見出し画像

ビートルズ風雲録(23) 1961年の輝き

悩みや問題を抱えながらも、ビートルズの活躍は続きます。
1961年には、こんなことがありました。


6月22日・23日:「マイ・ボニー」をレコーディング!

この日、のちにブライアン・エプスタインとビートルズを結び付けたレコードとして有名になる「マイ・ボニー」が録音されました。
場所はハンブルクのフリードリヒ・エーベルト・ハレ。
いわゆる録音スタジオではなく、多目的ホールです。
「フリードリヒ・エーベルト・ハレ」をネット検索してみると、クラシック音楽のCDに録音場所としてクレジットされている例が数多くヒットします。
音響がよいと評判のホールのようです。
オーケストラが演奏するステージですから、小さくはありませんね。そんなところで、レコーディングが行われたのです。

メイン・ボーカルは、トニー・シェリダン。

この年の4月1日から、ビートルズはハンブルクにあるトップ・テン・クラブで公演活動をしていますが、同じく、すでに人気歌手となっていたトニー・シェリダンも同じクラブで活躍していました。
時には、ビートルズがトニー・シェリダンのバックバンドを務めるときもありました。

その演奏を見たレコード会社のプロデューサーが「これは行ける!」と思ったらしいのです。

そして1961年10月、「マイ・ボニー」のシングル盤は「トニー・シェリダン&ザ・ビートブラザーズ」 のクレジットで発売されます。

ポール・マッカートニーは、後にこう語っています。

レコード会社は僕らの名前が気に入らなくて、「ビート・ブラザーズに変えてくれ。そのほうがドイツ人にはわかりやすいから」と言ってきたんだ。
こちらもそれに従った。

一方イギリスでは「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売されました。しかし、それは1962年1月のことになります。

7月6日:マージー・ビート 創刊

リバプール美術大学の学生、ビル・ハリー がマージー・ビート紙の発行を開始します。
創刊号には、ジョンが書いたビートルズ誕生の物語が掲載されました。
この創刊号、印刷した5000部が完売。上々のスタートです。
ビル・ハリーは、地元レコード店のNEMSでもマージー・ビートを販売してもらうおうと、ブライアン・エプスタインに掛け合います。
エプスタインはまず12部を仕入れて販売。その後、注文は12部から12ダースへと、たちまち増えていきました。
ビル・ハリーはビートルズのファンでもあり、そのため、ビートルズは頻繁に紙面に登場することになります。

NEMSの店主は、ブライアン・エプスタイン。
この段階で、ビートルズの名前くらいは知っていてもおかしくないですね。

10月28日:レイモンド・ジョーンズ、『マイ・ボニー』をNEMSに注文する!

さて、ここでブライアン・エプスタインとビートルズが結び付けられる歴史的なエピソードの登場となります。

そのエピソードとは……

ある日、レイモンド・ジョーンズという一人の青年がブライアン・エプスタインの店に現れ、ビートルズの『マイ・ボニー』のレコードを注文する。
しかし、エプスタインは、そのレコードのことも、ましてやビートルズのことなどは全く知らない。
ただ、なんとなくピン!と来るものがあった。
興味をもって、彼らのキャバーンでのライブを見に行って、それは確信に変わる。
「これは化けるぞ!」
すぐさまマネージャー契約を結び、これがビートルズの世界制覇への第一歩となった。

ざっと、こんな感じです。

さすがにこれは出来すぎだろうと、様々な考察がなされました。
まず、レイモンド・ジョーンズという人物は実在したのか?
その人物が店に現れるまで、地元レコード店の経営者たるブライアン・エプスタインが、当時すでに巷で人気だったビートルズを知らない、なんてことがあり得るのか?

エプスタインは、その自伝に以下のようなことを書いています。

1961年10月28日、土曜の午後3時頃、レイモンド・ジョーンズという18歳の青年が、ジーンズと黒の革ジャンといういでたちでリバプールのホワイトチャペルにあるレコード店に入ってきた。
「欲しいレコードがあるんだ。曲名はマイ・ボニー。ドイツで作られた」
カウンターのうしろにはここの店長、27歳のブライアン・エプスタインがいた。
彼は首を振って「誰のレコードですか?」と尋ねる。
「聞いたことないの?」レイモンド・ジョーンズは答える。
「それはビートルズというグループのレコードだよ」

私はレイモンド・ジョーンズの注文を書き留めた。彼は店を出て行った。
メモに「マイ・ボニー、ザ・ビートルズ。月曜にチェック」と書いた。

まず、レイモンド・ジョーンズという青年ですが、後年、その実在が確認されました。
彼は熱心なビートルズファンで、彼らの演奏を聴くために、当時、何度もキャバーンに通っていたそうです。
しかし、そもそも「ビートルズのマイ・ボニー」というレコードの存在をどのようにして知ったのか?
後年、2010年8月、レイモンド・ジョーンズはビートルズを紹介するサイトのインタビューで、そのときのことを以下のように話しています。

私の義兄だったケニー・ジョンソンは「マーク・ピーターズ・アンド・ザ・サイクロンズ」というバンドのリード・ギターをやっていたんです。
私は、彼からビートルズがドイツでレコードを制作した話を聞きました。
次の土曜日、私はNEMSレコード店へ行き、ブライアン・エプスタインに、そのレコードのことを尋ねました。
彼は、私に質問し始めました。
「彼らのグループ名は何て言うの? どこで演奏したの? どんなタイプの曲を演奏したの?」

1961年10月にドイツで発売された、トニー・シェリダン&ザ・ビートブラザーズによる『マイ・ボニー』。
このレコードが「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売される2カ月も前に、レイモンド・ジョーンズは「ビートルズの演奏するマイ・ボニーってレコードが欲しい」とブライアン・エプスタインに尋ねているのです。
この問い合わせに、
「あ、それはトニー・シェリダンのレコードで、ビートルズはバックバンドとして演奏しているだけだよ。しかもドイツ人がビートルズって名前がなんだかエッチな感じがするって言って、むりやりビートブラザーズって名前に変えられてクレジットされているんだ。ちょっとしたレアものだよ」
なんて答えられるトリビアな人は、まだおりません。

「マイ・ボニー、ザ・ビートルズ。月曜にチェック」とメモするエプスタイン。
とりあえずメモしておいて、月曜日に調べてみよう。
ビートルズの「マイ・ボニー」か……。ドイツで発売されたのか。
そういえば、聞いたことがあるぞ、ビートルズ。
あ、マージー・ビートに載っていたね。
そうだ、そうだ。ちょっと見に行ってみようか。

そんなところが本当だったかもしれませんね。
意識し始めたとたんに、すでに周りに満ち溢れていたビートルズの情報が押し寄せてくる。
そして11月9日、昼の公演で両者は出会います。

エプスタインはドイツで発売されたマイ・ボニーのことをメンバーに尋ねたのでしょう。
「それは、トニー・シェリダン&ザ・ビートブラザーズって名前で出ているレコードさ」
なんて、教えてもらったのかもしれません。
早速エプスタインはドイツのポリドールに、そのレコードを発注します。

すっかりビートルズを気に入ってしまったブライアン・エプスタイン。
その後も頻繁にキャバーンに足を運びます。
そして翌年の1月末。期間5年の正式なマネージメント契約を結ぶこととなるのです。

1961年、最大の出来事。
ビートルズとブライアン・エプスタインが、こうして出会ってしまったのです。

(つづく)


いいなと思ったら応援しよう!