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31歳、泣きながらお手玉で遊ぶ

私は今まで、お手玉遊びができなかった。


基本的なお手玉遊び

3つ以上になると難しいけど、2つなら難なくできるという人が多いだろう。
だが、私は2つのお手玉すらできないのだ。
齢にして、31歳である。

小学生のころ、お手玉遊びが流行った。だが私はできないので、友達がやっているのを見ていただけだった。
自分も仲間に入りたくてやってみたが、できなくて諦めてしまった。
自分でも何でできないのか分からなかったが、何度やってもできないから本当に分からなかった。
なんでみんないとも簡単にできていたのか、意味不明だった。
ボーっとしている子だって、さらりとこなしている。
なんでできないんだろう、私がおかしいんじゃないか。
親にも散々教えてもらった。「お手玉をよく見て!ほら!」と実際に見本を見せてくれたものの、一向にできる気配はなかった。
そうしているうちに、親にも諦められてしまった。
この頃にはお手玉に対しての苦手意識がエベレストくらいになっていた。
そして、いつからかお手玉を避けるようになった。

お手玉というコンテンツは大人になればなるほど避けやすかった。
私の世界の中にはお手玉は存在しない。
万が一お手玉をさせられる機会があれば、「私、不器用なんで」とごまかせばいい。
日常生活で何ら困ることはなかった。

だが、ある時ふと気が付いた。
私は、物をつかむことが苦手なのだ。

置いてあるものならつかむことができるが、動いているものをつかむ能力が著しく低い。
しっかり対象物を見ているつもりだが、どこに来るのか予想できない。
距離もどれくらいか予想がつかないので、高頻度で物をつかみ損ねてしまうのだった。

これはどうやら空間認知能力が備わっていないのでは、と考えた。
空間認知能力とは三次元空間における物体の状態や関係を、すばやく正確に把握する能力のことである。
確かに子供のころのドリルで図形やブロックの問題が大嫌いでやらなかった。
親もやりなさいとは言ったものの、あまりにも私がやりたがらなかったのでそのままにしたようだ。
また、私は極度の方向音痴で、地図が全く読めない。自分がどの方角を向いているのか全く分からないのだ。
今はGoogle mapなどの現代の力をお借りして、どうにか目的地にたどり着けるようにはなったが、スマホの充電が切れたら終わりだ。
このように、空間認知能力がないことで日常に支障をきたしている。そこで、自分なりにトレーニングしてみようと考えた。

しかし。いきなり空間認知能力を上げようと思っても、どうしたらいいのか分からない。そこで、他人にアドバイスを求めた。
すると「ジャグリングがいいらしい」という有益な情報を手に入れた。
ほう。ジャグリングか。いきなりは無理だから、お手玉から始めてみよう、と思い立ち、お手玉にもう一度挑戦してみることにした。


ボールジャグリング

何年越しの再挑戦だろうか。たぶん25年は経っているだろう。
ずっと嫌で避け続けてきたお手玉との再会。
100均でお手玉を探したが、軽いボールしかなかった。まあいい。今の私にとってはこれがお手玉だ。
少し軽すぎる気もするが、とりあえずやり始めることが重要なのだ。

早速挑戦してみた。
まず一つを投げて両手で回していく。これはさすがにできた。
お手玉を上に投げて、片手でキャッチしたらそれをもう一方の手にわたす。
それだけ。それだけでいいのだ。

二つで挑戦してみた。ダメだった。一つを上に投げている間にもう一つをわたすことができない。
あの頃と何ら変わっていなかった。
やはり人は基本的には変わらないのだ。

何回かやってもできずにいたら、ずっと見ていた夫が
「見ているところが違うんじゃない?」と教えてくれた。
お手玉が一番高く上がるところさえ見ていたら落ちてくるところが分かるから、そこだけ見ればいいとのこと。
その時、私は上げたお手玉が落ちる瞬間まで見ていたことに気が付いた。
確かに、最後まで見続けなくても落ちてくる場所は分かる。完璧に分からなくても、つかむことはできるのだ。

それに気づいてからは、一瞬だった。
ついに、お手玉遊びができたのだ。
私の負の25年間が、一気に浄化された気になった。

何度かやっているうちに、テンポよくできるようになった。
すると私はおいおいと泣いてしまった。
今までできなかった自分への苛立ちや、自分から輪に入れなかったこと、なんでできないの?と親からがっかりされたこと…
色々な負の感情が自分の中を駆け巡った。
けど、紛れもなく今できたのだ。
自分で、自分が。
全くすごいことではないし、
なんで今まで気が付かなかったんだろうと不思議だったが、
それよりもできたことの喜びが全身を満たした。
思わず夫に抱きついて、声を上げて泣いた。夫はよかったよかった、とほほ笑んでくれた。
なんて優しい人だろう。私の大切な恩人で、パートナーだ。
そう思うと更に泣けてきた。
何なら書いている今も、ちょっと泣きそうになっている。

大げさだ。何でこれくらいのことで大の大人が号泣しているのか。
だが、私にとっては大きな一歩だった。
私の世界にお手玉が加わった。
今まで無視してきて、ごめんなさい。

私がお手玉ができるようになったのは「視点を変えた」これだけだ。
今まで一生懸命落ちてくるお手玉を見ていたが、高く上がった一点だけで見ていればよかったのだ。
なぜ気付かなかったのか、それは私の能力が低かっただけなのか、指摘してくれる人がいなかったからなのか、
あるいはそのどちらもなのか、
考えてもわからない。けど今気づけてよかった。
普通の人より25年ほど遅れをとってしまったけど、できたからいい。私がいいと思ったらいい。

私は見ての通り不器用で、どんくさい人間である。
だからこそ、こうやってありのままの自分をさらけ出している。
恥ずかしい。とても恥ずかしい。自分で自分を丸裸にしている気分だ。
けど、だからこそ私は書き残す。
これからの私は何ができるのか、まだ分からない。けど、とにかく今の気持ちを書いておきたい。
そのせいで自己嫌悪に陥ってしまうこともあるけど、それでも残したい。
そう思って、この文章を書いた。

「視点を変えること」これだけで見えてくる明日があるのかもしれない。
と、エッセイスト気どりでしめくくろうと思う。

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