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日蓮の「竜の口の法難」をどう解するか

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文永8年(1271年)9月12日、日蓮(1222-82)が夕刻に鎌倉で捕縛され、郊外の竜の口に連行され、深夜に斬首の危機に遭った難、「竜の口の法難(龍口法難)」について

奇跡とか神格化なのか

私はこれを、妙法に帰依した人間としての振る舞いの極地、象徴的な出来事として拝察しています。
処刑の際に「光り物」が出たことと、難を逃れたのが日蓮の人としての振る舞いによるのだと解釈することは、矛盾しないと考えています。江の島の方から「光り物」が出た事実を語ること自体は、奇跡とか神格化でもないでしょう。それによって難を逃れたんだと解釈するのも物語としてはありですが、それが日蓮が奇瑞を呼び起こしたと「だけ」解釈し脚色するなら、受け入れ難い人もいるでしょう。しかし中世の神話的世界観を生きた人間の叙述としては、別にありなのでは?とも思います。

私としては、草庵を襲われた際に当時の警察トップと言える平頼綱たちに「あらおもしろや、平左衛門尉がものくるうを見よ。とのばら、但今、日本国の柱をたおす」と毅然と放ち、皆慌てたこと、刑場へ連行される途中、若宮大路で馬から降り八幡神を叱咤する姿、また弟子の四条金吾を呼んで、泣きじゃくる金吾を激励する姿、そういう一連の日蓮の人間としての振る舞いを見ていた当局の武士たちは「この人を斬って本当にいいのだろうか?」と疑念が募っていったのではないかと考えています。そこに「光り物」が現れ、さらに日蓮も「早く斬りなさい」と叫んだ。兵士たちも恐れ慄いて逃げてしまった。これは奇跡とか神秘的とは違うのではないか。処刑が失敗に終わり、その後、厚木の依知に滞在中も、酒を取り寄せて武士に振る舞い労い、数珠を捨てて念仏を捨てますと誓う人も出たと言います。そして北条時宗から「この人はとがなきひとなり」との追状が届きます。

日蓮は自分の振る舞い、言動で事態を打開していった。それに人間関係、中世的な表現で言えば諸天・神々も呼応した。過去にも襲われ、自分も殺されかけ、流罪され、弟子も殺され、それを経ての竜の口の法難における日蓮の振る舞いは、法華経と妙法に帰依した人間とはどういうものか、自らの言動で語った、象徴的な出来事でしょう。
それは、宗派ごとの拝し方、一般人向け・教養としての仏教として説明とかに囚われない枠で、理解できないものかと思っています。

参考にした論考、雑感

○「龍口法難の必然性」という論考が故・川添昭二氏の『日蓮とその時代』(山喜房佛書林)に収められていて読んでみました。蒙古襲来の危機の中、法華経専修による日蓮の言動は反防衛体制的、悪党的行為をとるものと当局に解され、弾圧は必然とのこと。こうした宗教社会史的な視座も突き合わせて考えたい。
この論考の冒頭で
『史徴墨宝考証』第二編第一巻、重野安繹考
田中智学『龍口法難論』
山川智応「龍口法難事蹟考証」(『日蓮聖人研究』第二巻所収)
佐木秋夫『日蓮』
高木豊『日蓮とその門弟』
を挙げて竜の口の法難の研究史を概観していました。

○ちょっと気になる論考を見つけた。
小林正博「竜口法難と平頼綱」
jstage.jst.go.jp
印度學佛教學研究, 1990 年 39 巻 1 号 p. 380-378
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/39/1/39_1_380/_pdf

○「少なくとも日蓮は、諸天の加護で竜口の虎口を脱したことを明確に語っている。文永九年五月に佐渡で書いた書簡「真言諸宗違目」(真蹟現存)である。「問て云く、汝、法華経の行者為らば、 何ぞ、天、汝を守護せざるや」(御書一四一頁)との設問を設けて、それに答える最後の結論部分で次のように述べている。「去年九月十二日の夜中に虎口を脱れたるか。『必ず心の固きに仮りて、神の守り即ち強し』等とは是なり。汝等・努努疑ふこと勿れ。決定して疑ひ有るべからざる者なり」(御書一四一頁)…このような祈りの力を合理的に推し量ることはできないと思う」山中講一郎『日蓮自伝考』171-2頁より

○確かに中山法華経寺に現存する直筆に見られる。41コマ目

○その昔、『星の古記録』(斉藤国治著、岩波新書黄版)で、竜の口の法難における光り物は、おひつじ・おうし座流星群(母彗星はエンケ彗星)の一流星だと解釈した広瀬秀雄の研究が紹介されていた(111-2頁)。山中氏前掲書のような探求、教学的な機運みたいなものは、今どれほどあるのだろうか。

○高校生の時、先輩に「竜の口で光り物が出たって何なのよ」と詰め寄られたことがあり、「あっちゃいけないんですか?」と返したら相手が黙ったのを思い出した。そのタイミングで現れたかどうかと、それを奇跡のように語ることとは別。不可解、不思議であっても、日蓮自身は諸天の加護だと思っていたし、その語りは当時としては不自然ではない。確かに「いかなることにやよりけん、彼の夜は延びて」御書新版1526頁とありますが、日蓮は別の著作では「日蓮と言いし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ」と述べ、刎ねられてないのに刎ねられたと述べています。前者は何とも煙に巻くような表現ですが、日蓮の手紙にはままあることですし、一つの事象に対し様々な言い方をするのも、時と場合、立場、相手によって使い分けているようです。(後者は開目抄、102頁)

○高木豊『日蓮』では、竜の口の光り物はガン無視されてますね(増補改訂版、太田出版、92頁)。しかも「結局は死刑を免ぜられ、流罪に処されたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる」とはちと極端ではないか。伝説を排除した客観的な日蓮伝と謳いながらもこれは冷静さを欠くのではないか。

○ストーン氏による日蓮伝の研究。これは読んでおきたい。
"Biographical Studies of Nichiren" (1999)

(これだけ惜しみなく公開されているのは感謝の他ないが、日本の論文では引用、参考文献に挙げられることが少ないと思う。日蓮が研究され尽くしてるとは思いませんが、英語ができません、では損するし、自分が英文献も読み進めるのは日蓮研究の別の視角を探したい一心という感じ。■

写真は近代における日蓮像の形成に大きな影響を与えた小川泰堂著『日蓮大士真実伝』から。版により挿画が異なるようです

注記。私は創価学会の青年部に所属し日蓮仏法を信仰していますが、このアカウントであえて学会の教学を紹介する必要もありませんし、私の発信は教団の公式見解とは異なる場合もあろうかと思います。
ここでは、教団や宗派に関わらず、より広く日蓮の思想や生涯について議論できる土壌を少しでも耕すことができれば、との思いで書いています。
また学術的な関心から探究したり、学問的探究が信仰の深化に寄与するとも考えますが、学会教学については、公式見解に基づいて地域のメンバーと学び合う場に参加しているため、あえてnoteで披瀝する必要もないと思っています。
実際、教団組織の現場で活動していればわかることですが、部員は、日々の多忙な生活のなかで、こつこつと、御書講義や学習会、あるい地元の組織の部員と個別に勉強し合ったりしています。ネットやSNSで創価学会員を名乗り学会教学を語る人はいますが、それは少数派であると私は理解しています。