
 『持たざる者』には、放射能が子供へ与える影響を気にする親が二人ほど(主人公二人の他にもいたはずではあるが、作中での正確な人数は覚えていない)現れる。彼らの心配や時に空回りしている焦りを父に重ねて見てしまったのは当然のことだろう。当時は父の気持ちなんて微塵も分からなかったけれど、今になって父の感情が手に触れられそうなものとして浮かび上がってきたようで、おもしろかった。
 主人公のひとりである千鶴は、自分の子どもを一歳で脳症で亡くしている。その際の深い喪失、世界が崩れたような気分、その後の人生に対する見方が、私の父に対するものと少し似ているような気がした。千鶴は、息子の喪失にその後の自分の人生のゆらぎを意味付けしてしまうことに対して葛藤していた。私もそうだから、どうにもならないような葛藤に共鳴した。
 千鶴の妹であるエリナは、自分の人生がただベルトコンベアに乗っているかのような感覚を覚えている人物だ。全ての決定は全てわたしの意志の前に決まっていると思っている。それはまさに私もそうだった。今の私の生き方は、エリナに酷似している気がする。
 修人は、私の数ある内の未来の選択肢のひとつのように見えた。私もいつか、ライフステージも上がった状態で何もない状態になるはずだ。それは今何もないのとは訳が違う。性差によるものなのか私は修人の受動的に強引な感じに少々辟易とし、なんとなくいざ中年で何もなくなったときの参考にはならなそうな印象を受けたが、本当に職も家族も何もかも失った人のサンプルとして、私にとって自分事であり思わず背筋に力が入った。そして、何も持たぬ者になっても、修人には自身の子供や過去の仕事経験があり、実は全てを失っている訳では無いという事実がある。
 朱里は、私にとって少し怖かった。それは朱里がすべてを得ようとする過程にいるからであった。その病的なまでの執着。朱里は全てをきちんと手中に収めようとする。それは世間一般的に見れば当たり前の範疇である気がする。世間は、なにかをきちんと得ようとすることを評価するからだ。そんな朱里目線で締められていた本作は、全てを手中に収めた朱里も"持たざる者"であるということを私に思い出させた。狭い家庭の中で全てを手に入れた朱里は家庭を出れば何も持たない者であるし、そもそも家庭だってこの後も流動する。そして朱里は、いつも"今"の幸せに気づいていないようだ。それは、物質的に全てを持っているようで、心は何も持っていないということにもなると思う。家庭への理想を絶対的に掴もうとし、いざ掴むと、その先待っているのは理想との乖離である。人の内情が剥き出しになる家庭内では、完璧な理想は成し遂げられづらい。

 震災、死別、家庭環境の変化、それらによってなにかが崩れてゆく音はするけれど、崩れているものには触れられず、触れられないという焦燥に駆られて執着に溺れてゆく。執着は美しく、醜く、縋り付きたく、手放したいものである。

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