2024年4月7日の正午
アトリエのベランダでポール・オースターの『孤独の発明』を読んでいた。
「見えない人間の肖像」と「記憶の書」の二編から成る『孤独の発明』はとても奇妙な本で、大雑把に言えば親子、家族にまつわる物語なのだが、語り手の存在が幽霊のように揺らぐので、読んでいるうちに今自分が誰の声を聞いているのかがわからなくなってくる。もちろんだからといって駄作というわけではなく、むしろ物語が要請するすべての声、いってみれば死者の声をより合わせたようなその奇妙な語り以外では、この物語を記述することは不可能だったろう。
「ちゃんと喋れ」という声がしてわたしは本から顔を上げる。
鎌倉街道に面したアトリエのベランダからは、コミュニティバスのバス停が見下ろせる。
バス停には小学生くらいの女の子がふたりと、父親らしき30代前半くらいの細身で黒いキャップを被った男、母親らしい紺色のワンピースを着た女性と、未就学児に見える男の子が並んでバスを待っていた。
男の子が母親の陰に隠れるような格好で、ここからは聞き取れない言葉を発する。
すると父親がふたたび低い声で「ちゃんと喋れ」と言うのが聞こえる。
女の子のうちの一人が異様にはっきりとした口調で「フタが開けられないから、誰か開けて欲しい」と言う。
鍔広の帽子から垣間見えた母親の顔には笑顔が張り付いていて、父親が平手で男の子の頭をはたく。
「ちゃんと喋れ」と三度、男が言い、女の子の一人が「ちょうどバスが来た」とセリフのような滑舌で言う。
男の子は何も言わず、母親の表情は変わらない。
男はゆっくりとバスがやってくる方向を一瞥する。
バスが来て、誰もいなくなる。時刻は正午を過ぎた頃で、昨夜見た予報とは裏腹によく晴れていて、わたしはこれから知人たちと花見の約束をしている。
わたしは本を閉じる。
バスにはすぎ丸という名前がついている。乗り物に名前が付いていたころ、というタイトルが村上春樹の『羊をめぐる冒険』の中にあったような気がする。自動車にカットグラスの花瓶があったころ、というタイトルがカート・ヴォネガット(まだJr.だったころ)の『猫のゆりかご』の中にあった気もする。
誰かと最近よど号の事件の話をした。その流れでというのも不謹慎な話だが御巣鷹山の事故の話になった。
一昨年、東京での公演に間に合わなかったので大阪まで野田MAPの『フェイクスピア』を観に行った。わたしが乗っている社用車は中古で手に入れたもので、わたしたちはその車のことを「坂本」呼んでいる。白い車体に黒い丸ゴシック体で「坂本電気商会」というペイントがしてあるからだ。