我が人生は

最近SNSに疲れてしまったなあと感じていましたが、
時には本当に欲しい情報が落ちていたりもするのですね。
こう感じていることに、時代の変化を感じていたりもします。
今と昔ではもののあり方や価値も変わってくるものなのかと
時間の流れが儚いものでありすぎて、常にちょっとした寂しさを噛み締めています。
今この時間も、今しかない価値がある。
思い出すことは出来ても、取り戻すことはできないから。
大切にしたいなあ。

この度私が取り上げたい話題は、「両価性」について。
両価感情、英語ではアンビバレンスと呼ばれています。
一つの事象に対して、相反する2つの感情を同時に持つことを指します。
「やめたいけどやめられない」「好きだけど嫌い」「賛成だけど反対」
要は自己矛盾のことです。
多くの人がそういった感情を抱いたことがあるのではないでしょうか。
私がこの言葉で納得したことがあります。
優柔不断とも取れるこの感情ですが、それが起こるということは意思がが弱いとも取れてしまいます。
人間の根本的な人格形成が行われる期間に、意思を示す機会を得られなかったり、何らかの原因により意思を示すことができなかったことによって成長しても自分の意思・意見を持つことができなくなります。
ほとんどの人間、全員と言っても過言ではないほど、幼少期の感情や経験がその後の人格を成り立たせているのではないでしょうか。
自分の意見を持つということはいかなる場面でも求められることですが、そう言ったことは家庭・学校教育双方で幼少期に癖つけることが本来は必要。
子どもの生活というのは、ほとんど学校と家庭のみ。
その半分で親や教師の言いなりになっていたら、仮に片方の環境で意思を持てていても、その効果も半減または全滅してしまうのだと思うのです。


意思がないということは、何が自分の本心かわからなくなる。
直感が頼りにならないのです。
この両価性という言葉が今の私の現状を説明してくれたように感じました。
自分が矛盾してる感覚に陥ることの苦しみは、みんながみんな理解できるものではない。
それを誰かのせいにしたくなんかないのに、原因を辿ってみれば自ずと答えらしきものが見えてきてしまった。
こうして他責思考に陥っては自己嫌悪を抱き、自分の中で目まぐるしく起こる矛盾はだんだん大きくなる。
その悪循環が永遠に続いていく。
時には考えすぎて訳もわからない、本心でもない別の考えが生まれてくる。
全てが排他的になって、どうでもよくなって自暴自棄になる。
それが本心ではないことはわかるのに、自分の中にあるいくつもの考えの候補の中でどれが自分の本心なのかはわからない。選べない。
本当の自分を見失い続けると先行きが不安になります。
もっとシンプルに生きたいのにね
きっと考えても仕方がないのでしょうけど、考えないとわからない。
実際考えてもわかっていないけど。
本当は自然と生まれるはずなのに生まれないんですから困ったものです。
意見を聞かれても一つに絞れない。
これから社会に出たらどうなってしまうのだろうか。
これまでnoteで色々書いてきて、あたかも確固たる自分の意見かのように書いてみたものの本当は自分でこう思いたい、こうであればいいのになという願望なのかもしれないですね。
少なくとも心から自分に対してそんな希望を持てたことはないのですから。
綺麗事で結局は曖昧に蹴り付けて、また迷子になる。
怖い。
あれもこれもって。
でも納得のできないことは全く理解はできないし受け入れられない。
めんどくさくて仕方ないです。
今の自分という人間が。
今というか今までずっと。
もうどうしようもないところまで来てしまいそう。
焦燥感と恐怖とに襲われて
自己嫌悪
ここまできたらもう盛大に笑ってやりたいですね。
どこまで行っても我が人生。
誰がどう言おうと我が人生。
時間があっという間に過ぎるように、
すぐに楽になれるでしょう。
多くの人がどうか幸せに、穏やかに過ごせますように。

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