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800年前、疫病流行る鎌倉時代を生きた人たち

新型コロナウイルス感染拡大を受けて、わたしは疫病が流行した800年前の鎌倉時代の人たちの様子はどうだったのか気になりました。特に仏教者・日蓮(1222-82)の遺文から、ある程度の当時の世情と、それに対する日蓮の対応をくみ取ってみようと思いました。(一応、疫病=えきびょうとは伝染病のこと)

鎌倉時代は疫病のみならず、震災や飢饉、内乱、さらにモンゴル帝国の侵入の危機で知られているように、人心揺れる世の中でした。今回紹介する阿仏房(あぶつぼう)という佐渡(新潟県佐渡市)在住の弟子の妻、千日尼(せんにちあま)に宛てた手紙等によれば、日蓮が身延山(山梨県)にいた時期で、弘安元(1278)年までの2年ほど疫病が続いていたようです。

阿仏房は、日蓮が佐渡へ流罪の身となった時に知り合い、弟子となったといわれています。高齢だったようですが、佐渡から、当時日蓮が暮らす身延まで訪問し、妻・千日尼から日蓮へ宛てた質問の手紙も届けました。(佐渡から身延までは直線距離だと290キロメートルほど)
千日尼への返信から、日蓮が疫病流行のなか弟子たちを気づかう様子が見てとれます。

さて、去年、今年と続く疫病のありさまは、どうにかならないものかと、心もとなく思い、法華経に懸命に祈念していたのですが、いまだ気が晴れないでおりました。
そこへ7月27日夕方四時ごろ、身延で阿仏房を見つけて、私は「あなたの奥様の尼御前は、ご無事でしょうか? (同じ佐渡の弟子である)国府入道(こうにゅうどう)は、ご無事でしょうか?」とはじめに問いました。
阿仏房は私に「まだ疫病には罹っていません。国府入道は途中まで道を共にしていたのですが、稲刈りの時期がすでに近づいていました。国府入道には、代わりにやってくれる子どもはいません。どうしようかと言って途中で引き帰していかれました」と語られていました。
それを聞いている時、盲目の者の眼が見えるようになる、あるいは、亡くなった父母が閻魔王の宮殿からこの世に訪れる、そんなことを夢の内で見て、喜ぶような心地でした。ああ何ということでしょう、不思議なことです。
こちら身延も、鎌倉も、私の同胞の者のなかで疫病にかかって亡くなる人は少ないようです。(疫病が流行する日本国という)同じ船に乗っているのであるから、いずれも助かるとは思えずにいたのですが、船は沈んだものの助け船に巡り合ったのでしょうか。あるいは竜神が助けてくれて、無事に岸に着くことができた。そのような不思議を感じたのでした。
私訳。「千日尼御前御返事」。『日蓮大聖人御書全集  新版』(池田大作監修、『日蓮大聖人御書全集  新版』刊行委員会編、創価学会)1742-3ページ、『新編日蓮大聖人御書全集』(堀日亨編、創価学会)1314ページ、『日蓮文集』(兜木正亨校注、岩波文庫)130ページ等を参照。

ここで日蓮が「阿仏房を見つけて」と述べているということは、自身の住居周辺を訪問した人をいちいち把握できないほど多くの人が出入りしていた状況が推測できます。確かに、日蓮は別の弟子への手紙のなかで、

(身延の私の住居周辺には)少ない時には40人、多い時には60人はいます。どうにかしてせき止めても、こちらにいる人々の兄であると言って来たり、弟であると言ってやって来て、居座っているので、気兼ねして何とも申せずにいます。心の内では、静かに庵室をつくって小法師と私だけで法華経を読誦したいと思っているのに、これほど面倒なことはありません。また年が明ければ、どこかへ逃げようとさえ思います。
私訳。「兵衛志殿御返事」、弘安元年11月の手紙。前掲『日蓮大聖人御書全集  新版』1496ページ、『日蓮大聖人御書全集』1099ページ、『日蓮文集』135ページ等参照。

と記しており、人の賑わう様子が伝わってきます。話が逸れました。

ともあれ、「あの人は大丈夫かな」「この人はどうしているかな」と安否を気づかう日蓮の息づかいをシェアしたく、ここに書いてみました。■

続篇はこちら。800年前、疫病流行る鎌倉時代を生きた人たち②

写真は富士山と桜

【「疫病と日蓮」については、ブログでより詳細に研究しています。ご興味あればご覧ください】