人はいつプロになるのだろう?

仕事を始める時に名刺を作ればスタート出来る。基本的な「宣言」から物事は動いていくものと思うけれど、「完璧なプロフェッショナルです」と言えるのはどのタイミングなのだろう。

「まだ初めたばかりなので」言い訳を前提にしてしまうこともある。なんでも一歩目は難しい。特に仕事となれば見積もりの立て方が分からない。どれだけ時間を費やし、どれだけ費用がかかるかさえ分からないのだから。

そんなでもいくつか仕事をすれば実績が積み重なる。評価が良ければ周りに宣伝してもらえる。そうして仕事は広がっていく。ここの段階に入ると、紹介してくれた方の信頼もあるからこそ、プロ意識は一層高める段階に入っていると思う。お金を受け取るのだから、この前の段階からプロで変わりないけれど、自分の手を離れた場での信頼を維持することは簡単ではない。

この段階でのプロは「こだわり」というよりも「意識」だと思う。携わる物事にこだわり始めるタイミングだけれども、クライアントを置いてけぼりにしてしまうのは異なる。あくまで支えてくれる人はクライアントであり、数少ないファンでもある。ダメ出しこそ自分を育てるモノかもしれない。
仕事への向かい方、クライアントの汲み取り方、そうした初めの一歩を噛み締めて自分の意識の中に定着させる時間が続く気がしている。

いくつか仕事が進むとまた更に世界が変わる瞬間がある。僕が今感じているのがここ。

機器が買えるくらいになったからと、ようやくスタートした映像制作。それでも当初は最低限の設備しかなかった。HDカメラ1台に今まで使ってたMacそれだけ。
今は様々なご縁で最新の機材を借りれるまでになった。でもやっぱり撮影は下手くそだと思う。まだまだ満足行くものはない。
とにかく数を撮ることで、使える映像を抽出することで組み立てている。

僕の映像制作はシナリオがない。ほぼアドリブで進んでいくことが多くて、結果的に編集で全てが決まる。広告の世界ではありえない進行だけれども、予定調和の中に生まれる映像はキレイでも、なんとなく一時の消費で終わってしまう様に感じてしまうから。いや、それは言い訳だ。どのレンズを使ったらどんな映像になるのか、使いたい構図があってもその撮り方が分からない。だからシナリオが建てられないと言ったほうが素直かもしれない。

僕が撮らなくても良い映像は僕が撮る必要がない。むしろ僕以外の人が撮ったほうがそうした映像は良いものが出来るだろう。

では僕は何が撮れるのか。

ショートのドキュメントムービーを作成する機会があり、それに望むに至って色々な人と意見交換をした。一番心に響いたのは、今自主映画を作成している監督さんの言葉。「無名な新人監督の作品を最近見ると勢いがあって良いんだよね。画質がボロボロでも画面いっぱいに拡大しちゃったりする。でもそれが見せたいんだからそれで良いんだよ。むしろその方が伝わってくる」と。
そして「そんなの正しい撮り方じゃない。編集もダメ。って言われてもいいじゃない。40歳超えても子どもみたいな気持ち先行で編集した作品だって良いと思うんだ。怒られる映像作ろうよ」って。

当たり障りの無い美しい映像を並べていたファイルを全て消して、全部作り直した。自分が伝えたいこと、自分が作りたいものを作ることにした。撮影が下手くそなんだから、思い通りの映像が撮れてるはずがない。そもそもドキュメンタリーの撮影に先は見えない。だからむしろ、アップが欲しければ3倍にだって拡大した。

「伝えたいことも1つに絞った方がいい」「状況が分からない人が迷わない仕組みも必要」監督からのアドバイスは多岐に渡る。全てを反芻しながら持てる全ての時間をそこに注いだ。

完成した25分の映像はパーティーの冒頭で流れた。クライアントの社長も言っていたけれど最後まで飽きずに皆が見てくれるか心配だった。
会場のスクリーンで見ると、自分が編集している27インチのパソコン画面とは全く異なる印象で飛び込んでくる。緊張感がたまらない。

でも、驚いたのはほとんどの人がスクリーンを最後まで見ていてくれたこと。関係者ということもあるけれど、これは本当に嬉しかった。

一歩ほんの一歩だけ階段を上がれた気がする。
そしてもう一歩に向けて、今日も歩き続ける。

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