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ラベリングによって対話でなくなる:「反」出生主義というラベル
ZAC&ZAT@ただいま日常のハテナで雑談中の、ZACです。
ザクと読みます、よろしくお願いします。
今日も、stand.fmで配信したお話から少し切り取って、お話します。
このラヂオでは、現代人にとって創造のハードルが高くなってしまっていないかという前回取り上げたテーマの続きで、創造的ではない議論とは何かを中心にお話しています。その例として取り上げているのは、「『反』出生主義」というラベルです。
「反」とついていることで
反出生主義というラベルですが、そもそも、出生主義という言葉はあるのでしょうか。私たちは特に調べていませんが、おそらく存在しないでしょう・・・。出生を歓迎することを”主義”として自覚していない人が多いのではないかと思われます(そもそも、自分の考え方を何主義と自覚している人は少ない、”主義”という言葉こそ、他者から貼られるラベルの代表格である気がします)。
私たちは、反出生主義の考え方を否定しておらず。そうではなく、「反」とついたことによって、何かに反対してます、抵抗します、と意図せず宣言させられてしまっている人もいるのではないか、と考えています。
この「『反』出生主義」、の考え方に賛同する人は、自分たちにどのようなラベルをあてはめられたかったのでしょうか?そもそも何も期待していないかもしれません。もしかすると、この考え方に賛同する人は、このようにラベリングされることで、「ああ、私は何かに反対している立場なんだな」と自覚させられてしまっている可能性も否めません。
この「反」がつくことで、抵抗しつづけなくてはいけない(実際に抵抗したい人もいると思いますが)立場に意図せず纏められてしまっているのかもしれず。そうすると、本当は多面的な議論が、YesかNoかの単純化された議論に追い込まれがちではないかと危惧しています。
持論のぶつけあいで終わってしまう
例えば、
「生まれていない99人が幸せになるが、生まれていない1人が不幸になるなら全員生まれないほうがいい」という主張を聞くことがあります。この主張に関して、”幸せ”と”不幸”というラベルをN極:S極のように対立的に捉えてしまうと、「『反』出生主義」とラベリングされてしまった人たちに対し、”それは1人のために99人の機会が奪われるということですか?”という質問になりがちです。ラベルの上にさらにラベルが・・・・
こうなってしまうと、水掛け論で、そう思うか思わないかのぶつかり合いに終始していきます。ちなみに、このような議論は何度か拝見しました。「反」とラベリングされたことで戦い続けなければいけなくなってしまっているように見えます。
そうではなく、幸せである、不幸せであるとは何をもってなのか、幸福とは何か、あなたにとっては何か、私にとっては何か、99と1というボリュームが定義できるようなものなのか、といった前提を確認するような議論が本来は必要な気がします。
無常の悟りなのか、辛いのか
この考え方のように、生きること、生まれることは苦しみである、というのは、世界史上繰り返し出てきたものであると感じています。ある種、無常に対する悟りだとも見えます。
ただ、ご本人悟っているのではなく、今辛いと感じているのだとすると、また話が違ってくるのかなと思います。「反」なのか、そうじゃないのか、YesかNoかなのかの戦い以前に、本当は、ヘルプを求めているのかもしれない。
主義一つで括られてしまっていますが、様々なグラデーションがあると予想しております。名詞、ラベルは情報圧縮して用いるに便利なのですが、纏めすぎる力がある。その名詞は、対話の相手も同じ意味で使っているのか?幸福とは何か、の前提を確認することも有用でしょうし、そもそも、私に求められているヘルプがあるかもしれない、と、他者に対する想像が必要な気がしています。これはリスペクトであったり、思いやりというものです。
最後、至極凡庸なまとめですが、「ラベリングのパワーに飲まれず、思いやりを」ということです。